2


自分が何をしたと言うのだろう。
運が無いと言ってしまえばそれまでだけれど、そんな言葉一つで終わらせるには、あまりにも重く苦しい毎日だった。

『たすけて』

この言葉一つ言えない自分もまた、憎らしいと思った。








Iと蛇 #2







犯されたあの日。
あの一日で終わる筈が無かった。
いつの間にかあの時の男達仲の一人の人物の連絡先が携帯に入っていて、翌日から律の元へ連絡が来るようになった。
内容はいつも、指定の場所とあの時の動画。授業中であっても、それに従わなければならない。
呼び出されるようになってから一週間が経ち、そして今日も、
「あ、あんっ……んぅ……ッ」
「もうすっかりココ、俺の形になってんじゃん」
最初とは比べ物にならない程、身体が快感に素直になっている。苦痛はもう無い、筈なのに、今はもう快感が苦痛だ。
「あ、あぁあぁ……ッ」
「まだイクんじゃねぇよ」
「ひ、な、んで……ッ」
折角イケたはずなのに、ぎゅっと根元を掴まれてしまい行き場を失った精子が塞き止められ、苦しくなる。
「ぁ、あ、せんぱ……っ、はなし、て……!」
「先輩、じゃねぇ。名前教えたろ」
「……ぁ、ああぁ、はげし、り、りゅうさ、あッ」
手を離されお腹の方をグッと突かれたら、目の前にチカチカと星が降った。
「ん、イク、……ッ」
「……ぁ、ああ……ッ!」
律より一学年上の男は、律のナカでいつも当たり前のように吐精する。孕むわけでもないのに自分で締め付けてしまったことにより前立腺が刺激され、当然のように律も射精した。じわりと他人の体温を体内で感じることに、吐き気と共に何故か安堵感を感じてしまう自分がいて、酷くショックだった。
「段々、可愛い顔になってくるなお前」
すり、と頬を撫でられ律は目を瞑り顔を背けた。今ではキスをされても、何をされても無感情な自分が居た。自分は、ただの人形だ。無(セックスドール)だ。
何も感じない、考えない、都合のいい身体があればコイツは満足なんだ。
「じゃ、またな」
機嫌よく去って行く男を見ること無く、律はやっと震え始めた身体を自分で抱きしめ静かに泣いた。気持ち良かった筈なのに、行為で満たされるのは快感に飢えた醜い心の小さな隙間だけ。この行為は好きな人とはしたことがないのに、行為が生む快感の暴力に慣れている、そんな自分が醜く憎かった。






おかしい、そう由伊は感じていた。
彼の様子がここ一、二週間だいぶおかしい。
彼は真面目な人間だから今まで授業中多少居眠りする事はあれど、サボる事は無かったのに。最近は、頻繁に授業を抜け出し帰ってきたかと思えば、青白い顔をしてその後はずっと眠っている。帰ればいいのに律儀に授業には参加していて、真面目で可愛いのだけどやっぱり何処かおかしい。由伊はこの疑問に確証を得るため、放課後になったタイミングで宮村が帰る前に近寄った。
「宮村」
机に伏せて眠る律の肩に優しく触れる。すると、少し指先で触れただけなのに律の身体がびくりと大袈裟に震え、可哀想な程に真っ青になった顔を上げた。
「……ゆ、由伊……」
触れたのが自分だと認識した途端、律は明らかに脱力して息を吐いた。一体誰と間違えたのだと問い詰めたい気持ちを堪え「俺だよ」と返した。戸惑うように視線を彷徨わせる彼に疑いを持ちつつ久々に近くで向き合うと、いつもより肉が減り鎖骨が出ている気がした。
「なに……」
律の抑揚のない声が由伊の焦燥を煽る。しかしここは冷静に、目線を合わせ問うた。
「ねぇ、宮村。なんかあった?」
静かに問い掛けると、律は表情を変えないまま由伊を見つめ返し、「なんのこと」と言った。
「宮村、最近元気無いよね?」
「そんな事ない」
「授業中良く抜け出すし」
「お腹痛くなる事増えて」
「ちゃんと食べてる?」
「食べてる」
「顔色悪いよ」
「気のせいだろ」
「ねぇ、最近何処に行ってるの」
間髪入れず、用意していたかのようなセリフを淡々と述べていただけの律が、最後の由伊の台詞を聞き無言で硬直してしまった。
コレは、当たりだな。
由伊は確信を持ちしゃがみこんで、律より目線を低くして威圧感を出さぬよう覗き込む。
「ねぇ、宮村……あの、さ……っ
顔を近づけたら、意図せず見えてしまった。彼の、鎖骨の少し下に醜い人間(いきもの)が我が物顔でつけたのであろう赤い鬱血痕。

