悶々とひとり悩んでいるうちに、あっという間にその日がきた。
荒れませんようにとの祈りが届いたのか、前日まで強風で白波がたっていた海は、今は穏やかだ。

日が暮れてきた為、わたしは着物に袖を通し、鏡台の前に座る。この着物はわたしがこっちに来るときに、ユキが与えてくれたものだ。"紅掛花色"――艶やかな明るい青紫色の着物で、わたしに似合うだろうからと言っていた。大事な時に着ようと思って今までしまっておいたが今日、着ることにした。
髪を結う。彼に助けられたあの日から考えると随分伸びた。派手に飾り付けるのはあまり好きじゃないから、簪でまとめるだけにする。サツキのくれた簪だ。

「ふぅ…」

心臓の音がやけに大きく聞こえる気がする。なにしろ、こうやって誰かを待つというのは初めてだ。夜こちらに着くということしか聞いていないため、はっきりとした時間が分からないから余計に緊張が増す。だからといって、それまで心此処に在らずの状態で仕事をするわけにはいかない。

立て掛けてある三味線を手に取る。そろそろ開店の時間だ。


「シャナちゃん、いいねー。その着物」
「ありがとうございます」

常連のお客さんと話ながらも、心は落ち着かない。いつわたしが呼びにこられるか、襖の方ばかりを気にしていた。三味線はなんとかミスなく弾けたが、ユキがいたらどうしたのと普段との違いに気付かれていたに違いない。
お客さんにバレないよう、ふぅと小さく息を漏らしたところで、するりと控えめに襖が開いた。

「シャナさん」

きた。きてしまった。

「ごめんなさい。失礼しますね」
「おお、ご指名かい?いいねー、シャナちゃんを独占できるなんて」
「いえいえ…そんなこと」

あとを他の子に任せて、わたしは部屋を出た。向かうはこの店で一番良い部屋"夕月"。今夜わたしにお客さんが来たら、そこへ通すように頼んであった為、彼はもう部屋にいるはずだ。

歩きながら思い出すのはあの日のこと。あの日も、部屋で待っている彼の元へとわたしは歩いていた。あの頃は、自分がいつ死んでもいいと思っていた。それが、今は。


「失礼します」

ゆっくりと襖を開けると、窓の外へ目を向けていた彼がこちらを向いた。

「ようこそお越しくださいました」

緊張で少し声が震えそうになりながらもなんとか言い終えて、下げていた頭を上げると彼は少し困ったように笑った。

「いいのに、そんな改まんなくて」
「いえ、お客さまですので」

そう言って彼の側に座ろうとして、すでに料理が運ばれていることに気がついた。おそらく、わたしと彼がすぐにふたりきりになれるようにと、事情を知る子達が気を回してくれたのだろう。有り難いのは有り難いが、緊張をほぐす暇もない。
酌をしようとして、ふと視線を感じて顔を上げる。

「どう…しました?」
「ん?なんていうか…変わったね。勿論、いい方に」
「…皆さんのお陰です」

助けに来てくれた革命軍、サツキやユキをはじめとした店の皆、そして今目の前にいるこの人。

「貴方がいなければ、今のわたしはありませんでした」

ゆっくりと言葉を紡ぐ。早まっていた心音は、いつの間にか落ち着きつつあった。
酒を注いで彼に渡そうとしたら、彼はそれを手で制す。どうしたのだろうかと思っていると、彼は身体をこちらに向けて少し姿勢を正した。

「伝えたいことがあって、今日来た」

つられてわたしも姿勢を正す。頭の簪がしゃらりと鳴った。

「あの時は、やっと自由を手に入れたばかりの君を…シャナを連れ去ることなんてできないと思っていた」
「え…」

唐突に告げられた思いは、わたしの全く知るよしのないものだった。頭が意味を理解するより先に、彼は言葉を続けた。

「それは今も同じだ。おれば革命軍で、シャナはこの店で働いていて、それぞれ歩く道が違う。この道が交わることはない、だろうな」

その通りだ。世界が違う。交わることは、ない。

「それでも、おれはシャナを想う」

わたしが言えないと仕舞い込んだ言葉を、彼は優しく紡ぐ。溢れてきた涙に、目の前の彼が滲んできた。ついこの間彼の前で泣いたばかりだというのに。

「会いにくる。…そんなにたくさんは来れねぇけど。ここで待っていて欲しい」

涙が流れて、俯いた。そんなわたしを覗き込む彼の表情は柔らかい。

「返事、聞かせて」

顔を上げる。窓からは月明かりが差し込んでいた。あの日と同じ、満月。

「待って、います。……わたしも貴方が…好き、です」

つっかえつっかえのわたしの返事を聞いた瞬間、ふわりと彼に包まれた。
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