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ふと目に疲労を感じ、ぎゅ、と閉じて息を吐く。
色々な本や、資料を読み漁り、水津と話したりして段々自分にできそうなことというものがわかってきた。
淡雪は咲きすさぶ #2
由伊は図書館を訪れた日を境に、再び登校をしはじめていた。眠ったままの律を見つめている間に、学年は三年になり進路に向かって走り出す。
進級して初めてクラスに入った時、橘がおり律もまた同じクラスだった。
きっと、律のために教師たちが意図的に由伊と橘を同じクラスにさせたのではないかと由伊はおもった。律がいつ戻ってきてもすぐに馴染めるように、と。
この日から由伊はありとあらゆる参考書を買い漁り、猛勉強を始めた。遅れを取り戻すように。
焦りを隠すことなく参考書とにらめっこをしてできる限りの時間を勉強に費やしたかった。
目指すはレベルの高いと言われている某大学。なりたいものに一刻も早くなり、自分の満足できつ知識や教養を得るにはそこに行くのが一番人生の中で近道のような気がした。
律くんのために何ができるか─……。
ありきたりな浅知恵の言葉はもうかけたくないから。
真剣に彼と向き合いたいから。
クラスに顔を出し散々心配の声をかけられ、橘にはいじられ、ずっとサボっていた生徒会としての集まりをやっと終えた後、学校の図書室に残って図書委員に声をかけられるまでデスクにかじりつき分からないところは先生に聞きに行っていた。
「あー、お世話になった先輩の晴れの卒業式に出ず不登校極めてた由伊くんがいるー」
間延びした独特の話し方をして、俺の事を知っている人と言えば……
「か、会長……」
思わぬ人物に吃驚して勢いよく顔を上げた。
「何怖い顔して参考書とにらみ合ってるのぉ?お前、就職組じゃなかったぁ?」
「先輩こそ、卒業したのにどうしたんすか?」
「お前は本当に可愛くない後輩だなぁ。わぁい、先輩!とか言えないのぉ?」
お互いがお互いの質問に答えようとしないのは知り合った時から変わらない。
なんだか懐かしくて、表情筋が僅かに緩んだ気がした。
「……え、お前もしかして……ここ受けるの?」
赤本の大学名を見て、いつもは驚かない会長が珍しく目を丸くする。
「はい」
「……ふぅん」
一瞬表情が変わったかと思えばすぐにいつもの眠そうな半目に戻ってしまった。
「なんでここ行きたいの?」
「……学びたいことが、あるので」
ぼそりと告げると、会長はまた興味なさげに「ふぅん」と返事をした。
「……今から間に合うの?」
イラっとする。
この人は出会った時から変わらないのはもちろんだが、それと同時に人を煽るのが趣味なのかと思うほど煽ってくる。
当の本人は無自覚だから尚更たちが悪い。
「……間に合うように、今やってんスけど」
由伊が不機嫌にこたえると、会長はぽんっとポケットから飴を取り出すみたいに、思わぬことを口にした。
「力貸してあげようか」
「へ」
思わずぽかんと間抜け面を晒してしまう。
「眞純(ますみ)ここ行ったんだよ」
え?眞純って……
「会長の子分ッスか!?」
「ダァレが子分だぶっ飛ばすぞガキ」
バシッと衝撃が頭に落ちてきて「いでっ」と声を出してしまう。
いつの間にか、会長の後ろからぬっと名前に似つかないようないかつい男が立っていた。
「へぇ、お前がここにねぇ」
ドサッと雑に隣に腰かけた会長の子分……ではなく、幼馴染の眞純先輩。
「てか、お前も同じだろうが。あお」
”あお”ってたしか会長の下の名前……って、
「え!?会長もここなんスか!?」
嘘だろ……
こんな難関大学にほいほい入れんのかよこの人たち……。
「……うん。あんねぇ、ここはねぇ、難しいよぉ」
「なぁに言ってんだ主席」
「しゅ、しゅ……!?」
「ふふ、機関車だねぇ」
「ちげぇだろ」
2人の世界に巻き込まれた由伊は今、珍獣2人を飼いならし切れていない元小動物飼育員みたいな気分だ。
「ま、オーキャン来てぇんなら連絡しろよ。ついでに案内してやるから」