ねぇ、なあにそれ。誰に付けられたの。授業抜け出してまでしてる事って、ソレ?

ねぇ、なんで?

「帰る」
「まって宮村……」
立ち上がって逃げようとする律の腕を掴んだその時、ぴろりん、と由伊のものではない携帯の電子音が鳴った。
その瞬間、明らかに彼の顔から血の気が引き掴んだ腕が強ばった。
「……離し、て」
「やだよ、どこに行くの」
引き止めると、彼は明らかに戸惑った表情になる。そのままじっと疑いの気持ちが伝わるように見つめていると、律は一瞬泣きそうに顔を歪め口を何かを訴えるように僅かに開きかけた、……その時、律の声が発せられる前に邪魔が入ってしまった。
「由伊くん。早く遊びに行こぉよ
ウザったい猫なで声が聞こえ、腕にすがりついて来たがあえて振り払う事もせず、無視をして律が何を言いかけたのか訊こうとした。
「ねぇ、みやむ……」
「離せ」
「……っ」
突き放すような短いそのセリフと、初めてみる彼の睨んだ瞳に由伊は思わず「……ごめん」と手を離してしまった。
そのまま律は背を向けて携帯を見つつ教室を出て行ってしまった。

おかしい。あんな彼は、普通じゃない。……何かあったんだ、そう、確信した。










「それでぇ
やっぱり納得いかない。
名前も知らない女にカフェに連れてこられた由伊は、一緒に席に着いたがさっきからずっと落ち着かないまま冷めたコーヒーをちびちび啜り続けていた。彼のことが知りたい。彼がどこに居て何をしているのか、知りたい。どうして、あんな所にあんな痕がついているのか確かめたい。
誰が吸ったの。ねぇ、宮村。誰がお前を可愛がっているの。俺じゃダメなの。俺の印だけをつけてよ、ねぇ、宮村。欲望と、嫉妬でぐちゃぐちゃになる気がした。
律を完璧な自分の支配下に置きたい。でも、そんなこと現実的ではないし、それでは駄目なのだ。物理的に支配するのは簡単だが、それがしたいのではない。自分の腕の中で精神的に鎔けきった彼を愛し潰したいんだ。だから落ち着いて考えろ。宮村に今何が起こってるのか。自分の知らないところで─……知らない……?
初めて見たさっきの彼の顔。自分を敵視している、というよりかはこの女が来てから雰囲気がピリついたような……。
それに気づきはっとする。こんな女の身の上話なんて興味無い。会計伝票も持たず立ち上がる。
「ごめん。俺帰るね」
努めて王子である自分を心がける。律に嫌われないようににつけ始めた仮面。
「えっ待って、なんで
女は凄い形相で話したくないと言わんばかりに由伊の腕を掴んだ。
「……ごめん。行かなきゃいけないところがあるんだ」
そう伝えると、女はキッと目つきを鋭くし言った。
「……宮村の所に行くわけ?」
「うん」
「なんでそんなにアイツなの」
ギリッと手首が悲鳴をあげそうなくらい、強く握られる。女でもこんな力が出るんだ、と呑気なこと思いつつ由伊は冷静に答えた。
「宮村は、俺にとって大事な人だから」
「……なんで?ただのホモ野郎じゃんアイツ」
女のその言葉に俺は「え」と目を輝かせた。
「宮村って男も平気なの
驚きそう言うと、女は狙い目だと思ったのか笑顔を浮かべて自慢げに話し始めた。
「そ、そうなんだよ!今だって、三年のリュウ先輩と空き教室でイケナイコト、してるんだよ?ね?変だよね?気持ち悪いよね?」
一瞬だけ、鬱蒼と邪魔をしていた霧が明けた気がしたのに一気にドン底に落とされた気分になった。
思わず口を滑らせた女は由伊の表情や雰囲気が変わったことを察し、顔を青くさせてあたふたし始める。
「へぇ……」
女の台詞を頭の中で反芻した。
.......『三年のリュウ先輩と、空き教室でイケナイコト』?
「み、宮村から誘ったんだよ!そしたら、リュウ先輩乗り気になっちゃって、毎日のようにしてるって……」
由伊は女の手を振り払い、代わりに人目も憚らず胸ぐらを掴んだ。お店の人が慌てて、「お、お客様!」と駆け寄ってくる。
「……っ、由伊く……」
「いつから、やってんだ?」
初めて聞かされる王子の低い声に、女はビクッと肩を揺らす。
「……えと、多分……一、二週間くらい前……」
彼の様子が変だと、俺が感じた時から……。
「そう」
全部わかった。
「由伊くん……?」
そんな事、噂にもなっていないのに詳しく知っている……。そして、それを言いふらしてないって事はコイツが仕組んだことだからだろう。間接的にバレてしまう事を恐れ、黙っていた。
彼はずっと、独りだったんだ。
「二度と宮村に近づくんじゃねぇぞ、くそアマ」
由伊は女をカフェに残し、全速力で学校への道を走った。

