前編

彼と同じピアスを開けたのだ。
石榴の種子に似た緋色の小さな粒が一つ埋め込まれているだけのシンプルな物。
それは“一途な愛”の象徴でもあるらしい。

いじらしい彼の一途な愛の先は自分だけであるように、つぷりと針を刺し、彼と同じ緋色の石を耳につけた。
陽の光で光らせてみれば、彼が近くで愛らしくはにかんで居るような気がした。









前編:深夜0時、真夏の特等席で。









風が涼しげな夏夜の香りをのせて舞い込んだ。
世界はようやく深海に負けぬ闇に飲み込まれたのだと知る。
深い海の底は水深が深くなるごとに光が届かなくなるため、二〇〇メートルからは全く光を感じられなくなるという。
田舎では起こりうることだが、都会であればそんな事は滅多にあり得ないだろう。
しかし都会は常に光が散りばめられているのに、上を見ても星の光は見えないのだ。
人が生活しているから明るいのに、人が生活しているせいで自然の耀きが見られないのは皮肉な話だ、と青井 遥祐(あおい ようすけ)は常々思っていた。
けれどここは違う。
東京から新幹線で片道一時間半から二時間ほどに位置しているド田舎。
小学生や中学生のころは毎年夏の恒例行事である祖父母家訪問が嫌で嫌で仕方がなかった。
その年頃の子供はやけに都会の流派に敏感で変に擦れていたので、ド田舎の何もない田んぼ道の一軒家だなんて行きたくなかったのだ。
ましてや時期は夏。
都会では見かけない大きさの意味のわからないグロテスクな虫がいたり、知らない老人に話しかけられ、子供だというだけで普段口にしないような和菓子や、苦手な野菜をたらふく持たされたり、夜はやっぱり意味の分からない虫の鳴き声がうるさくて、その声を聴くだけで体が痒くなるような気さえした。
ぶー垂れる生意気な子供の唯一の楽しみは、毎年必ず貰えるお小遣いの中身をこっそり確認することだった。
なんの手伝いもせずただ元気な顔をみせるだけでもらえるお金というものは子供にとってはとても魅力的だったのだ。
昔はもらえるのが当たり前だと図々しいことを考えていたが、働いていない祖父母のお財布は何で賄っていたのか、去年高校生となった遥祐はようやくそれが年金であることを知り、最近はもらうのが申し訳なくなっていた。
しかしおじいちゃん、おばあちゃんとは不思議な程愛の深い生き物らしい。子供がほんの少し大人の対応を見せると寂しそうな顔を惜しげもなく見せてくるのだ。
貰うことも罪悪感であるのに、その罪悪感以上に罪が重いことをしてしまったような錯覚を覚え、結局高校二年生になった今も図々しくもらい続けている。
高校生活を終えるまではもらっとけば、という母の言葉に胡坐をかいて、そうさせてもらおうと一人心に決め、今日もまた貰ったお小遣いを絶対に無くさず東京に持ち帰れるようにしっかりと鞄の内ポケットへとしまったのだった。

今となっては年老いた祖父母に顔を見せる為に帰らなくては、気が済まない体になっていたので、今年も遥祐は、コンビニもスーパーも徒歩圏外、Wi-Fiも……そもそも携帯の電波さえ怪しいこのド田舎に、律儀に帰ってきていた。
「ヨウちゃん、おやすみねぇ」
「うん、おやすみ、ばあちゃん」
毎晩優しく戸を叩き挨拶をしてくれるばあちゃんに笑顔を返した。
ゆっくりと歩く祖母の足音をのんびり聴きながら布団に寝転がった。
いつもだと、遥祐の他に両親と一つ下の妹が一緒に来ていたのだが、今年は妹が高校受験を控えている為両親と妹は留守番をしている。
よって遥祐一人が祖父母の愛を独り占めできるというわけだ。
遥祐は、静かに横になった弾みでふわりと懐かしい匂いが鼻腔に広がるのを噛み締めていた。







ぼんやりと、瞑っていた目を開け、ゆっくりと体を起こす。
「さて、と」
Tシャツと半ズボンというラフな服装に、青いパーカーを一枚羽織り、スマホにイヤホンを差し込み今夜は何を聴こうかと思考しつつ、祖父母を起こさぬよう忍び足で、東京の自宅よりはるかに広くはるかに古い玄関を出た。
引き戸をゆっくりと閉め、外の空気を思い切り吸い込む。
色も形も成さない香りであるくせにどうして人の記憶に刻み込まれるのだろうか。
都会生活では味わえない草の香りや、木々のざわめき、土や砂利を踏んだ時の何とも言えない音、夜風が髪の間を通り抜けていき思わず笑みがこぼれる。
懐かしくて、落ち着く香りは柔らかに遥祐を励ましてくれた。