自分たちだってピッカピカの一年生のくせに。
……でも頼もしく見えるのはやはり年上だし、自信があるからなんだろうな。
「遠いだろうし泊めてあげるよぉー眞純が」
「お前も同じ部屋だろうが」
会長のセリフに一々ツッコむ体力があるのは流石幼なじみというべきか。
「そういやお前、もう恋人は元気なんかよ」
いきなりぶっこまれて吃驚する。
そうだ、この人は"デリカシーなさ男"ってあだ名をつけてたぐらいデリカシーないんだった。
「なんだっけ?料理してたら家燃えたんだったか?」
……あと、とてつもなく空気が読めない。
「違うよぉ〜。だからみんなに嫌われるんだよぉ。溝に落っこったんしょお?」
「はぁ……どちらも外れですから」
呆れて怒る気にもなれない。
会長は勉強以外てんで駄目だったからなぁ。
なんで会長になれたのか今でも不思議だ。
「ま、なんにせよ何かしらは吹っ切れたわけだ」
「え?」
ガシッと雑に肩を抱かれてビクッとする。
「かわいい後輩が不登校になった挙句、やっと来たと思ったら死人になってたぁ、なんて意味わかんねぇことをあおが言いやがるから何事かと思ったぜ」
ゲラゲラ下品に笑う眞純先輩に俺は思わず会長を見上げた。
会長は俺と目が合うと焦ったようにぱっと目をそらしちょっと口を尖らせて、耳が赤くなっていた。
「な、照れてんぜアイツ」
「はは、可愛らしいですね」
2人で会長をにやにや見ていると会長はムッとした顔をして、由伊を見る。
「ありがとうと、ごめんなさいと、おめでとう、を言いなさい」
むすっと完ぺきに拗ねた会長はじとりと由伊を見て、そういった。
その顔がなんだかとてもかわいかったので、由伊は素直に自分の言葉に変えた。
「色々ありがとうございました。卒業式に出なかったのは本当にすみません。
そして、……卒業おめでとうごいます、あお先輩、眞澄先輩」
にこやかに伝えると会長は満足げに微笑んで、「ふふ、合格」と言ってくれた。
「あおの奴、これを言わせたくてわざわざこっち戻ってきたんだぜ?」
かわいいだろー?と絡んでくる眞純先輩に「かわいー」と相槌打つと会長はますます頬を膨らませてしまった。
「……むかつく」
ぽそっと怒って背を向けて図書室から出ていこうとしてしまうのを、眞純先輩は慌てて追いかけて行った。
最後に、
「なんかあったら連絡しろよー!」
と叫んでいた。
「……図書室だっつの。相変わらず、空気読めねぇな」
そう1人ごちりつつも、今は目の前に広げた真っ赤な参考書が由伊にとっての希望の光に見えていた。
*
いつの間にか学校は夏休みになっていた。
受験勉強のため家から一歩も出ずに根詰めて勉強する日々を続けていた。
時々、水津が遊びに来るようになったが水津は由伊の邪魔をしないようにかリビングで真たちとゲームやって帰っていくだけだった。
夏休みが始まって早一週間。
どうしてもわからないところがあり、教科担当にアポをとって今日聞きに行くために制服を身に着けた。
うちは自由な校風だから何も休暇中に制服でなくていいのだが、これは由伊の気分だった。
身が引き締まる、というか。
着替えて玄関を出ると、蝉の声がみんみん鳴っている。
蒸し暑くて、早くクーラーの効いた学校に行こうと足を速めた。
その時、尻ポケットで携帯が鳴りディスプレイの表示を目にして慌てて出た。
「ふ、文崇さん!?どうかしましたか!?」
叫んで出ると、電話の向こうの文崇さんの声は震えていて何を言っているのか聞き取れない。
ただ、「律が」というワードだけは聞こえている。
……そして、何故か文崇さん以外の人間の声があわただしく聞こえていた。
胸騒ぎがして文崇さんに呼びかけながら学校から反対方向の病院へと駆け出した。
一気に汗が噴き出し、服が肌に張り付く。
ふざけんな、ふざけんな、……っ
悪い方向にばかり考えがいってしまう。
もう電話口の文隆さんの声に耳を傾ける余裕はなかった。
いやだ、いやだ、いやだ
居なくなるわけがない
律くんだよ
律くんは強いんだ
だからここまで生きていてくれたんでしょ?