宮村、宮村、宮村……!ごめん、ごめんね。











「しくった……っ、場所ぐれぇ聞きゃ良かったっ……」
ゼェゼェと肩で息をし、学校に着いた由伊は靴を履き変えないまま探し回る。空き教室って言ってたよな……人が来ないような、空き教室……もしかして……。
一カ所だけ思い当たる場所があった。呼吸が乱れ肺が痛むが、また走り出す。動かし過ぎた足が震える、けど、そこに居るかもしれない傷ついた想い人を救いださなくてはいけない。世界で一番大切な彼を。
再び駆け出して、特別棟の三階の一番奥、光も当たらないような暗い場所にある、空き教室。たしか今はもう、壊れた椅子や机があるだけのはず。
あたりをつけた由伊はその教室の前に立ち止まり、耳を澄ます。
「………………っあ」
少しだけ、こぼれてくる濡れた声。苦しそうに掠れたその声と、僅かに聞こえる布の擦れる音で確信した。
躊躇なく思い切り、施錠されたドアを蹴破った。
「宮村
怒鳴り込むと、「は」と驚いた声を出し彼に跨っていた男が由伊を見た。
「よォ、カツラギ リュウ先輩」
由伊は、律に跨(またが)っていた男の胸ぐらを掴み壁に押し付ける。素行不良で生徒会と風紀の間で度々名前が上がっていたが、まさかこんな形で影響してくるとは思わなかったな。
「……な、お前、誰だよ」
由伊は、尚も強気で反抗してくる男の腹を思い切り蹴り上げた。男は呻き声をあげて動きが鈍る。
次はどうしてやろうか、と思いながら近づいたその時、視界の端でぶるぶると震える律が目に入り、由伊はハッと我に返る。
「宮村!」
慌てて駆け寄り、自分を抱き締めて震える律を抱き起こそうと手を伸ばすと、バシンッと思い切り振り払われた。
「……宮村?」
彼の様子がおかしい。
「ねぇ、宮む……」
「こないで……!」
びくり、と身体を震わせて由伊から離れようとする。脱がされた服を抱き締めて、怯えている。
由伊は努めて優しく声を出した。
「……宮村、俺だよ、由伊だよ」
「……しらない」
「……律くん、由伊だよ」
「やだ……」
律は、幼い子供のようにいやいやと首を横に振る。既にカツラギは逃げ帰っていた。まあアイツのあとで絞めるから良いとして。どうしたものかと、律にゆっくりと近づく。
「律くん、由伊だよ、もう律くんを傷つける人はいないよ」
律は、自分の耳を抑えて震える。顔を覗き込むと、その両目からはボタボタと涙が溢れていて呼吸もかなり乱れていた。
やばいな、このままじゃ過呼吸になるかも……。少々荒療治だとは思ったが、由伊は律の腕を掴み無理矢理抱き寄せた。
「や、やだっはなしていやっ
愚図る子供のように嫌だ嫌だ、と泣き喚く。
「いやっ、ひゅっ、ゲホッゲホッ」
「律くん、大丈夫。ぎゅってするだけだよ、ほら、あったかいでしょ?」
ぎゅうっと、力強く抱き締めて背中を撫でてやる。辛うじてワイシャツは来ていた為、シャツ越しに背中を撫でた。撫でる度に、背骨がボコボコしているのが分かる。
骨と皮じゃん。こんな体でずっと耐えていたなんて……。
持っと早く気づけなかった自分と、愛おしいものを穢された事に腸が煮えくり返る思いだった。
だが今は腕の中で震える彼を、何とかしなくてはいけない。
「律くん、律くん」
「……ひぐっ」
混乱しているのかぐすぐすと泣き続ける律に、由伊は話し掛けた。
「律くん、俺、オムライス好きなんだよ」
「……ひゅ、けほっ、けほっ」
「お腹空かない?」
優しく話しかけると、恐る恐る律が顔を上げた。くりくりの黒目がちの瞳が、由伊をしっかりと捉える。涙でキラキラしている。泣いたから鼻がちょっと赤い。
赤くなった唇が、遠慮がちに小さく動いた。
「………………ぃ」
声が小さくて聞こえない。優しく微笑んで「ごめん、もっかい言って?」と言うと律は、顔を歪めてまたボロボロと泣き出してしまった。
「こわいぃ……!いたい、いたい、やだぁっ
わんわんと泣き出す律を、よしよしと宥める。
「律くん、何が怖いの?どこが痛い?教えて?」
「……ひぐっ、くらい、こわい、ぜんぶ、……っ、いたい、……ぐすっ」
由伊は自分に縋りついてえぐえぐ泣きじゃくる律の小さな頭をゆっくりと撫でて、優しく声をかける。
「大丈夫。そうだよね、怖いよね。痛かったよね。じゃあ、こんな所出て俺ん家に行こうか、ね?」
「……ぐすっ、ゆい、のいえ……?」
律はぽろぽろ涙をこぼしながらも、その存在が自分を傷つけない人間だと認識する為なのか、しっかりと由伊を見上げていた。
「……うん。俺の家。来たことあるから、怖くないでしょ?」
律は、ずび、と鼻を啜りながら、こくん、と小さく頷く。
由伊は安堵したようににっこり笑って、「よし、じゃあ服着ようね」と話しかけ、律の服を着せてあげた。律が縋ってくる姿が可愛くて可愛すぎて、理性が爆発しそうだったが、下唇を噛み切って何とか抑えた。血の味がしたがまぁそのうち止まるだろう。
不安げに自分を見上げてくる彼が、可愛い。