時刻は零時過ぎ。
向かうは、遥祐が毎年、帰省時に利用する簡素なバス停。
勿論こんな真夜中にバスなど停まらない。
バスばかりではなく、街頭一つないこの村にはもう人っ子一人いやしない。
ただ唯一、こんな夜中でも光があるのが、この村で一つしかない遥祐の目的地であるそのバス停なのである。
そのおかげで夜光虫は嫌という程群がるが、心を落ち着けたいときには設置されたベンチに座ってぼんやりと田舎の星空を見上げるのが遥祐の毎年の楽しみの一つだった。
申し訳程度に雨避けがあるだけの、たった一つのベンチの定員は恐らく三人だろう。
中学生の時、帰省中に一つ下の妹と喧嘩をして真夜中、どうにもむしゃくしゃして眠れなかった夜に見つけた遥祐の特等席。
ここは木の葉も開けているからよく空が見えるのだ。
東京では見られないはっきりとした光を放つ星々。
靴が地面を踏む音を聴きながらバス停の薄ぼんやりした明かりを目指す。
歩いている時に音楽を再生しないのが遥祐の真夜中の散歩のルール。
歩く音、昔は煩いと思っていた虫の声、葉のこすれる音、風の音、土の匂い、木の匂い、それらを五感で感じながら歩くのが好きだった。
家から歩いて三十分程経った頃、ようやく白熱灯の淡く薄黄色い光が見えてきた。
初めのころはふくらはぎが少し張っていたこの距離も今は慣れっこだ。
じんわりとかく汗も悪くはない。
やっと着いた、と息を吐いて囲いの中のベンチを覗いた、その時だった。
「あ」
たった一つしかないベンチ、しかも真夜中零時半過ぎのこの時間に、ベンチには誰かが寝そべっていた。
都会の駅のホームではよく見る光景だが、ここはお世辞すらも言えないようなド田舎である。
五年間夏休みのたびにここを訪れていてこんな時間に人に会った事なんか一度もなかった。
むしろ夜はよく分からん獣が出るから、と外出を禁じられていたくらいだった。
現に今目の前にいるこの人間と自分しか人はいない。
遥祐は足音を立てぬように恐る恐るベンチに近づいてしゃがみ込んだ。
ゆっくり静かに右耳を人間に寄せ、呼吸音を確かめる。
「……生きてる」
思わずつぶやいてしまい慌てて、手で口を押えた。
どうやら人間は起きていないようだ。
ホッと胸をなでおろしつつ再び人間と向き合う。
男性……だろうか。
暗い髪色は柔い白熱灯にさらされて栗色に見えた。固く目を瞑っているおかげでまつ毛が長いことも分かる。
肌の色はどうだろうか、黒過ぎず白過ぎず健康色だろう。
ぐっすりと眠っているらしい男の緩んだ口元からは涎が垂れていた。
すぅすぅ、と寝息を立てる度に微かに口元からアルコール臭がする。
なんだ、酔っ払いか、と遥祐はため息を吐いた。
酔っ払いに夏の特等席を取られるとは思わなかったな。
ベンチから手も足も投げ出されている様を見ると、自分の座る隙間はどこにもないようだ。
しかしまだ帰る気分ではなかった。
いつもこのベンチで音楽を流しつつ一時間ほどぼんやり物思いに更けてから帰るので、まだ全然満足をしていない。
座れなくてもいいから別の場所でも探そうかと再び立ち上がったその時、ポケットからスマホが落ちてしまった。
固い音が静かな夜に響く。
慌てて拾い上げたが衝撃音を止めることはできなかった。
そして、それによって目を覚ましたらしい男の視線から逃れることもできなかった。
「……んん、だぁれ?」
のんびりした少しハスキーな声が聴こえる。
スマホについてしまった土を払いポケットにしまい男に向き合った。
「……あなたこそ。こんなとこで寝ていたら風邪ひきますよ」
思ってはいたが言うつもりのなかった台詞を吐き出し、やっぱり今日は帰ろうかと考え直していた時、男はまた言葉を発した。
「あれ?今何時?」
これは自分に問いかけられてるのだろうか。
いや疑うまでもない、自分に対してなのだろうな。
遥祐は面倒に思いつつも再び落としたばかりのスマホを取り出して電源を入れた。
「……零時五十八分ですね」
「えー!もうそんな時間なの!?だって俺、ここに着いたの最終バスを降りた時だから八時半くらいだよ」
知らん知らん。
「いっぱい寝ちゃったなぁ。あれ?そんで君は何しに来たの?もう最終バスはないよぉ。あとは始発の十時からのバスまで待つしかないよ。迷子?」
口数がやたら多い彼は遠慮なんて微塵も出さずに遥祐に話しかける。
遥祐は圧倒されつつもやっと「はあ」とだけ返した。
「いや、はあ、じゃなくて。ここで待っててもバス来ないって。キミ、外国人?」
馬鹿にしたような表情に遥祐はムッと顔を歪ませ、「違います」と否定した。
「別にバス待ってるわけじゃなくて、ここに座りに来たんです」
強い口調で返すと男は髭面をキョトンとさせて「家出少年?」と首を傾げた。
「違うっつーの」
「家出以外でこんな真夜中に外を徘徊?認知症じゃあるまいし。ここでは日常茶飯事だけどねぇ。町内放送みたいなやつがないから昼間ならみんなで叫んで探すんだよ。棒とか持って森掻き分けてさ。キミ、シティーボーイ?田舎育ちにはみえないなぁ」
よくもまあ回る口だ。
次から次へと話題が変わってゆく。
遥祐は内心辟易しながら男の言葉を聞いた。
「ね、結局君はだれ?」
男が首を動かして、髪がなびいた時キラリと星にも勝る緋色のピアスが一瞬だけ目に入った。
きっとたまたま月明かりが差し込んだのだろう。
やけに印象的だった。
「……夏休みの間だけこっち来てんの」
「あ〜!帰省ってやつね!」
やけに明るいこの男は自分の正体は名乗らずに再び何かをペラペラ話始める。
「じゃあここ、[[rb:空 > あ]]けたげるから座んなぁ」
男は遥祐から見て右側の席をご丁寧に空けてくれた。
遠慮なく男の横に腰を下ろし、背もたれに背を預け上を見上げた。
やっぱりここは空が綺麗だ。
天文学に精通しているわけではないし、さして興味があるわけでもない。
ただ単純に上を向くのが好きで、そこに星が輝いていたら嬉しいなと思っているだけだ。
夜空には月と星が似合うのだ。
藍色の布に宝石を散りばめたような空は酷く美しい。
「キミ、星が好きなの?」
キョトンとした顔で見てくる男は上なんて興味もないようにじっと遥祐の顔を見つめてくる。
「……別に」
「なぁんだよ、つれないなぁ。ちなみに俺は興味ない」
貴方の価値観こそ全くもって興味ないのですが。
「あ、ねぇ飴あるよ。舐める?」
いらないのですが。
「はい、右手がイチゴ味で左手がレモン味です!どっちが何味でしょ……ん?あれ?」
バカなのかこの人は。
答えを言ってしまってるではないか。
「待って!もっかいね!はい!今度は分からんよ〜!どっちでしょおー!」
一人でやけに楽しそうにはしゃぐ大人を呆れた顔で見つつ、遥祐は適当に左手を選んだ。
「お、イチゴ味の方ね!でも俺がイチゴ食べたいからキミはレモンをお食べ」
「それじゃ選んだ意味ねぇじゃん」
「意味とかないない!だって俺がやりたかっただけだもーん」
なんだろうこのムカつく人間は。
人をおちょくりすぎではないのか……と思いはしたが、飴の味なんてどうでもよかったので黙って受けとることにした。
キャンディ包みになっており、白い紙にレモンのマークが小さくプリントされていた。
イチゴ味の包もまた同様だった。
見知らぬ男性と二人でゆったり並んで座って飴を舐める。
これまでの人生でこんな奇妙な経験があっただろうか。
「昔の人はさあ、星の光の事を、空に穴が開いていて、そこから天国の光がもれてるって考えてたんだってぇ」
唐突な話題転換には既に慣れた遥祐は、もしそれが事実だったとしたらなんて幻想的で美しい世界だっただろう、と呑気に考えた。
「天国が光輝いてるだなんて発想、綺麗だよね」
確かにそうかもしれない。
天国がいいところだと思えていた昔の人はさぞ幸せな最期を迎えたのだろうな。
「キミは信じてる?天国と地獄の存在」
「……悪いことしても良いことをしても、逝きつく先は結局土の中ッスよね」
遥祐は死後の世界だとか。幽霊の存在だとかそんなものは微塵も信じていない。
それは別に科学的根拠がないからだとかそんな小難しい話ではなく死んだらすべてリセットされるだけ、そう思っている。
「リアリストだねぇ、若いのに」
驚いた顔をする男。暫く黙り込んだ男のおかげでひぐらしの鳴き声がよく聞こえる。
「じゃあさ、もし本当に死後の世界があったらどうする?」
何故この人はこんなにも楽しそうに仮定の話ができるのだろう。
「……その世界って、法律とかあるんですかね」
出会ってから一番と言っていいほど目を丸くしたのち、男は腹を抱えてゲラゲラ笑いベンチから落ちていた。