俺、律くんが目を覚ました時釣り合うような男になるために今頑張ってるよ
めちゃくちゃ勉強してるよ
だから、律くんも、
生きて、
また俺を見て、
大切な皆に囲まれて、
幸せに、
暮らそうよ。
「律くん!!!」
バァンっと勢いよく病室の扉を開けた先には、
ベッドの上に体を起こして
無表情に俺をみつめる律くんが、居た。
__________
「……りつ、くん……」
悪い考えばかりが頭に浮かんで消えなかった。
けれど今、目の前に居るのはずっと待ち望んでいた俺の愛おしい人。
文崇は律の手を握って泣いていて、駆けつけていた京子達も皆顔を覆って泣いていた。
医者も苦い顔をしていて、由伊はまるっきり状況が読めなかった。
「律くん!!」
思わず律に駆け寄り頬に触れ、温度を確認した。
ああ、温かい……生きてる
律くんが、生きてる
「りつ、くん……っ」
安堵に力が抜けそうになったけれど踏ん張った。
涙がこぼれそうだったけど我慢した。
律はずっと無表情だったけれど、由伊を見上げて目が合った途端にパアッと、これまで見た事も無いぐらい明るい笑顔を由伊に向けた。
……ただ、それだけだった。
「……ど、したの……りつ、くん……」
『お』『あ』『お』『う』
「……りつ、くん……なんで、喋んないの……?」
俺の耳がおかしくなった?聞こえなくなった?
でもみんなのすすり泣く声が聞こえる。
文崇の、呼吸がおかしくなっていくのも聞こえている。
寛貴が文崇を支えて、震え泣く京子を真が支えていた。
どうして皆の声は聞こえるのに、律の声だけ聞こえないのか。
「……ねえ、律くん……」
呼びかけても困った顔で笑って、首を傾げるだけ。
「……なあ、……なんで何も言わねぇの……律くん……」
震える手でその頬を包む。
顔が小さくて、由伊の両の手のひらで包みきれてしまう。
「……律さん、声……出ねぇんだって」
寛貴の声に、ハッと顔を上げる。
文崇を抱き締めたまま、寛貴は苦しそうに言った。
「……火事の影響では、……無いらしい」
それはどういう、ことだ?
「…………心因性失声症」
寛貴からぽそりと呟かれた単語を、頭で復唱した。
"シンインセイシッセイショウ"?
それは、心が限界で、防衛反応として声を失ったってこと?
「……律くん、声、でないの……?」
震える声を隠しもせず、律に問うた。
律はコクリ、と頷く。
「……話したい……よね?」
思わず、口をついて出てしまった問いだけど、
頷いて欲しかった。
でも律くんは、……困ったように笑って首を傾げた。
……それは、話したくないってこと?
……だから律くんはそんなに、話せていた時よりも……
安心したような笑みを、浮かべているの?
皆、こんなにも泣いているのに。
そんな冗談は良くない、と笑い飛ばしてしまいたかった。
__________
律は声を失った。
あの後担当医に聞きに行けば、どうやら律は"声が出ない自分に安心している"可能性があるらしい。
火事で煙を吸ってしまった後遺症、なんかではなく完全に心因性のもの。
彼が声を出したくないと思う理由は何なんだろうか。
律は、話す事に肯定的では無かった。
どうしてだろう。
何でそうなってしまったんだろう。
律の外傷は眠っている間に回復していた。
ただ、火傷の痕は消えないものとなってしまった。
歩行訓練と、食べる訓練をして1ヶ月後には退院出来ると言われていた。
その間、火事の事を聞きに来た警察が出入りしていたが律は以前のように他人に怯えることなく活き活きと、筆記形式で答えていた。
文崇は事件の話を聞くことが出来ず、病室の外でずっと俯いていたりした。
律にはもう前の面影はすっかり無くなっていた。
誰に怯えるでもなく、話しかけられたことには全部笑顔で答えていた。
無理な笑顔ではない気がする。
律くんは、心から笑顔になっているんだ。
俺でもそれが分かってしまう。
だからこそ、文崇さんは苦しいんだと思う。
自分の息子が、声が出なくなったことをすんなりと受け入れて安心するだなんて、そんなの悲しすぎる。
退院するまで、由伊も病室には顔を出していたけれどどうやって話したらいいか分からず未だに何も言えないでいた。