嗚呼、愛おし過ぎて吐きそうだ。




律を無事に自分の家へ連れ帰ってきた由伊は、次は何をしようかと考えあぐねていた。
道中、すれ違う人全てに怯え震えながら自分にひっついてきた時、理性が爆発しそうで危なかった。必死に唇を噛み締め、爪を手の平に食い込ませて痛みで誤魔化し耐えた。今ここで上書きセックスしても自分には問題ないが、流石に弱りきっているこの子を押し倒して突っ込む程由伊だって鬼では無い。細い腕を必死に由伊の腕に巻き付けて、人間への恐怖心と戦う彼。
強く腕を掴まれる度に、『この人なら平気』だと言われてるようで由伊の心は勝手に舞い上がった。
暫く歩いて家に着き、まずは律をお風呂へと促す。
流石に色々洗い流したいだろうし。
「律くん、これタオルと着替え……俺の置いとくから、出たらちゃんと着るんだよ」
律は扉を閉めようとする由伊を不安げに見つめつつも、渋々といった様子でこくん、と一つ頷いた。
「いい子だね」
律の頭を撫でて、穏やかに笑い脱衣所を出る。さて、あの子が風呂に入っているうちに救急セットを買ってこなければ。
家に常備しておかなかったことが悔やまれるが、それは置いといて、財布を持ち再び家を出た。
近くにドラッグストアがある事を思い出し、足早に店に入る。絆創膏に、ガーゼ、消毒液と、包帯、それからテープと、熱冷まシート、体温計など諸々全部買い込んだ。あと、温かいスープとココアなんかも買っていってあげよう。彼はいつも甘い物を食べているから、きっとココアは好きだろう。






「よし」
大方買い込んで満足した由伊は、再び足早に家へと帰った。律が風呂から出てしまう前に帰って居たかった。無人の他人の家程、怖いものは無いだろうから。
そう思い急いで玄関を開けたその時、目の前の光景に由伊は少し声が出そうになった。
「律くんどうしたの!」
扉を開け靴を脱ぐ段差の前には、タオルにくるまった彼が何故か体育座りをしてぎゅっと丸まっていた。由伊は慌てて駆け寄り、律の頬を撫で体温を確かめる。
「どうしたの、こんな所で……。洋服着たくなかった?ちょっと冷えちゃってるよ、律くん」
心配になり、律の顔を覗き込むと律はまたぽろぽろと涙をこぼして由伊を見つめた。
「どうした?どっか痛い?」
優しく訊くと、律は恐る恐る由伊のシャツをぎゅっと掴んでぼそぼそと言った。
「……おいて、かれたかとおもった」
その弱々しい声に、由伊はギュンッと強く心臓を持っていかれた気分になり、その衝動を抑えるため思わず目の前のか弱い彼を強く抱き締めた。
「黙って出ていってごめんね。手当するのに色々買ってきたんだ。さ、服着て暖かい部屋に行こうね」
幼い子供をあやすように、自分を掴んで離さない律を抱き抱える。
軽々と持ち上がってしまった律に痛々しさを感じながら、丁寧にソファに降ろす。
それでも律の手は由伊のシャツから離れない。律自身も由伊に迷惑をかけたいわけではなかった。自分の行動に驚きつつも、やはり不安や恐怖が勝っているようで自分でもあまりコントロール出来なくなっていたのだ。
しかし由伊はそんな律に対して文句を言う事はなく、微笑みながら、「お洋服持ってくるからちょっと待っていて」だなんて優しく言ってくれる。
律はそれでも心がザワついた。不安げに瞳を揺らしてまた由伊に甘えて「……いく」と言ってしまう。
律は甘えてしまった事に自己嫌悪を感じているが、そんな事は露知らず由伊は勝手に舞い上がっていた。
このまま閉じ込めてしまいたいと思うくらいには。
「……じゃ、一緒に取りに行こうね」
再び彼の手を繋ぎ、一緒に脱衣所に行き洋服を持ってまたソファに戻ってきた。
大人しく下着を履かせてもらった律は、その間もずっと由伊のシャツを存在を確認するかのようにずっと握っていた。
「ちょっと手当てするけど、消毒液、滲みたらごめんね」
彼は何も答えないけれど、由伊は勝手に手当てを進める事にした。
まずはおでこと、口の端の殴られた傷、腕と足の切り傷に消毒液と絆創膏を。手足と、胴体の殴られた赤黒い痣には熱冷まシートと包帯を。少し怯えていたけれど「大丈夫だから」と言い聞かせ、律の小さなお尻を見せてもらい軟膏を塗った。四つん這いで座薬を入れるような格好になってしまう律は、羞恥に顔を真っ赤にしていたけれど由伊は流石に浴場はしなかった。
寧ろ爛れているすぼまった皮膚を見て、苛立ちが再燃してきていた。
ふと律を触っていると、由伊は何だか彼の身体が熱い気がして体温を測ってもら事にした。
ピピピと電子音が鳴り表示を見ればやはり微熱が出ていたので狭いおでこに熱冷まシートを貼ってあげた。その冷たさにちょっと、ぴくっ、と顔を顰めていたのが可愛かった。