……田舎って自由だなぁ、と遥祐は思いつつ空を見上げたのだった。






「ヨウちゃん、今年も来たんかぁ」
「番台のじいちゃん、久しぶり」
相変わらず度の合っていなさそうな眼鏡をかけて人のよさそうな笑みを浮かべて歓迎してくれる、村でたった一つの銭湯を一人で切り盛りしているおじいちゃん。
散歩に行った翌朝は必ずと言っていいほどこの銭湯でゆっくり汗を流すのだ。
朝の九時頃は人が疎らだが、朝風呂をしようと来る人は少なくはない。
遥祐も例に漏れず朝風呂最年少常連客だった。
「じゃあまた来るね、じいちゃん」
「おー、まさちゃん達によろしくなぁ」
まさちゃん、というのは遥祐の祖父の名だ。
正次(まさじ)という名なので、なんでも「ちゃん付け」をしたがる村の住民の間ではまさちゃんと呼ばれていた。
銭湯から出ると日差しが強く、夜とは対照的に悶々とした暑さである。
まるで見えないヴェールに囲われてるような蒸し暑さだ。
田舎は開けているからまだ風通しが良いが、都会の夏はまさに地獄。
都会はその分、文明開化が華々しい為、冷風機器が発達しているのが利点だろうか。
遥祐からしたら、人口の冷風は苦手なので田舎の風ほど心地よい物はないと思っている。
夏の夜、網戸にして扇風機を点けタオルケット一枚をかけ寝るのが堪らなく心地よい。

帰り道、近くの駄菓子屋に寄って昔懐かしい、小さな器に入ったヨーグルトを三つ手に持つ。
象のイラストが描いてあり、木のへらで食べる物だ。
それから、口に含んだらシュワワとぱちぱち弾けるソーダ味の飴玉も三つ。
祖父母の好きなまんじゅうのあずきアイスを二つと、自分用にモナカのバニラとチョコのアイスを持ち、レジのおばあちゃんに出す。
「あんらぁ、ようちゃ、元気かぁ。こんあいだ、まさちゃとふみちゃに会ったなぁ」
元気じゃったわぁ、と楽しそうにお話をしてくれる駄菓子屋のうめばあちゃん。
「元気だよ。こっちは涼しくていいね」
「そらそうじゃ熱を跳ね返すようなもんもここらにはよおないかんなぁ。ほぉらなんちゅったが……ある……あるもんと……みてぇな……」
歯のない口を必死に動かして何やらもごもごと言っている。
熱を跳ね返すアルモント……。
「もしかして、アスファルト?」
「それじゃ。アーモンドじゃ。それが温暖化になる原因に決まっとれい」
まああながち間違ってはいないのかもしれないな、遥祐は頷いた。
「都会はすぐ機械に頼りよって、自然を殺すんじゃ。なんつったか……あのぉ、エアロ……みてぇな名の……」
「エアコンね」
「それじゃそれじゃ。エアロ。それのせいでなぁ都会の子供はみなもやしだわぁ」
いやに都会や新しい物を毛嫌いするのはうめばあちゃんの性格だ。
と言ってもこの村に住む人はほとんど、都会の人間や新しい物をとりあえず貶(けな)すところから始める習性があるらしい。
都会の人間は冷たい、だとか、愛想がない、だとか、機械は全部、自然を壊して温暖化を進めるものと認識している。
車もまた然りだ。
「うめばあ、はい、六〇〇円」
「あい、五〇円」
「ありがとね」
駄菓子屋を出て田んぼ道をのんびり歩き家に帰る道すがら、近道でもしようかと思った矢先どこからともなく犬が駆け寄ってきた。荒い息で遥祐の足元に纏わりつく。
「なんだお前、どこの犬だ?」
見たところ柴犬のようだが、汚れてもいないし毛並みも揃っていて綺麗だ。
何より赤い首輪がつけられて鎖も繋がっている。よく見るとドッグタグも付けられているようで、そのシルバーのプレートに彫られた名前は「KANBE」だった。
「かんべ?官兵衛?黒田官兵衛?」
わしゃわしゃと頭を撫でてやれば嬉しそうに口角を上げ、尻尾をぶんぶんちぎれそうな程振っていた。
「よし、案内しな。俺が送ってやるよ」
鎖を持ち歩き出したその時、「かんべぇー!」と叫ぶ声がどこからともなく聞こえてきた。
辺りを見回してみると、声の主がこちらに気づき一目散にかけてくる。
遥祐はその人間に見覚えがあった。
「あ」
「かんべえー!無事だったかー!よかったぁ」
心底ほっとした顔で官兵衛を抱きしめる男は昨夜、駄菓子の飴を分け合った男だった。
男は官兵衛から視線を外しゆっくり立ち上がって遥祐を見据えたかと思ったら、瞬間、一気に顔を明るくし「あ!」と声を上げた。
「キミ、昨日の子だねぇ」
「ああ、どうも」
上げた顔は昨日とはうってかわって髭をそり、髪も整えた男は見違えるほど小綺麗で端正な顔立ちをしていた。
色気のある優男、そんな風貌だった。
「キミが官兵衛見ててくれたのかぁ、ありがとぉ。あ、じいちゃーん!官兵衛おったよー!」
「おーおったかぁ」
髪はなく腰の曲がったおじいちゃんがよたよたとゆっくりこちらに向かって歩いてきた。
官兵衛はおじいちゃんを見つけた瞬間走り出し、おじいちゃんを労わるように足に寄り添って歩き出した。
「いんやぁあんがとなぁ。おや?キミもしかして正次んとこのお孫さんかぇ?」
おじいちゃんは優しく細めた目を少し開いた驚いた顔をした。
「はい、そうです。孫の遥祐です」
「ヨウちゃんなぁ、おしめしてたころ一回だけ会うたんだわぁ。大きくなったなぁ」
にこにこと、まるで自分の孫かのように遥祐の成長を喜んでくれる。ここにはそういう人ばかりだ。だから心が落ち着くのかもしれないな、と遥祐もまた微笑み返した。
「ほうじゃヨウちゃん、お礼にうち寄って西瓜さ食うか」
すいか……!
「……ッス!ぜひ!」
「当たり前じゃ。ほら、ほたるちゃん"、ユキムラ持ってけ」
「じいちゃん、"ユキムラ"じゃなくて官兵衛だって」
「ほたるちゃん?」
思わず口に出してしまった。
それもそのはず、遥祐はまだこの優男の名前を知らないのだ。
「なに」
酷くぶっきらぼうに返され少しびっくりした。
さっきまであんなに愛想よかったのが嘘みたいだ。
「ほたるってアンタの名前?」
「そうだけど」
むすくれる男は大した返事もせずに前を向いてさっさと歩きだした。
遥祐はじいちゃんと並んでゆっくり後を追うことにした。
「ほたるちゃんなあ、沢白(さわしろ)ほたるちゃんて言うんだわ。あの名前嫌いなんだと。わしも初めに会って名前きいたらあの顔されたわ」
「へぇ」
ほたる、だなんて綺麗で可愛い名前なのに。
「ほたるちゃん、ヨウちゃんにはなつっこいねぇ。知り合いかえ?」
「ううん。昨日知り合ったばかりだよ」
じいちゃんは一瞬驚いた顔をした後、妙に顔を綻ばせて嬉しそうに「ほうか、ほうかぁ」と言った。
「ほたるちゃんはなあ、人が嫌でここ来たんだと。元は東京生まれ東京育ちでなぁ。ここ住むようになったんはヨウちゃんよりずっと後でな。去年か一昨年辺りだなぁ」
人が、嫌で……。
「ここの生活にもまだ慣れんようでなぁ、まともに話せるのは大家のワシだけじゃ」
他の村人も愛想のない都会の若造が来た、とひそひそ話したり、挨拶もろくにしないほたるは村から煙たがられているらしい。
「ほんとは人と話したいんだなぁ」
昨日はあんなに一人ではしゃいでたのに、あれは本当のほたるではないそうだ。
「ヨウちゃん、ここにいる間ほたるちゃんと仲良くしてなぁ。友達にはちと年上すぎるかぁ?」
ケラケラ笑うじいちゃんに遥祐は「え?」と返す。
「年上なの?ほたるさん」
「たしか今年で二十四、五よ。見えんよなぁ」
え、ニートかよ。全然見えなかった。むしろ昨夜は暗がりのせいか同い年くらいに見えていたので、てっきり遥祐と同じ帰省組だと思っていた。
「じいちゃん!シティーボーイ!遅いよ!!」
ほたるの声が明るく響いた。