他愛もない話をして、律がクスクス笑ってくれるのを見て家に帰る。
たったそれだけで、幸せで嬉しいはずなのに……なんでこんなにも寂しさが埋まらないんだろう。
律が退院したら、文崇と律はまだ暫く由伊の家に滞在する。
文崇が安定するまでと、資金が貯まるまではと孝の方から文崇に無理を言ってここに居てもらっているらしい。
今の文崇は、律が火事に巻き込まれたと聞いた時と同じくらいに動揺していた。
親父や母さん寛貴や真で注意深く見ているみたいだが、由伊が見ていても危なっかしくて仕方がない。
ちゃんと、仕事が出来ているのか不安になるほど文崇にも、元気だった頃の面影が無かった。
律の前では笑顔を作っていたが、それが逆に痛々しいほどに文崇は疲れが溜まっていた。
……だからといって、俺は文崇さんに何が出来るだろうか。
文崇さんは俺に与えてくれたのに、俺は何も返せてない。
……やっぱり、これが恩返しになるのかは分からないけど今目の前の事をやるしかない。
律くんのために、みんなのために、……自分のために。
由伊は改めて、目標大学へと合格するために勉強に取り組んだ。
__________
「……!……!!」
つんつんと、服を引っ張られハッと意識が引き寄せられた。
目をやるとそこには、ホカホカの湯気が立っている丼をお盆に乗せて由伊を見つめている律が居た。
律が退院して、5日が経った。
律はリハビリも頑張って医者の言った通り1ヶ月で退院して家に帰ってきた。
退院日は京子が張り切ってご馳走を作って、皆で盛り上がった。
律は、真や寛貴に構われて最初はビックリしていたけど徐々に嬉しそうに顔を綻ばせてみんなの輪に混ざって遊んでいた。
文崇も、そんな律を見て心做しか安心したような顔をしていた。
律はあれから京子が居る日は一緒に料理をしたり、孝が居る日は外に散歩に行ったり、真や寛貴とはゲームしたり勉強を教えたりしていた。
皆、律に気を遣う、というよりかは、「あれやりたい!」「これやりたい!」と言った感じで律を取り合っている。
律はそれを楽しそうにニコニコ全部受け入れて、てとてと着いて行っていた。
「わ、今日もありがとう、お夜食……」
咄嗟にメガネを外して笑いかけると、律は嬉しそうにニッコリ笑ってお盆を机に置いてくれた。
……声が出たなら、なんて言っていたんだろうか。
「美味しい?」って聞いてくれたら、「美味しいよ」って絶対答えるのにな。
聞かれなくてもこたえるけど。
「……ふへ、熱々だぁ。美味しい」
スープを口にすると、勉強に集中し過ぎて冷えていた体が温まる。
夏だからといって、クーラーの付けすぎは良くないな。
うどんを啜っていると、じ、っと視線を感じる。
由伊は「またか」と笑って、律を見た。
「……食べたい?」
由伊の問いに律はハッとして、ふるふる首を横に振って否定していた。
けれど、その直後ぐるるる……と律の腹の虫が鳴ってしまいこれ以上隠し通せて居なかった。
律は顔を真っ赤にして、ぺこり、と頭を下げて部屋を出て行こうとするので、由伊はクスクス笑いながら律の腕を掴んだ。
……相変わらず、細さは変わんないな。
「一緒に食べようよ。俺、1人は寂しいな」
そう言うと、律は目を泳がせてちょっと考えたあと照れくさそうに笑ってまた傍に寄ってきた。
可愛いなあ。
勉強している由伊に毎晩夜食を持ってくるようになったけど、毎回こうやって食べたそうに見つめてくるので毎回律と一緒に食べている。
そんなにお腹空く子だったかな?と不思議に思うけれど、怪我の功名、のように何か変わったのかな。
律は左足に大きな火傷を負ってしまって、歩き方が少しひょこひょこっとした感じになってしまったみたいだけれど、それはそれでなんか可愛いし本人も辛そうにはしていないので微笑ましく見ている。
由伊は机から立って、テーブルにお盆を置いて律と並ぶ。
律は火事に遭ってからちょっとした事で喘息が出るようになってしまったので、夏でも大きめのカーディガンを羽織っている。
大きいので所謂萌え袖になっているのが、これまた可愛らしい。
「律くん、ほらあーん」
ニヤッと笑って言えば、律はムゥと頬をふくらませてあざとい抗議の顔を作る。