そして彼の傷ついた心が治るように、温かいココアと俺の温もりをあげなければ。

手当を終え、痛かった筈なのに何も言わずに我慢した涙目の彼をぎゅっと抱き締めて、「よく頑張ったね、いい子」と褒めてあげた。その言葉に律はやっと脱力できたのか、由伊にゆっくり体重を預けて、ほ、と息を吐いている。
「ココア、美味しい?」
「……ん」
赤い目尻が兎のようで愛らしい。よしよし、とサラサラの頭を撫でてやれば、心地よいのか律の方から擦り寄っていく。由伊サイズのスウェットはダボダボだし、パンツもウエストがゆるゆるだったけど、今の律にとってはそれが締め付けなくて心地よいのか、すっぽりハマってちゃんと着てくれているのが至極愛らしい。意図せず彼シャツゲット姿だな、と由伊は一人、心の中でガッツポーズをしていた。
「律くんの服、今洗濯しているから洗い終わって乾くまでここでちょっと寝ていな」
優しく言うと、律はこくり、と頷く。
犬を撫でるように、暫く律を撫でて可愛がっているといつの間にかすぅすぅ、と安らかな寝息が聞こえてきた。肩に寄り掛かる愛おしい重みに感動しつつ、あどけない寝顔を晒している律に、由伊はこっそりとフレンチキスを落とし、そのままソファに寝かせる事にした。
傍を離れると少し不安そうに唸っていたが、とんとん、と触ってあげるとすぐに眠りに戻った。由伊は律が眠っているソファの下に腰掛け、お気に入りの推理小説を開いた。
部屋には静寂が訪れ、がたんごとん、と回る洗濯機の音だけが聞こえてくる。
ああ、このままずっと洗濯機が止まらなければいいのに。
そして、宮村が俺のモノになればいいのに。
……なんて、不毛な事を考えては溜息を吐いたのだった。