「ほいで、土手転がってアケチ見っけたんだぁ」
「じいちゃん、"明智"じゃなくて官兵衛ね」
朗らかに話すじいちゃんに冷静にツッコむほたる。
「さあさ、子供は帰る時間だよ」
ほたるに促されて時計を見れば十七時を少し過ぎたところだった。
「そうかあ」
寂し気なじいちゃんの顔に少し胸が痛む。
「どうせ暇だからまた明日も来る」と声をかけた。
「じゃあほたるさん、"マサムネ"、じいちゃん。また明日」
「だから官兵衛だっつーの!」
ムキになるほたるに笑いつつ玄関を出ようとしたとき、「あ、待って。送ってく」とほたるが一緒に靴を履いた。
「え、いいよ。ここら辺慣れてるし」
「いいの。子供は黙って大人に従いなさい」
「ほたるさんより知ってるけど」
「ほたるちゃん、迷ったらヨウちゃん家泊めてもらえー」
「迷わないってば!」
高校生にもじいちゃんにもいじられるほたるはすっかり拗ねてしまったらしく、帰り道は八割ほど無言だった。
「遥祐はいつまでここにいるの」
「んー、夏休み終わる少し前くらいまで」
「へぇ。課題は?」
「持ってきたけどまだ何にも」
「悪い子だぁ」
「持ってきただけ偉いだろ」
「自分で言うな」
やっとほたるが笑った。
「ねえほたるさんは……」
なんで名前が嫌いなの、そう続けようとした時、「あらヨウちゃん」と後ろから声が聞こえた。
振り返ると、祖父母の後ろに住む神田のばあちゃんだった。
「あ、お久しぶりです。お元気ですか?」
にこやかに話しかけるが、神田のばあちゃんは遥祐よりも隣で固まってるほたるの方に興味津々らしく、「え、ええ元気よ。それより─……」と、神田のばあちゃんが何かを続けようとした時、遥祐は今ここにほたるを居させてはいけない気がした。
明確な理由は分からない。
視界の端に力強く握りしめたほたるさんの手が見えたからかもしれない。俯き、強張るほたるは今にも逃げ出してしまいそうで危ういと思った。遥祐は神田のばあちゃんが何かを続けようとした時、「あー」とそれを遮った。
「ごめん、神田のばあちゃん。俺ちょっと用事があるんだ。また今度、話そう。またね」
「え?ええ……」
驚いた顔をしたのはばあちゃんだけではなかった。
遥祐に手を引かれたほたるもまた驚いた顔で遥祐を見つめた。




「じゃ、俺んちここだから」
足早に歩いたおかげでいつもより十分程早く着いた。
ほたるは運動不足なのかぜぇはぁと肩で息をして恨めしそうに遥祐を睨んだ。
「ニートにはきつかった?悪いな」
と嫌味たっぷりに言ってやればほたるはムッと顔をしかめて「性格わる……」と呟いた。
「まあな。てかほらやっぱり迷わず着いたろ。だから明日から見送りはいらない。じいちゃんとこにいな」
遥祐はそれだけ言うと玄関を開け入る。
「またな、ほたるさん」
「……」
ほたるは何も言わなかったが、遥祐は何故かきっとまた会えると確信していた。







