「シャナさん、今夜は嵐で海が荒れるって街の人が言ってました」

昼下がりの現在、既に風が強くなり始めている。晴天だった空も、いつの間にかどんよりと厚い雲に覆われてきた。わたしは店の入り口の引き戸から出していた顔を引っ込める。

「そうみたいだね…」

夜が明けるまで嵐は過ぎないだろうということは、わたしも仕入れの業者さんから聞いていた。当然、他所から船が来ることはないだろうし、街の人達もわざわざ出歩いたりしないだろう。開店から休みなしだったから丁度いい。

「今日は店お休みにするって皆に伝えてあげて」
「はーい。シャナさんたまには、ちゃんと寝てくださいよ?昨日も遅くまで部屋に明かりついてましたよね」
「う…。はい」

昨日サツキにも言われたばかりなのに、仲間からも指摘を受けてしまい思わず小さくなる。本当に、今日という今日はきちんと寝よう。
ガタガタと窓が鳴った。風が強いなと視線を向けたら、窓の外側には水滴がついていた。いつの間にか雨が降ってきたらしい。

「シャナー。三味線の練習付き合ってくれる?」
「あ、うん。ちょっと取ってくるね」

声をかけられて、三味線を取りに自室に戻る。ここはサツキ屋本店ほど部屋数はないけれど、三階建てのこの建物の一階は丸々従業員の部屋ということにしている。
立て掛けてある三味線を取ろうとして、横の新聞が目に入る。ついついここまで持ってきてしまったそれを、今でもときどき開いている。記事の内容は勿論、本文まで覚えそうなほど繰り返し読んできた。ここでは新聞を取っていないので、日課だった新聞チェックは一ヶ月くらいできていない。
彼の情報が知りたい。その為だけに新聞を取ろうと思うのは、動機としては不純だろうか。


「ねぇ、サボくん着いた!?」
「まだだけど。どうしたの昨日から」
「今日中に来てよ!?」
「いや、嵐だからね」

現在、船はコアラ達がいるひとつ前の島に停泊中だ。ここは先程嵐が過ぎ去ったばかりで、海は穏やかだ。

「何で嵐と一緒にそっちに行くんだよ。おかしいだろ」
「そうだけど。そうなんだけど!」

彼女は昨日からえらく必死だ。何故なのだと理由を聞いても、あーとかうーとかで話してくれない。それでもどうしても食い下がってくるから、仕方ない。

「わかったよ。明け方には着く。それでいいんだろ?」
「う、ううーん。明け方…かぁ」

朝早かったらなんとかなんとか、とコアラが小さい声で呟くが、向こうの風の音で聞こえなかった。そんなに風が強いのによく帰ってこいなんて言えるよなと思う。

「明け方でぎりぎりだ。それより早くも行けねぇし、遅かったら直接向こうで合流になる」
「わかってるよ…。じゃあ、気をつけて来てね」

なお不満そうな声色ながらも、あぁと返事をして通話を切った。理由は言えないけど早く来いだなんて、いったいどうしたというのか。
部下達に、夜中に出る旨を伝えなければならない。自室から出てふと空を見上げると、雲は消え晴れ渡っていた。


雨や風の音で眠れないかなと思っていたが、その心配は杞憂に終わった。大人しくいつもよりもかなり早い時間から床に入ったわたしは、すぐに意識を手放したらしい。一度も目が覚めることなく夜明けを迎えた。
久方ぶりにぐっすりと眠れた気がして時計を見ると、まだ早朝。村にいた頃はいつもこのくらいの時間に起きて両親を手伝っていたなぁ、と少し懐かしく思った。

自室の丸窓から顔を出すと、外は少し霧が立ち込めていた。このしっとりとした空気は嫌いじゃなかった。雨と風はすっかりおさまっていて、嵐は過ぎ去ったようだった。霧の合間に、澄んだ朝の月がちらりと覗く。
ふと海が見たくなって、わたし寝巻きを脱いで着物に袖を通した。村にいた頃も、サツキ屋本店にいた頃も、雨の後の凪いだ海を見るのが好きだったからだ。

サツキ屋本店とは違って、ここは港から離れている為に少し歩かなければならない。その際に、表向きは新聞社となっている革命軍の基地の前を通ってみた。見上げても、いつも窓には全てカーテンがかかっていて何も見えないけれど、わたしはここに来てから何度もそうしていた。

港には船が着いていた。嵐を避けて来たのだろうなぁ、と思いいつ海へと視線を向ける。昨夜は白波がたって荒れていたであろうそこは、どこまでも穏やかだ。霧も晴れてきたから、遠くまで見渡せた。やはり海は心が落ち着く。


柔らかな海風が止んだ。
ザッと足音が聞こえて、その方を向く。
早朝のこのしっとりとした独特の空気は、幻想までも生み出してしまうのか。否、幻想ではない彼はわたしと同じように瞬いて、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
会える可能性がある。そんな淡い淡いぼんやりとした期待が今、はっきりと形になったことを頭はゆっくりと理解していった。

「驚いた…」

わたしは声が出なかった。目の前に、会いたいと焦がれた人がいる。
記憶の中の彼はいつも夜だった。でも今は早朝で、月はわたし達を照らしてはいないけれど、空に在る。彼の声も、姿も記憶の中と同じ。

「今は…こっちにいるんだ?」

彼はそう言って少し笑った。その言葉から、わたしのことを覚えていてくれたことがはっきりと分かる。未だ声が戻ってこないわたしは、何度も頷いた。そんなわたしを見て、彼はまた少し笑う。
優しい笑みに涙が出そうになったが堪えた。泣くよりも先に、どうしても言わなければいけない。あの時言えなかったことを、どうしても。

「その節は…ありがとう、ござい…ました」

口に出している途中でするりと涙が流れ落ちてしまって、慌てて俯いた。ぽたりぽたりと地面を濡らすのを見ていると、頭にそっと温かい何かが置かれた。
登り始めた朝日が地面に作り出した影によって、それが彼の手だということがわかると、よりいっそう涙が溢れる。

「うん」

彼はわたしの言葉にそれだけを返してくれた。それで充分だった。彼のおかげで、もう失うことのないわたしの自由はここにある。

わたしが泣き止むまで、頭に感じる温かさはいつまでも離れずにいてくれた。
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