そんな顔は逆効果なのに、怖がると思ってやってるのか……小悪魔だな。
なんて心で思いつつ、「待って冗談。器持ってくるよ」と笑いかけて、掬った麺を戻そうとしたその時、ぱくっと麺が律くんの小さなお口に持っていかれてしまった。
コンコンッと、湯気で噎せて居たけれど美味しそうに満面の笑みでうどんをもぐもぐしている。
「……美味しい?」
聞いてみれば、律はコクコクッと元気に頷いてその勢いで、けほんけほん、と咳をしていた。
そのまま律とうどんを啜って少しゆっくりしていると、律がウトウトと由伊に寄りかかってくる。
そりゃそうだ、もう0時回ってるんだもんな。
律は体力無いから夜更かし出来ないし、夜中は喘息の発作が起きちゃったりするから、京子には早く寝かせてやってとお願いしてたんだけど、"どうしても夜食作りたいです"とスケッチブックに書いて目をうるうるさせながら直談判されたので、仕方なく「それ終わったら、寝るんだよ」と許してあげた。
律がワガママを言うなんて珍しい、と由伊の家族含め、文崇もとても喜んでいたので、由伊も邪険には出来なかった。
ただやっぱり、律のワガママは後にも先にもこれだけだった。
「律くん、お部屋戻ろうか。一緒に行こう」
退院後の律の部屋は、文崇の所になった。
由伊が夜中も勉強をする為、部屋の電気を消せないから律が休めないと思っての配慮だった。
けど律は何故かほぼ毎夜、由伊の部屋に来て、由伊の部屋で眠ってしまう。
今夜もウトウトする律に声をかけると、眠気まなこでボーッと何かを考えている。
「律くん?」
問えば律は、由伊の胸にぎゅうっと抱きついてきて離れない。
ええ、可愛いなぁ……どうしたんだ。
「……律くん?どっか痛い?動けない?どうした?」
心配になって頭を撫でながら聞くと、律はパッと顔を上げて口を開いて、一瞬何かを我慢するような顔をしたけれど、次には立ち上がり由伊の使っていたノートの端っこにシャーペンで文字を書いていた。
書き終わった物を見せてくれたので目をやると、
「……"いっしょに ねたい"?」
声を上げて読めば、そんな言葉が書かれていた。
一体どうしたんだ律くんは。
退院してこの家に戻ってきてから、律が前よりも自分の意見を言うようになっていた。
でもそれはなぜか、由伊に対してだけだった。
京子らや文崇にはニコニコ笑って全部受け入れて、されるがままにされている感じだけれど、このお夜食タイムの時や時々2人きりになった時、律は小さなお強請りをするようになっていた。
それが嬉しいので俺もホイホイ言う事を聞いてしまうが、これでいいんだろうか?
今は必要以上に彼と距離を狭めないようにしている。
やはり受験が落ち着くまで中途半端にはしたくないし、律に対してもう、失敗をしたくない。
けれど律は意に反して結構くっついてくるし、家族と集まっていても文崇と由伊の隣を行き来している。
それなのに律には踏み入ったことを訊いても答えてくれなくなってしまったし、今や表情でもよく分からなくなってしまった。
「……俺と寝たいの?律くん」
律はコクコクと頷いたが、由伊が返事を返さないから自信が無くなってしまったのか、どんどんスケッチブックで顔を隠していってしまう。
由伊はその姿がおかしくって、笑いながら優しくスケッチブックを奪った。
「……そんな恥ずかしがらなくてもいいのに。良いよ、一緒に寝ようか」
……今日1日だけ、もう寝てもいいよな。
ここ最近明け方まで詰め込んでいるから頭痛や目眩が酷かったんだ。
今日くらい可愛らしい温もりを抱いて、眠ってしまっても許されるんじゃないか。
…………いや、ダメだな。
律くんが寝たら起きて、勉強しよう。
一分一秒でも、失った時間は取り戻せない。
ここで失敗したら、全部捨てなきゃならないんだ。
律を引き寄せて手を繋いで、一緒にベッドに横になった。
律は嬉しそうにニコニコ由伊を見上げている。
「どうしたの?可愛い顔して。早く寝なきゃ」
引き寄せて頭を撫でると、律は心地良さそうに由伊の胸に擦り寄ってくる。
あー……かっわいいなぁー……
なんて可愛いんだろうこの子。
天使かな?天使なんだろうな?