夜風に吹かれ今日もこっそり家を抜け出した。
昼間に買った駄菓子の残りをポケットに入れて昨日と同じ道をゆっくりと歩き、いつものバス停を目指した。
真っ暗な空は墨色ではないのだな、藍色だ、深い色。
宇宙は何色でどこまで広がっているのだろう。
宇宙に終わりはあるのだろうか。
宇宙を操る別のなにかが存在していたりするのだろうか。
……なんて都会にいたら考えることのない思考を無駄に張り巡らせてしまう。
都会の喧騒は、人がいる安心感は得られるかもしれない。
夜に出歩いても田舎程暗くはないし、得体のしれないなにかの存在に怯えようもない。
ただ時折、人に会うのが疲れてしまうときがくる。
普通に生きているだけだけれど、すべてに疲れてしまう時が必ずやってくる。そんな時、この空気を味わいたくなるのだ。同じ酸素、同じ空の下なのに何故こんなにも違うのだろうか。
「あ、やっぱり来た」
明るい声が耳に届き遥祐も「あ、やっぱりいた」と言い返した。
「何だか今日も来る気がしてたんだけど、もしかして毎晩ここにきてるの?」
昼間、神田のばあちゃんと会った時とは別人のほたるはニコニコと人懐っこい笑みを浮かべて遥祐を見る。
「こっちおいで。隣座って」
言われなくても遠慮せず座るつもりだった、と思いつつ遥祐はゆっくり彼の隣に腰を下ろした。
「今日も星が綺麗だね、ここは」
「田舎だし」
「もぉつまらないなぁ、遥祐は」
ぶすくれるほたるを笑いつつ、上を見上げた。
「ねぇ昼間、何言いかけたの?」
「昼間?」
何か言いかけたか、と首を傾げるとほたるは「うん。ねぇほたるさんは……で止まっちゃってたよ」と言った。
そこまで言われて「ああ、そうだった」と思い出す。
遥祐はポケットから昼間の残りの飴玉を取り出し、「はい、ほたるさん。どっちでしょーか」と両手をグーにしてほたるに差し出した。
「え、なぁに?俺の真似っこぉ?話のつづきはぁ?」
「ほたるさんが選んでから」
「えー、じゃあこっち」
そう言ってほたるは遥祐の右手を指した。
「はい、コーラ味ね」
「あ、あわ玉だ!懐かしいー!」
ほたるは袋を破りコロンと口の中に含んで頬を膨らませて舐めた。
「うぅー、ぱちしゅわぁあ」
肩を竦めて言うほたるが何だか幼く見えて笑った。
遥祐も残りのサイダー味の袋を破り口に放り込んだ。
「あ、ねぇ遥祐。くじどうだった?」
わくわく、と言った効果音が聴こえてきそうなルンルン声。
遥祐は手元のゴミと化した袋を再び丁寧に広げ、くじの部分を見た。
「……外れた」
「俺もぉ」
ほたるは残念そうにだらんと背を後ろに預けていた。
「こういうの当たんないんだよねぇ」
ぼんやり呟くほたるに、遥祐は先ほどの問いの続きを投げかけた。
「ほたるさんは、なんで名前が嫌いなの?」
ほたるはぱちくり目を開け、遥祐を見た。
遥祐も何の気なしにほたるを見つめ返す。
ほたるはしばし無言のまま地面を眺めていたけれど、ふと口を開いた。
「蛍(ほたる)っていうのは嫌われものなんだ。海外では光るウジって呼ばれたりさ」
「へぇ」
「派手に生きてないしさ、そこら辺の水の傍で細々と生きてんの」
まあ確かに、蛍が主人公になるような事はあまりないのかもしれない。
「それにね、蛍は怨霊が化けた姿、とも言われてるんだ。醜いだろ、そんなの」
ほたるは柔らかく微笑んだ。
遥祐はその表情をじっと見つめる。
結局はなんで名前が嫌いなんだ。理由が不明なままな気がするが……。
「遥祐はいいね。かっこいい名前だよ」
「そうかな」
あまり言われたことはないし、自分の名前に何か特別な思いを抱いたことはなかったのでそんなことを言われてもいまいちピンとこなかった。
遥祐はほたるの横顔を見つめ、口を開いた。
「でも、綺麗だよな、蛍って」
「え?」
「……俺の中ではここら辺でしか見られない特別な光だなって思う」
都会のネオンの光は疲れるのだ。誰かが命を削って灯す光。
蛍も同じなのに、どうして違うのだろうか。
「遥祐は案外気障な男だね」
ほたるの意地悪い笑みに遥祐はムッとした。
「思ったことを言っただけ」
「そういうのいいと思うよ。俺は好き」
にかっと白い歯を見せ、ほたるは微笑んだ。
ずっと笑っていれば可愛いのに。
遥祐は素直にそう思った。
昼間の強張った表情の理由はきっと聞いてはいけないのだろう。
訊いてしまったらきっと、ほたるは遥祐の前からいなくなる。そう、確信していた。
「遥祐、また夜暇になったらここにきて、俺と話して。一緒に星を見よう」
ほたるの言葉に遥祐は笑んだ。
「ほたるさんだって、気障な人だ」







「わぁ!すごい、遥祐のおばあちゃん料理上手なんだ」
「ふみちゃんは元々、この村の家庭科の先生なんだぁ」
大家のじいちゃんは、相も変わらず今日もにこにこ遥祐を出迎えてくれた。
官兵衛に挨拶をし、顔をひと舐めされたあと、じいちゃんの部屋に上がりほたると三人でちゃぶ台を囲んだ。
ここ最近、昼間はこのほたるのアパートの大家のじいちゃんの部屋で三人のんびり話すことが定着しつつあった。
これまで気まぐれに外を歩くことはあっても基本的に、祖父母の家の中で過ごすことが多かった。
あまりにも外に行く頻度が増えた遥祐に喜んだ祖母は「お世話になってるならこれ持っていきなさい」と手作りの弁当を持たせてくれたのだ。
祖母の料理は絶品で、その血を継いだ母の料理もまた大層美味しい物だった。
「んまぁ!俺こんなに美味しい卵焼き初めて食べたぁ」
大袈裟な物言いに呆れつつも、祖母の味を他人に認めてもらえるのは悪い気がしない。
「美味しいねぇ」
毒気のない大人の笑顔はこんなにも安心する。
開けた窓から風が吹き込み、白いレースカーテンがふわりと遥祐の頬を撫でた。
「ずっとここにいれたらなあ」
なんとなくぼそりと呟いてしまった。
テレビもついていない、外も静かなこのワンルームの空間に遥祐の声は、はっきりと聞こえてしまう。
「ここには、いられないのかぁ」
じいちゃんの言葉に遥祐は微笑む。
「うん。帰らなきゃいけないからね」
高校に行かなくてはいけない、家族の待つ家に帰らなくては、あの騒がしい都に帰らなければいけない。
そこが遥祐にとっての帰る場所だからだ。
「大人になって来たらいい。職はあんまし無いが、生きられないわけじゃあない」
じいちゃんは口をしょぼしょぼさせながら梅干しを食べた。
高校を卒業したら、大人になったら、自分はいったい何になるのだろう。
このまま大きなって、適当な職に就いて適当に結婚して終わるのだろうか。
「遥祐は恋人いないの?」
ほたるの問いに遥祐は「いたらこんなに暇してないな」と笑って返した。ほたるは、まあ確かに、と頷く。
「好きな子もいないの?」
やけに訊いてくるな、と遥祐は不思議に思ったが「いないな」と返した。
「ふぅん。青春真っ只中なのにねぇ」
ニシシと笑うほたるにムッと唇を尖らせた。
「俺はこの時間が好きだから別にいい」
毎年、夏にここにきてのんびりした時を過ごす。
この時間があるおかげでそれまでの鬱憤がすべてなくなる気がした。
彼女が出来ても、バイトを始めてもこの時間だけは毎年確保したいと思っていた。
しかし来年ばかりはそうもいかない。
何故なら来年の春で遥祐は高校三年となり、大学受験を控えているからだ。
「だぁから、そんなじじくさいんだ」
「うるさいな」
無駄に突っかかってくるほたるを横目で見つつおにぎりを食べる。
おばあちゃんのおにぎりはやたらお米が多くて具までたどり着かない。
「はは、仲がいいなぁ」
のんびりと呟くじいちゃんの声はまさにこの時間の平和そのものだった。