目が覚めた。
初めに律の視界に入ったのは、オレンジ色の後頭部だった。根元が少し暗くてプリン気味になっている頭は、うとうとと船を漕いでいた。
そして少し辺りを見回すと、一か月前まで由伊と二人で肩を並べてゲームをしていた、律の家よりは幾らばかりか大きいテレビがあった。
いつだったか、律と由伊がお互いの勘違いに気づかずに恋人ごっこをしていた頃に「うちは家族が多いからでかいテレビ置いてんの」と聞いたことがあった。律が訊いたわけではなかったがきっと、大きいなと思っていそうな顔でもしていたのだろう。その時は「(王子もでかいって単語使うのか)」なんてどうでもよいことの方に関心があった気がする。窓枠にハンガーに引っ掛けられた自分の制服。綺麗に洗われていて、もうほとんど乾いていそうだった。
カーテンが閉められていないから外の暗さがよく分かる。掛け時計を見ればもう、十九時らしい。
電気がついているから部屋は明るいが、二時間程眠っていた事を知って、ゆっくりと身体を起こす。ギシギシと痛む身体に顔を顰めつつ、静かに船を漕ぐ頭に手を伸ばした。
「……ゆい」
思ったより掠れている自分の声に驚きつつも、いつの間にか自分に掛けてくれていたブランケットに身を包み、ソファの下に降りて由伊の傍に座った。
「ゆい、ゆい……」
疲れているのか、少し揺すっても目が開かない。つんつん、とシャツを引っ張るとやっと、「んん……?」と目を開けてくれた。
「……ん、あれ……?宮村、起きたの……?」
……あ……、呼び方、宮村、に戻ってる。
さっきまで自分が酷く混乱していたから、俺が分かるように下の名前で呼んでくれたんだな。
そんな小さな気遣いが嬉しくて、律はちょっとソワソワした。
「……ん、由伊。ありがとう……その、ごめん……」
シャツを掴んだまま律は謝る。
「……え?何に謝ってるの?」
由伊は謝られる意味が分からないらしく、キョトンと首を傾げる。
「……いや、あの、……。心配してくれていたのに、……突き放したし……でも、助けてくれて、その……」
色々言いづらいし何だかむず痒く思い、律はもじもじしてしまう。
「あぁ、なんだ。気にしなくていいのに」
由伊の言葉に律はぱっと顔を上げる。にっこり笑った由伊の顔に、よかった怒ってなかった、とこっそり安堵する。
「でもね宮村。困った事があったら遠慮なく言って欲しいな。こんな傷、作る前にさ」
由伊の細くて長い指が律の左手首を掴み、手のひら側を天井に向け、内側の皮膚の薄い部分をつつっと撫で上げた。そこにはボコボコとした白い線状の傷があるのだ。誰にも気付かれないように自分だけの秘密だったのに……。
バレていた事に、心臓がバクバク激しく鳴った。慌てて手を振り払ってしまったけれど、失礼な事をした、と謝ろうと顔を上げた。そこには、再び完璧に笑っている由伊が居る。
「ほら俺は、宮村を友達だと思っているし、何より生徒会の副会長なんだしさ」
由伊の笑顔に、安堵していた筈なのに律は何だか少し違和感に思う。
「……う、うん……?」