天使の生まれ変わり?
神からの授かり者だとしても、レベルがもう……っもう……っ
「……はぁ……」
幸せだ……。
__________
死のうとしていた。
なのに目が覚めたら、驚いた顔で涙を流す父さんの顔があって、母さんは居なかった。
天国へは、行けなかった。
何のために火を放ったのか、分からないじゃないか。
目が覚めてすぐは、絶望感でいっぱいだった。
ここで生きてたら、ただ迷惑をかけただけだ。
死ななきゃ意味が無い事だったのに。
ここに、父さんが居るって事は央祐さんは死んでしまったのか?
……俺が、殺した?
父は泣きながらあちこちに電話をしてパニックになって、呼ばれた医者や看護師が必死に宥めていた。
そして、医者の質問に答えようとしたところで違和感に気づいた。
……ああ、声が出ない。
火事のせいか?
そう思ったが、医者は喉に炎症は見られないと言った。
"心因性失声症"
そう、診断された。
父さんはそのまま泣き崩れてしまったが、いつの間にか集まっていた由伊の家族に宥められ、俺も何かを話しかけられていた。
……そうか、俺はもう声が出ないのか。
何故かその状況にとても安心感を感じていた。
きっと、余計なことを言わなくて済む、と思ったんだと思う。
そして、皆が集まっているのに、由伊がいない事に気づいて心臓がバクバクする。
もしかしたら央祐さんは生きていて、由伊に何かしてるんじゃ……、そんな嫌な考えが頭をよぎった時、「律くん!!!」と待ち望んでいた声が聞こえた。
まだ頭がクリアじゃないのでそちらに目線をやれば由伊が焦った顔で俺の両頬を冷たい手で包んだ。
寛貴くんが何やら言っているが、俺の耳には入らない。
由伊は絶句して俺を見つめた。
「……律くん、声、でないの……?」
由伊の声が震えているのに気づいた。
俺は、コクリ、と頷く。
「……話したい?」
唐突にそんな質問をされ、俺は答えられなかった。
(ごめんね 由伊。……話したいとは、思わない)
どんな顔をすればいいか分からなくて、眉を下げ適当に笑った気がする。
父さんが泣き崩れてるのは何でかな。
俺のせい、だよね。
由伊は何かを押し殺したように、
「……そっか」
と、小さく呟いて俺を抱きしめた。
きっと走って来てくれたんだろう。
汗の匂いがする。
でも、この匂いはとても安心した。
*
それから俺は警察に色々訊かれつつリハビリを頑張った。
警察の話で、央祐さんが生きている事を知って少しだけホッとした。
この気持ちが身内が生きていた安心なのか、人殺しにならなかった安心なのかは、分からない。
心因性失声症というものは、心が傷ついてしまったために起こってしまったのかもね、という医師の話から「カウンセリングを受けた方が良い」と言われた。
……父さんも、カウンセリングの話に乗っていたが俺は頷けなかった。
どうしてか、と訊かれると……すごく、難しい。
ただ自分の中で、もう声は出せなくても良いと思っていたり、医者と何を話せば良いのか分からない、といった後ろ向きな事しかいえないので、「なんとなく、カウンセリングはしたくないです」と紙に書いて拒否をした。
念の為気が変わったら、と担当医の計らいで紹介状を書いてもらえはしたけれど、それはずっと俺の荷物の下敷きになって眠っている。
リハビリはあまり辛くなかった。
歩行訓練は、左足が動きにくかったけどすぐ慣れた。
食事も平気だった。
大きな火傷を負ったらしい左足は、退院して1週間経った今でも時々痛む。
経過報告をしに病院行った時に言っても、「経過観察なので……」としか言ってくれなかった。
けどそれを、信じるしかないので適当な数の痛み止めを貰って終わった。
由伊は早くも夏休み最終週に突入している。
俺はまだ通学出来る体力が回復していないので、9月いっぱいまでお休みという事になっている。
……俺は、学校を辞める、と父さんに伝えたけれど、父さんは俺の言う事何でも聞いてくれるような人だったのに、珍しく「……最後まで通おう。体調が厳しければその時は仕方ないけれど」と言った。
命令口調になれなかったのは、父さんの優しさだったんだと思う。