「よし」
ズボンの下に海パンを履いて、上はTシャツ一枚。
リュックに替えのパンツと財布と携帯を入れて、背負った。
「あら涼し気ねぇ。はいヨウちゃん。これお友達とお食べ」
「ありがとう。この間の弁当もすごく好評だったよ。いつもありがとう」
「あらあらあら」
嬉しそうに僅かに頬を染める祖母の後ろから、祖父がひょっこり顔を出す。
「遥祐、これ持ってけ」
「カメラ?」
祖父のしわくちゃな手から渡されたのは、昔よくコンビニやスーパーで売っていた簡易のカメラだった。
現像するまで上手く撮れたかは分からないが、ちょっとした思い出を収めるのにちょうどよい物だ。
「夏にしかこれん、夏の間の友達の顔よう撮ってこい」
二人で見返した時、良い酒の肴になるわ、と祖父は前歯が一本ない口で笑った。
「ありがとう、いっぱい撮ってくるね」
二人に気を付けていってらっしゃいと見送ってもらい、遥祐は毎夜訪れていたバス停に朝から向かった。


「遅いよぉ、待ちくたびれたぁ」
ベンチで伸びていたほたるは遥祐を見つけるなり、少し安心した顔をして開口一番文句を言った。
「ごめん。バスは?」
「まだ来てなぁい。あちぃ」
パタパタと襟元を掴み仰ぐほたるに、遥祐は道中にあった駄菓子屋で買ったペットボトルのお茶をぴたりと首元にくっつけてやった。
「ひぁ!?」
ほたるの甲高い驚いた悲鳴に、遥祐はツボにハマり笑い転げた。
ほたるは変な声が出て恥ずかしかったのか、先ほどよりも顔を赤くして「遥祐のばか!」と怒っていた。
「ごめんごめん、お詫びのお茶だよ。飲んで」
笑いすぎて目尻に浮かぶ涙を拭いつつ、遥祐は再びほたるにキンキンに冷えしずくが垂れているペットボトルを差し出した。
「っあー、生き返るぅ」
遥祐は、ほたるから初めて男らしい野太い声をきいた気がしてまた笑い転げた。
ついでに祖父に貰ったカメラのシャッターも切ってみた。
「あー!なんか撮ったでしょお!」
事務所通してよねっ、と頬をふくらませるほたるに「事務所なんかあるか」と返せば「大家のじいちゃんが所長ですぅ」と返された。
そんなほたるは暫く不機嫌に眉を寄せたが、すぐに遥祐の笑いにつられたように自身も笑い始め、バスが来るまで二人、笑いの波と戦うのだった。






夏!夏と言えば海だろう!と意気込んで遥祐を海に連れ出したのはどこの誰だったか。
「ほたるさん、海入んないの?」
「待って……バスがこんなに酔うとは……」
うぷ、と口を抑えたほたるは、そのまま砂浜に張ったビーチパラソルの下にレジャーシートを敷いて寝ころんだ。
遥祐たちはバス停から乗車して片道四十五分程に位置している海まで連れられてやってきた。
「……ごめん、遥祐。遊んでおいで、そのうち合流するわ……」
そんな真っ青な顔で言われてもな、と思いつつ遥祐はその場から立ち上がりビーチサンダルを履いた。
「いってらっしゃい……」
死にかけの声で見送られて、俺はどこへ逝くのだ、と思いつつきょろきょろ辺りを見渡す。
目当ての店を見つけた遥祐はそこで買い物をして再びほたるの元へと歩いていく。
目印の派手な黄色と青のビーチパラソルが見えて来たところで遥祐は思わず「うわぁ……」と呟いてしまった。
パラソルの下で寝転がるほたるには二人の女性が群がっていたからだ。
一瞬ほたるの体調が悪化したのでは、と心臓が跳ねたが、よく見たらあれはただのナンパだ。
ほたるは顔を青くしつつも、なんでか笑顔を作り律儀に彼女らに応対していた。
遥祐はそんな女性に目もくれず、ほたるだけを見て歩きを進める。
すると女性たちが遥祐に気づいたのか、何やらひそひそと話した後、二人のうち一人が遥祐の元に来た。
「あ、あのぉ、"ほたるさん"の連れの方ですか?」
この女性の言葉にこの時何故か遥祐は苛立った。
……名前嫌いなくせに、こういう時は教えるのかよ。神田のばあちゃんの時はビビって固まってたくせに。
なんとなく自分でもよく分からない苛立ちを覚えてしまい、少しほたるを睨んだ。
「もしお時間あればこの後─……」
遥祐は分かりやすくため息を一つ吐いた。
「あのさ、見て分かんない?俺ら、デート中なんだけど」
気分悪いくせに無駄に頑張って体を起こしていたほたるの肩を抱き、支えるついでに女性たちを牽制した。
「わかったらさっさと消えてくれ」
そこまで言うと女性たちは顔を見合わせその場からそそくさと逃げて行く。
遥祐の機嫌は未だよくはならなかったが、腕の中でぐったりしているほたるが心配だったのでとりあえずは看病に専念することにした。
「はい、ほたるさん氷」
「え……なにこれどうしたの」
ほたるは冷たさに驚きながらも大人しくうなじにあてられていた。
「かき氷屋で買ってきた。どう?」
「……そっかぁ。うん、きもちいい……」
へにゃりと笑うほたる。
遥祐は先ほど感じた苛立ちが浄化されていくのを感じる。
ここでもこっそり、シャッターを切った。
ほたるには勿論バレた。










「よぉし、復活!遥祐、あそぼぉー!」
すっかり元気になったほたるに安心しつつ、「はいはい」と遥祐も立ち上がった。
「うあ、水つめたぁ!」
当たり前のことを言って高校生よりはしゃぐほたるに苦笑しつつ、遥祐も足首まで水に浸した。

「遥祐さぁ、もし彼女出来たら……もうここには、来ないの?」
何をいきなり、と思ったところでほたるはそういう人物だった事を思い出す。
きっと彼の中では物凄い速さで思考が回転しているからコロコロと話題が変わるのだろう。
だからきっと彼は、都会に疲れたのだ。
「何があっても、ここには来るよ」
紛れもない遥祐の本心。

しかし、そう告げるとほたるは何処か寂しげに笑った。
このまま波の音とともに、瞬きをした瞬間連れ去られてしまうのではないかと遥祐は思った。

「俺、うそつきは嫌いなんだよね」
ぱしゃり、と水を蹴ってかけられる。

「俺がいつ、嘘言った?」
お返しに水を蹴る。

「俺はお前みたいなくそガキの言う事なんか、絶対信じないからな!」
両手でばしゃりと海水をかけられ、思わず目を瞑ってしまった。

瞬きのうちにほたるが居なくなる、そんな非現実的な思いを抱くのは人生で初めてで、目に海水がしみて人前で少し泣いたのも初めてだった。
薄ら目を開ければそこには、ゲラゲラ笑うほたるが居た。

