Terra. ─1─


とぽとぽ、と静かな店内に音が溶け込むように響く。
優しく注がれる音色に合わせて柔らかく広がる珈琲の芳醇な香りが心を落ち着かせる。
全体的にナチュラルウッドなテイストのこの店には、様々な色を持つ生花が飾っており、建物の造りはシンプルなのに視界は常に飽きない。

ゆったりとしたBGMと珈琲を注ぐ音、時折店内のクリアケースの中に入れている珈琲豆を掬った時のシャラシャラとした軽い音、それから珈琲のお供に、と提供する軽食を作る音……それらを聴いていると、この喫茶の唯一のアルバイターである万宮(まみや)は酷く穏やかで幸せな気分になるのである。
働きに来ているのにこんなにものんびりと仕事をさせてもらって良いのか、と逆に恐縮したくなるくらいにはこの店内だけ外の世界と隔離されているような気分になる。

そう。
ここは、隠れ家BAR喫茶【Terra】。

今年大学2年生となる万宮──名は光貴(みつき)──は高校2年の時からこの【Terra】にバイトとして採用され、もうかれこれ3年程殆ど毎日のようにお客様に珈琲をお淹れし、時にはメニューにある軽食なんかも作っていた。
【Terra】にはバイトの万宮と店長の2人しか従業員が居ない。
つい先月まではもう1人女性のバイトが居たのだが中途採用で出版社に受かったらしく、やっと大好きな本の仕事に携われる、とウキウキで辞めていった。
万宮からしたらその女性はバイト先の先輩に当たる人物であったし、仕事も完璧にこなす明るい人であったので辞められるのは非常に惜しかった。
恋心とかがあったわけではない。
ただ、親しい人物と働けないという事実に一抹の寂しさを覚えたのだ。
そうして結局店長と2人でシフトを回す事になったのだが、万宮はもう3年この仕事をしている為1人で店を回す事を任されていたりする。

【Terra】は錦上花を添えてきたと言い張る変わり者の店長の意向で、他の店とは中々被らないであろう点が2つ程ある。
まずひとつは、【Terra】は表立って宣伝などはしておらず、建物も表参道の裏側辺りにひっそりと建てられていふ。
よって目につきにくい、一見さんはお断り風の佇まい。
そのお陰か万宮が1人で回せる程の人数しか来店しない為店内の平穏も保たれている。
常連さんの紹介客や店長の知り合いが殆どのこの店で、万宮はちょっとした人気者だった。
店長は推定年齢30歳前後である上にお客は全て店長の知り合い。
珈琲を飲みに来る客はやはり店長と同世代の人が多い為、若い子がいるとすぐにちょっかいをかけてくる。
ただそのちょっかいは特段嫌なものではなく、店長の知り合いとして、当たり障りのない事を訊いてくるだけの事であった。
万宮は人当たりも良く、ルックスも中の上くらいである為余計に構われやすいようだった。
そんな万宮も未成年の時から働かせてもらってるわけだが、ついこの間店長とシフトが被った時に新しい仕事をしないか、と持ちかけられた。
それが変わっているところの2つ目である。

この【Terra】には表の顔と裏の顔があるのだ。
というのも、表の顔は先に申し上げた通り純粋に珈琲をお出しするカフェとなんら変わりはない店である。
しかしそれは昼間……詳しくいえば朝の10時から午後18時までの営業だ。
因みに万宮は今までこの昼間の営業のみバイトで入っていた。
授業がある日は午後の2時間までだとか、午前中に授業がなければ授業の時間までバイトしたりだとかして過ごしていた。
なので18時以降のこの店の営業形態は何となくしか知らなかった。
働いてるわけだから夜にどんな店になるのかという話こそ訊いてはいたが実際に見たことは無かったのだ。
それがつい先日、バイトが1人辞めたことによって夜も人手が欲しいと言われたのだ。

昼間は珈琲喫茶である【Terra】の夜の顔は、BARである。
毎週水曜日と土曜日の夜のみお酒をお出しするBAR。
こちらの店の客も全て珈琲喫茶に顔を出してくれる店長顔見知りの方々ばかり。
時折、話を聞きつけたらしい大御所だの芸能人やスポーツ選手等が尋ねてくるらしいが、誰を入れるかを決めているのは店長らしく、店が荒らされる事を余程懸念しているのだと思った。
要するによくある会員制のクラブやBARなんかで薬物の取引が横行していると聞いたりすると思うが、店長曰くそういった物の温床になりたくないらしい。
そりゃそうだ、と思ったが店長の徹底して知り合いで固めるスタンスには些か感心せざるを得ないなと万宮は常々思っていた。
あと普通に混むと面倒臭いとも言っていた。
店長には儲ける意思が低いんだ、と先月までいたバイトに散々言われていたが、「のんびりやりたいんだよ」と穏やかに返していたのは記憶に新しい。
そんな店長も万宮が大学生になると、友達を呼んでも大丈夫だよ、と言ってくれるようになったので、万宮も数少ない知り合いの1人や2人を招待してコーヒーをご馳走したりなんかして自由に楽しんでいた。
万宮自身はそうやって適度に知り合いのお客さんと談笑しつた珈琲を注いだりサンドウィッチを作るぐらいで充分であったのだが、お世話になってる店長からお願いされたのでは断れるわけが無いが、寡聞にしているためとりあえず勉強の片手間に読めるようカクテル辞典のようなものを買ってみたりした。
お酒の名前や由来、作り方、シェイカーの振り方なんかが載ってる物である。
万宮自体バーテンダーの資格を持ってる訳では無いので流石にいきなりやってみろだとか1人で入れとは言われないのは分かっているし、店長も「俺も一緒にはいるから」と言ってくれたのできっと、グラス拭きだとか洗いだとかサポートメインに働かされるのだろう。
しかし夜の酒場で働く以上知識があった方がより手伝える範囲が広がるし自分自身も新しいことを覚えるのは好きなので少しワクワクもしていた。

……To be continued

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