※社会人設定
晩御飯を食べて、特に見たいテレビもなくて、読みたい本もなくて、何もすることが見つからなかったわたしは、たまには早く寝ようとお風呂に入った。
いつもはシャワーで済ませるけれど、今日は湯船にお湯をはってお気に入りの入浴剤を入れた。せっかくの土曜日に、突然の休日出勤でへとへとになった身体を癒したかったからだ。いつもよりゆったりとお風呂に入って、パジャマを着たところで唐突にインターフォンが鳴った。
午後9時。こんな時間に訪ねてくるのはいったい誰か。髪からの水が滴らないように、肩にタオルをかけてから覗き穴から外を見る。そこから見えたのは、わたしのよく知る人だった。けれど、そこにいるはずのない人。
「え…、なんで?」
ドアを開けて発した第一声は本当に自分の素直な気持ちだけれど、あぁ可愛げがないなと頭の隅の方で思った。
「こっちに出張だったから、来ちゃった」
泊まっていい?と言いながら既に靴を脱ぎ始めるのは、わたしの彼氏――及川徹。
この春で遠距離になって丸二年。初めの頃はお互いがんばって行き来していたけれど、ここ最近は本当に会う回数が減っていた。正直な話、前回はいつ会ったのかさえ曖昧だ。二ヶ月前かそれとも三ヶ月前か。
「もうお風呂入ったの?早いね」
「うん。…徹、ご飯は?」
来ると一言連絡を入れてくれていればきちんと用意したのに、と思いながら聞くと、徹はゆるりと首を振った。
「もう食べた。ナマエに、ここより先に実家に寄りなさいって言われる前に、行ってきたからね」
あぁ、そうなのか。先に実家に顔出しなよ、というこれまた可愛げのない言葉をいつ口にしようか迷っていたところだ。
「いつむこうに帰るの?」
ネクタイを解いて、徹はごそごそと荷物を漁っている。風呂の準備をしているようだ。
「明日の昼かな。夕方からは天気が荒れるって言ってたからね」
「そう」
じゃあ、お風呂借りまーす、と徹は脱衣所に消えていった。
ふぅと我知らずため息が漏れる。明日の昼。寝て、起きたらきっとあっという間だ。そしたら徹は帰ってしまう。元に戻る。次にいつ会えるか、保証はない。
バシャッと湯の音が聞こえたので、今のうちに髪を乾かそうと脱衣所に向かう。徹の脱いだ服を洗濯機に突っ込んで、ドライヤーを手に取る。徹に会わないこの二、三ヶ月の間に切った髪は、そういえば何も言われなかった。乾かして、歯磨きをして、ソファーに置かれた徹のスーツの上着をハンガーに掛けて、電気も消して、わたしはベッドに入った。
目を閉じる。このまま寝て、起きたら昼でいつの間にか徹が帰っていたら、行ってらっしゃいと見送るよりも寂しくないだろうか。そんなことをぼんやり思っていたら、足音がして突如布団が無くなった。ギシリとベッドが軋む。
「もう寝るつもり?」
目を開けて、闇に慣れるまで数回瞬く。わたしに覆い被さった徹は上の服を着ておらず、髪も乾かしていなかった。髪からの雫がぽたりとわたしの頬に落ちてくる。わたしは徹の問いには答えずに、髪に手を伸ばす。
「髪…濡れてるよ」
「部屋が真っ暗だったから、寝るのかと思って急いできたんだよ」
そう言う声は、勝手に電気を消したわたしを1ミリも責めていない。むしろ柔らかかった。それはきっと愚かで可愛いげのないわたしの心を見抜いているからだ。
「髪切ったんだね」
「うん。…嫌?」
「んーん、好き」
ぽたり。また徹の髪から雫が落ちた。左の目元に落ちたそれは、ふと唐突に溢れてきた涙と混ざって流れていく。
「何で泣くのさ」
少しだけ笑いながら紡がれる言葉は優しい。どうせ泣いている理由は分かっているんだから、聞かないでほしい。
「寂しいなら寂しいって言えばいいのに」
そんなこと絶対に嫌だ。お互いに仕事を抱えていて、距離も遠いのにそんなわがままは言いたくない。けれど、言いたくないだけで寂しいのは寂しいし、それは消えてくれない。そんな時、気持ちを隠すように可愛げのない行動をとるのを、徹は見抜いている。
「言ったって、何も変わらないでしょう?」
今だってそう。うん、寂しいよって言えばきっと可愛いのに、わたしにはそんなこと言えない。だって変わらないのだ。寂しいと言ったところで、徹は明日の昼には帰る。次にいつ会えるかは分からない。二ヶ月後か三ヶ月後か、はたまたもっと先か。その事実は変わらない。
「そんなことないよ」
ぽたり。また雫が落ちる。徹がわたしとの距離を詰めるように動いたから、今度は首筋に落ちた。小さな冷たさに、少し身じろぎする。
「もう及川さんに会いたくないーってほど、濃い夜にしてあげることくらいできるよ」
首筋の水滴を舌でなぞられる。柔らかなその刺激に身体が勝手に震えて、また一筋涙が流れた。
「会いたくないとか、ならない…から」
珍しく素直な思いを口にする。うん、知ってると徹は優しく笑った。
青い夜のゆくえ
title by 星食
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