だから俺は父さんの意志を尊重して、学校には行く事にした。
それから、父さんに「もう顔見せて」と伝えたら泣きながら微笑んで、全てを取ってくれた。
そんなこんなで病院生活を終え、由伊家にまた戻ってきてしまったわけだけど、俺はひとつ心配な事があった。
由伊と父さんがとても、頑張り過ぎている気がする。
いや受験だから当たり前なんだけど。
俺は、こんなんじゃ社会に行っても通用しないし進学も出来そうに無かった。
それ以前に、医者から自宅療養が必要だと言われているため進学も就職も当分お預けだ、と父さんと結論づけた。
……また父さんに迷惑かけてしまうと思いつつも、今の自分じゃ何にもできないから、ジレンマだった。
父さんは寛貴くんや、京子さんや孝さんがケアしてくれているみたいで段々前の明るさを取り戻しつつあった。
けれど一方で由伊は、日に日に疲れていっていた。
それは由伊のご両親や、父さん、真ちゃんや寛貴くんも思っているらしく、父さんにいたっては「……由伊くんの息抜き、してあげなね」とまで言ってくるほどだった。
由伊は進学するために、俺が目を覚ます前から根詰めて勉強していたらしい。
最近は努力が実ってめきめき成績が上がっていると聞いた。
そんな由伊を休ませたくて、俺は毎日色々考えているんだけれど何にも思いつかない。
せめて、夜食は作ってあげたいと思い、京子さんに聞いてみたら、「陽貴がね、律くんは早く寝かせてやれって言うのよ」って笑うから、仕方なし由伊に直談判する事にした。
断られたらどうしよう、と不安だったけど由伊は何故かクスクス笑いながら、「分かったよ」と言ってくれた。
ただし、作ったら即寝る条件をつけられたけど……。
でも由伊は毎日毎日、ご飯食べに降りてくる以外はずっと机に齧り付いている。
そんなんじゃやっぱり体に良くないし、少しの時間だけでも勉強の事を忘れて欲しい、……邪魔にならない程度に。
そう思って今日は由伊の部屋にうどんを持って行った。
由伊にトントンしても気づいて貰えなくて、ちょっと重かったけど片手でうどん持って、ツンツンと服を引っ張ってアピールした。
よっぽど集中していたのか、俺の顔を見るなりビックリしていた。
……毎晩来てるのにな。
由伊にうどん見せたら喜んで食べてくれて、俺も嬉しくなる。
あまりにも美味しそうに食べるから俺のお腹も鳴ってしまって、お強請りしたみたいになってしまった。
本当は、由伊と一緒に夜食が食べたくてお夕飯を少しにしてるんだけど、今のとこ誰にも気づかれていないみたい。
由伊がまた一緒に食べてくれるって言うから、俺は由伊の隣に座って、餌付けされるように由伊と交互に食べた。
そしたらまたいつもみたいに、ウトウトし始めて必死で起きようと気を引き締める。
けどやっぱり眠くなってしまう。
体力が以前より落ちたせいで、最近すぐに眠くなるんだ。
気づいた由伊は気遣って俺を父さんの居る部屋に連れて行こうとする。
由伊の受験期間は、「俺は遅くまで起きてて律くんゆっくり休めないと思うから、暫くは文崇さんの部屋で寝てて欲しい」なんて言うもんだから、誰も口出しできずに俺は大人しく父さんの部屋で寝る事になった。
父さんと寝れるのは安心して嬉しいし、父さんは喜んで俺を抱き締めてくれるからホッと出来るんだけど、……やっぱり俺は、……好きな人と寝れるともっと嬉しいなと思う。
自分から全てを拒絶しておいて、なんだよ、って俺も思う。
けれどこれはチャンスじゃないかとも思った。
声が出ない今なら、余計な事を言わずに必要な事だけ伝えられる。
これはきっと、神様が俺に魔法をかけてくれたんだ、なんてメルヘンチックな事を考えた。
声が出ない間は、言えない分いつもより甘えてもいいよって。
でもその魔法は、声が出るようになったらとけてしまう期間限定なんだよ、と。
まるで、おとぎ話の人魚姫のようだな、なんて思う。
それでも、少しの間だけでもポジティブに考えないと、喋れない分暗い顔は出来ない。
だから今だけ、由伊の腕の中で眠る事を、許して欲しいな、神様。
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