しかし由伊が言っている事は正論で、何も間違ってはいないのだ。由伊と律は恋人にはならずに友人関係のまま。律は由伊に対して恋愛感情は無い。なのに何故こんなに、違和感があるのだろう。友人だと言われているのに、突き放されているような不思議な気持ちに戸惑いつつ、由伊を見上げても相変わらず完璧な笑顔のまま律を見つめてくる。
何だかよく分からないけど、由伊機嫌良さそうだし、まぁいっか、とその時律は考えるのをやめた。
「宮村、今日泊まってく?帰る?」
由伊の問いに律は思い出したように「あ」と声を出した。もうこの時には、律の中にあった違和感の事はすっかり忘れ去っていた。
「……帰る」
由伊は、「ん、了解」と言って立ち上がり、律が寝ている間に洗った制服を渡した。
「あ、あの、ごめんな。全部やってもらっちゃって……」
流石に申し訳なくて、律は立ち上がって頭を下げる。由伊のスウェットが少し大きくて立ち上がると、ズボンもパンツも下がっちゃうので、あせあせと引き上げつつ由伊をチラリと見上げた。
「ふふ、可愛いね。その服大きいのか」
由伊のセリフに律は、カァッと恥ずかしくなり「うっさい!」と叫んで脱衣所に駆け込んだ。さっさと着替えて帰ろう。これ以上はお邪魔だし。律は黙々とスウェットを脱ぐ。ふと鏡に写った自分の体に視線がいった。
「なにこれ……骨と皮じゃん……」
思ったより自分の体が肋も腰骨も鎖骨も出ていて、ひょろひょろのガリガリだった。色気もなにもないこの体のどこに、あの先輩は欲情出来るのだろうか。
吃驚しつつ、急いで服を纏い己の醜い身体を隠す。脱衣所から出ると、上着を着た由伊が既に立っていた。
「お、着替え終わった?じゃあ、行こうか」
「え、行くって……?」
当たり前のような顔をして、「宮村を送ってくんだよ」と言って退ける由伊。
「え、だ、大丈夫だよ、俺一人で帰れる……!」
流石にそこまでお世話になれない、と遠慮すると由伊はじぃ、と律を見てにやり、と笑う。
「ホントにぃ?外暗いよ?それに今は退勤してくる人達が沢山歩いているんだよ?本当に怖くないの?」
その言葉を聞いて、ハッとする。
……そうじゃんか。いつもはさっさと帰るから人通りはあまりなくて外も暗く無かった。想像して、ヤダな、と思ってしまう。
「ね?怖いでしょ?だから、一緒に行こうよ。俺も丁度外に用事があるしさ、ね?」
由伊の、子供を説得させるような言い方にちょっとムッとしたけれど、一緒に来て欲しい、と思ってしまったのもまた事実だったので、「……由伊が、用事あるんなら……」とつい可愛くない言い方をしてしまった。
「うん。あるよ、コンビニに寄りたいんだ。じゃ、一緒に帰ろうか」
穏やかに笑い、ただ自分が行きたいだけ、と言ってくれる由伊。この人がモテるのはこういう相手にだけ分かる優しさを見せてくれるからだろうな、と律は思う。それでも律が由伊を好きになる事は無い。
「かえろぉ
由伊の緩いかけ声にちょっと笑って、二人並んで家を出た。久々に、楽しいな、と律は夜空を見上げ思っていた。