その笑顔のまぶしさに下を向く。
空が映り込んだ海水は果てしなくあおかった。

「ねえ、遥祐」
ほたるは水平線の向こう側見るかのように遠くを見つめ、遥祐に問いかけた。

「雨の日は、夜も家にいなね」
「え?」

脈絡のないそんな話はそれ以上広がることはなかった。

安いシャッターもその日はそれ以降切られることは無かった。







『十八日、水曜日九時ころ台風二号は小笠原諸島に上陸。本日未明、北西の方向に進み関東甲信越では雨風が強まる見込みです。夜の外出は避け─……』

「台風ねぇ。ヨウちゃん、雨戸閉めて寝なね」
普段静かで、荒れることを知らぬような宵闇は今晩に限ってご機嫌斜めのようだ。

「はーい」

何者かによって窓を叩かれているような雨風の強さに、土砂災害が発生しているだろうな、と他人事のように思った。
いつものように祖父母と挨拶をすませ、寝床に着く前に祖母の言いつけ通り雨戸を引くために窓を開けた。
風が雨粒を引き連れてものすごいスピードで室内めがけて飛び込んでくる。
昼間のうちにめんどくさがらず引いておけばよかった、と些か後悔しつつも錆びた音を立てながら雨戸を半分ほど引いたところでふと、頭をよぎる。

まさか、こんな暴風雨の中あのバス停に行ったりしないよな……。
流石のほたるも今日は大人しく大家のじいちゃんと部屋にいるはず……。

ただ何となく急に胸がざわついた。遥祐の脳内で何かが引っかかっているのだ。それが具体的に何だったかは思い出せない。
けれどほたるの事で何か、忘れている気がする。
「いや、いるわけないよな……」

このざわつきは台風による気圧のせいだろう。
遥祐はそう考えなおし、再び錆びた金属音に鳥肌を立てつつ雨戸を閉め切った。





「結局、出てくるとか馬鹿か俺は……」
これで居なかったら大損でただの馬鹿だ。
けどあの後、雨戸に打ち付けられる雨粒の音を聞きながら思ったのだ。
もし来ていたら、そしたら彼は一人で心もとない屋根の下震えているのではないだろうか、と。
こんな時に自分の意志で外に出るのだから自業自得だとは思うがもし万が一、居たらと思うといてもたってもいられなかったのだ。

祖母のピンクの花柄の合羽を拝借し、遥祐は懐中電灯を持ち風に逆らっていつもの倍以上時間をかけながら見慣れたバス停へと向かった。


今にも吹き飛ばされそうな屋根の下、悪い予感が当たったのだと知る。

「ほたるさん……」
初めて出会った時と同じ格好で、ベンチに寝そべりずぶ濡れの彼は顔を腕で覆っていた。
遥祐はゆっくりほたるの傍にしゃがみ込み、腕に触れた。
「うわ冷た……。ねえ、生きてる?」
僅かに力を込め揺するが反応はない。
しかし呼吸はしているようで、かすかに胸が上下しているのが見て取れた。
遥祐は根気強く、体をゆすり声をかける。
「ねえ、ほたるさん。起きて、ここで寝たらだめだろ」
ほたるは寝ているわけではなかった。単純に遥祐を無視しているのだ。
いつも遥祐がうんざりするほど無駄に話かけてくるくせに。

「ねえほたるさん。起きて」
もう何回か体を揺するとゆっくりと腕を退かしたほたるは、そのまま顔を横に向け、ぼんやりと目を開けて遥祐を見た。
遥祐は少し目を丸くする。
「……だから、雨の日は家にいなって言ったじゃん」
消え入りそうなほたるの声を気にもせず、遥祐は口を開いた。
「泣いてたの、ほたるさん」
ほたるの白い肌にそっと触れる。
どこもかしこも冷え切って顔色も良くない。
早くここから連れ出さなければいけないのに、今このほたるから目を背けてはいけない気がした。
目を見つめ、頬に流れ続けるほたるの涙を親指で拭った。

「なんで泣いてるの」
止まることを知らない涙は溢れ続ける。
ほたるは声を上げず、ただ遥祐を見つめ泣いた。
「ほたるさん、家に帰ろう」
遥祐は力任せに自分より細いホタルの腕を掴み、無理やり体を起こして自分の背におぶった。
「……ねえ、捨て置いて」
背中から鼻声の情けない声が聞こえる。
遥祐はおぶうために口にくわえていた懐中電灯をほたるに渡す。
「それ持って足元照らして」
「ねえ置いてって」
全く話を聞かない駄々っ子のアラサー。
「いいから早く持ってよ、見えねぇから」
豪雨で聞き取りにくいのに、更にもごもごと駄々をこねる背中に乗った男。

「なあ、」
「いいから捨ててって!」
その叫びが聞こえた瞬間、遥祐の中でぷちんっと堪忍袋の緒がはっきりと切れた。
遥祐はほたるを抑えていた手をぱっと離す。
その瞬間、背中の重みが消え同時にどしゃっと落ちる音がした。
遥祐は振り向き、駄々っ子な大人を冷たく見下ろす。
「何我儘ばっか言ってんだ。良いから帰んぞ」
冷たく言い放たれたほたるは一瞬ぽかんとして遥祐を見上げていたが、次第に雨に紛れて再び泣き始めた。
「置いてってって言ってんじゃん!」
「てってってって、うっせぇな」
「なぁ゛んでお゛こ゛んのぉ゛っ」
「アンタがごちゃごちゃうっせぇからだろうが」
「もぉ゛やだぁ゛あっ……っ」
「俺も嫌だわ!パンツまで濡れてんだぞ!」

苛立ちが止まらず、泥だらけになりながら泣きわめくほたるに怒りの勢いのまま遥祐はしゃがんだ。

「よーすけのばかぁ、ほっとけっていったぁ〜……ぴんくがっぱのくそがきぃっ……」

本格的に泣き始めたほたるの腕を取り、遥祐はそのまま駄々をこねる口を、己の唇で塞いだ。

雨で冷え切ったほたるの唇は柔らかいのかよくわからなかった。
しかし、ほたるを泣き止ませることには成功したらしい。
大きな目を更に大きさせてキョトンと遥祐を見上げていた。

「え……なん、……」
酷く悲しいような寂しいような……少なくとも、キスをされて喜んでいる表情ではないことを豪雨で顔が見えにくい今でも、遥祐にはわかった。どことなく心臓が痛む。

「いい大人が、みぃみぃうっせぇよ。アンタがどれだけ泣こうが喚こうが、今は絶対アンタをこんなところに放っていかない。わかったら黙って大人しく背中に乗れ。そんで懐中電灯を持て」

遥祐の何もなかったかのような表情にほたるは圧倒され、気づいたら素直に頷き素直に自分より広い子供の背中に乗っていた。
彼の背中で感じるゆったりとした心音と体温は、高鳴っていたほたるの心を落ち着けた。






