生まれてこなければよかったのに。
大地主の妾(めかけ)の子であったわたしは、物心ついた頃にはもう周りからそう言われて育ってきた。もう要らぬと地主に捨てられた母であった人は、真冬の川へと身を投げた。あぁ、わたしも行ってしまおうかと川を見つめたけれど、激しい激しい水流が恐ろしくて行くことができなかった。できなかった為に、あの時飛び込んでいればどんなに、と思うほどの経験をたくさんした。
「ちょいと、顔はやめたげなさいよ」
「仕方ないわね」
今だってそうだ。あぁ、あの時死んでいれば。
「及川様に貰われるだなんて。ただの住み込みのくせに、この子どんな卑しい手を」
そんなのわたしは知らない。その及川様にも会ったことなんてない。突然告げられた嫁ぎ先だ。わたしの方が理由を説明してほしいくらいだというのに。
ぴしりと左肩に衝撃が走った。火傷のようなひりひりとした痛み。目の前の女に革の鞭で叩かれた。この鞭で本気で叩かれたらこんなもので済まないことを、わたしは知っている。こんな女の力じゃ、わたしの薄い着物でさえ破けない。
「な、なによ」
ゆっくりと視線を目の前の鞭を振った女へ向ける。丁度その時、わたしを拘束していた縄がゆるりと解けた。わたしが解いた。折檻の真似事など、わたしには何も恐ろしいことはない。
「待ちなさいよ!」
物言わず通り過ぎたわたしの左肩に、再びぴしりと鞭が打たれた。
わたしは歩みを止めずに、引き戸のつかえ棒を抜いた。
「気味が悪い…」
そのまま出て行くわたしの背後で隠すこともなく漏れでた声は、もう聞き飽きたものだった。
「ねぇ、名前は?」
あってないような婚姻の儀式の後、一枚の着物だけ持たされて、わたしは追い出されるように"及川様"の家に来た。
布団の並んだ広い広い寝室で、わたしは彼と向かい合って座らされている。
「好きに…お呼びください」
目を伏せて、それだけ言う。かつて名を付けてくれた人は、今はこの世にはいない。あの人が川に飛び込んで以来、わたしは誰にも自分の名を教えたことはなかった。
「ね、こっち見て」
わたしの返事に、彼は気を悪くした様子もなくそう言った。拒む理由もなかったから、わたしはゆっくりと視線を上げた。
「あぁ、初めて目が合ったね」
婚姻の儀ではずっと彼の隣にいたから、こうして視線を付き合わせたのは確かにこれが初めてだ。改めて見れば、とても綺麗な人だ。綺麗という言葉が正しいのかは分からないけれど。
彼がわたしとの距離を詰めた。わたしは反射でほんの少し身を固くする。すると彼はくすりと笑った。
「大丈夫」
そっと着物合わせ目に手を掛けられた。振り払おうとすればすぐにできるほどの力で。咄嗟にぴくりと動いたわたしに、彼はまた小さく「大丈夫」と言った。その大丈夫が意味するところはなんなのか。
肩まで露になったところで彼はあぁ、とひとつ頷いた。するとわたしから離れて、ごそごそと何やら木箱を抱えて戻ってきた。
「あ…」
月明かりに照らされたそれが薬箱だと分かって、わたしは小さく声を漏らした。
「肩、たまに痛そうにしてたから、そうかなとは思ってたんだけどね」
彼はそんなことを言いながら、塗り薬をその長い指に取った。いつ気付いたのだろうか。確かに痛みはあったけれど、表情になんか出てなかったはずだ。
「自分で、」
「だーめ。塗りにくいでしょ」
薬へ伸ばした手は、あっさりと止められた。優しく撫でるように、傷口に薬が塗られていく。その感覚がなんともいたたまれなくて、わたしは顔を逸らして畳に視線を向けていた。
「はい、おしまい」
はだけていた着物は、彼によって元に戻された。わたしは逸らしていた視線をおずおずと彼に向ける。ん?と小さく首を傾げた彼に、実にぎこちなく頭を下げた。誰かにお礼など言うこともないから、とても下手くそなそれを、彼はどういたしましてと笑って受け取ってくれた。
「おいで」
目の前で小さく手を広げた彼の元へ行くのを拒む理由はやはりないけれど、どうすればいいのか戸惑った。命令と呼ぶには優しすぎるそれの選択権は、きっとわたしにある。その事実にどうにも慣れない。視線をさ迷わせて動かぬわたしを、相変わらず彼は怒らない。
「君から来てくれるまで待ってるよ」
けれど少し悪戯な声音でそんなことを言う。彼が手を伸ばさずとも届く距離にいるわたしに、来いという意図はいったい。そちらに心を許せということなのか。視線を上げると、彼はゆるりと笑ってほんの少し目を細めた。心臓が、ひとつ波打つ。理由は分からない。
ゆっくりと左手を彼へと伸ばす。肩が着物で擦れても、もう痛くなかった。伸ばした手で、彼の羽織りを緩く掴む。わたしにはこれが限界だった。
「もう心配いらない」
ふわりといい匂いがして、彼の腕に包まれた。とんとんとあやすように背を叩かれる。もう誰もそんなこと、してくれないと思っていた。
「これからは、俺が君を守るよ」
あぁそうか。彼が、わたしを、ここに。ふと気付けば何年も流すことのなかった涙が、ぱたりぱたりと着物を濡らしていた。
流水に帰さずとも
ねぇ、名前は?と彼がもう一度聞いてくれる。
わたしはもう誰も呼んでくれないと思っていた自分の名を、そっと囁いた。
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