律を送り届け一人になった由伊は来た道を戻りつつ、ある人物に連絡を取った。
あの子はもう元気になった。俺の理性も耐え抜いた。やるべき事は全部やった。やっと潰しにかかっても誰も文句は言わないだろう。
連絡先から拾い上げた電話番号をタップし、コール音が鳴る。ツッと短い電子音が聞こえ、『……はい』と脱力した声が耳に届いた。
「会長、寝てました?」
『ううん。寝てない、どぉしたの』
彼の通常運転である緩い話し方に少しホッとしつつ、由伊は話を続けた。
「ちょっと会長にお願いがありまして……」
宮村 律という生徒の身に何が起こったのか、全てを説明した。事細かに、いつから、どんな事をされ続けてきたのか。
『……へぇ。そぉなんだ』
気のない返事に由伊は少し不安になる。
「あのねぇ、……まぁいいけど。先輩、ちゃんと''会長として''始末してくださいよ?」
『えぇー俺がやるのぉーなぁんでぇ?』
「会長だからです」
『でもぉ、生徒を生徒会長が痛めつけるのはちょっとなあ
「何言ってんすか、めんどくさいだけでしょ?代わりに事務作業やるんで、やってくださいよー」
由伊の強請る声に、会長は携帯越しに溜め息を吐いていた。
『ほんとに、キミは……。めんどくさい男だねぇ。女の方は厳しいよ。あそこ親が煩いの。ちょっかい出したら俺が怒られちゃうよ
「先輩にだけは言われたくないですよー。まあ貴方が無理なら仕方ないッすね。どうしてもって時は自分でやります」
由伊が穏やかに返すと、『へーへー。まー何とかしとくー』と不安が残る返事を残して会長は通話を切った。

通話が切れ、携帯をポケットに閉まってふと立ち止まる。
何となく空を見上げれば、そこは真っ暗闇が広がっているだけだった。

「……うっぜぇ」

誰に対してなのか、何に対してなのか由伊自身も分かっていなかった。
この世の人間全て、宮村以外居なくなればいい。
そうすれば彼は必ず、俺だけを見てくれるのに。

非現実的だと自覚した由伊の想いは、闇夜に溶け込んで消え去っていった。


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