「あー、あったけぇ」

ボロアパートの狭い湯船に男二人でぎゅうぎゅうに入る様は滑稽以外の何物でもないな、とほたるは不貞腐れながら思った。

結局あの後ほたるは大人しく遥祐に連れていかれ、初めてこの子供を自分の部屋へと招待した。
招待、なんて可愛らしいものではない。あれは、
「脅しだよねぇ……」
「なに?」
普段あまり表情の変わることはない一回り程下のこの子供は、ほたるよりも体格がよく背も高い。
腕もがっしりしているし、何より顔が整っているのだ。
穏やか、というよりはほたるの前ではムッとした顔が多いので厳つい、と言った方が的確だろう。
黒髪短髪でいかにも硬派、と言ったこの子供を初めて見た時、正直酔っぱらっていたのであまり印象には残っていなかった。
けれど次に会った時、優しい顔で犬と戯れ、ホタルには見せなかった柔らかい笑顔で大家と話している姿を見て不意に胸を打たれた。
回数を重ねるごとに遥祐の笑顔を引き出す瞬間が増え、同時に己の情けない醜態を晒す機会も増えていった。
今日もまた然りである。

「ほたるさん、そんなに縮こまらなくてもいいじゃん。男同士なんだから」
だから駄目なのだ、これだから子供は。
ホタルは頬を膨らませ無言の抗議をした。
その顔を見た遥祐は「ぷはっ」とふきだし、肩を揺らして声を押し殺して笑う。
(あ……)
その笑顔は初めて見た。
遥祐は万人に愛想はいいが、作られた笑顔が多かった。
ようやっと最近、大家のじいちゃんに口を開けて笑うようになったと思っていたが、こんな子供のような笑いもするのだな。
「ねえ、なんであんなところにいたの。今日が台風だってわかってたろ、流石にさ」
遥祐の呆れた声に、ほたるは目をそらした。
「……別に」
「なんでそんな拗ねんのさ」
ため息を吐く遥祐をじろりと見たほたるも話しかけた。
「お前こそ、なんであそこに来たんだよ」
下唇を突き出し遥祐を目だけで見上げれば、遥祐は高校生にしては逞しい手で前髪をかきあげた。
その仕草は子供のくせにやけに色気があって、頬に血が上ってきそうで慌てて鼻の下までお湯に浸した。

「なぁんか、居る気がしたんだよなぁ今日も」
なんだよ、それ。

「現にいただろ。俺ら思ったより仲良しじゃん」

にかっと邪な感情を感じさせない笑顔を向けられ、ほたるは胸が高鳴ると同時にまた、泣きそうになったのだった。





「なぁお前いつシティーボーイに戻んの」
風呂から上がり、年下にちゃっかり髪まで乾かしてもらったほたるはタオルケットに包まって、これまた年下に淹れてもらったホットミルクを両手でちびちびと飲んでいた。
「そのシティーボーイてやめろ、古いわ」
「じゃあなに?都会っ子?もやしっ子?」
精一杯の煽りをするほたるを意に介さない遥祐は「一週間後に東京戻る」とだけ返した。

自分からその話題を振っておいてほたるの心はちくちくと痛んでいた。
遥祐の「ただいま」と言える場所はここではないのだ。

こんなド田舎の田んぼだらけの場所ではない。
ネオンのお陰で昼夜問わず明るくて、人が沢山いて、騒がしくて、独りではないはずなのに独りだと錯覚させられるあの場所が、遥祐の帰るべき場所なのだ。
出会った時から分かっていたことでも、何故か寂しいと思ってしまう自分が居た。たかが一介の男子高校生に。

アラサーで人付き合いもろくにできないこんな大人なんて、眼中にないんだろうな。

時は止まらないからきっとまた次の夏が無慈悲にやってくる。でも遥祐はもう来ないかもしれない。
遥祐自身は、また絶対に来る、だなんて言っているが子供のいう事なんて信じられない。

彼女が出来たら?田舎より楽しいことなんて都会にはたくさん転がっているんだ。

いくらここに祖父母の家があったって、この先そう律儀に帰省する人間はまあいないだろう。
子供はミーハーなのだ。移り変わる感情や価値観、物事の荒波に揉まれて生きていく。
そんな忙しい発展途上の子供を田舎に縛り付けておくことはできないし、ましてや自分の存在を植え付けることもできない。

きっと東京に帰り夏休みが明けたらほたるの事なんてあっという間に忘れるだろう。
何かのきっかけで思い出してくれればいい方なのだろうな。

「……ほたるさん」
「えっ」
「えっ、じゃないよ。そろそろ寝ようかって言ったんだけど」

不意に顔を覗き込まれどきりと胸が鳴る。
「あ、うん……。寝る。寝よう……あれ、もしかしてお前この部屋で寝るの?」
「……アンタ、いい年して幼気な男子高校生を真夜中の二時過ぎに野宿しろって?しかもこの暴風雨の中」
「あ、いや……まあそうか」
よく考えなくても、ほたるが遥祐を自分の家へ案内し、お互い体が冷え切ったからという理由で一緒に風呂に入った時点で、どう考えても泊まることは確定していただろうに、何を今更なことを訊いてしまったのだ。
しかし、一つ屋根の下、ほたるにとってこの子供と寝ることは不安だった。それはこの子供の存在は既に、ほたるにとってただの子供ではなかったからだ。
恐らく隣に来るであろうこの男の横で、果たして平静に眠れるのだろうか。

「電気消すぞ」
遥祐の声に「はい」と返事をして横になる。
煎餅布団に大の男が二人。
いくらほたるが遥祐より華奢だからと言って余裕なんて生まれるはずもなかった。
けれど遥祐は多少気を遣ったのか、肩を少し狭めできるだけほたるに触れぬよう端っこに寄り、ほたるに背を向けていた。遮光カーテンではないほたるのワンルームは月明かりのおかげで真っ暗ではなかった。

目が慣れてくると、月明かりによってぼんやりと遥祐の縮こまった背中が浮かんだ。
その背中にまるで「でかくてすんません」と書いてあるようでおかしくなってほたるは声を出さずに笑った。
するとそれに気づいた遥祐はゆっくりとほたるを振り返る。

振り返った遥祐の鼻先と、笑っていたほたるの鼻先が僅かに触れた。

胸が高鳴り、ほたるは自分の鼓動が彼に聴こえてしまうのではないかと冷や汗が滲む。

「泣いたり笑ったり、忙しい人だなアンタ」

ふ、と優しく笑う遥祐の顔を見たほたるはぶわぁっと顔が熱くなるのを感じた。

もう駄目だ、これはもう駄目だ。

自分が一回りも下の子供に、恋心を抱いてしまった。
そしてそれは同時に失恋でもあった。

そもそもほたるにとって同性間の恋愛に壁はない部類の人間だった。それが紛れもないほたるが、このド田舎に逃げてきた理由だった。
ほたるは物心ついた時から同性が好きだと認識していた。

そして同時にそれは異常な性愛だということも知ってしまった。
大人になるにつれ、自分の性的思考が気持ち悪くなってきて段々人と関わることに恐怖を抱いたのだ。
初めは少しの耳鳴りやめまい程度で、それもほんの一瞬の発作だった。
それが次第に、耳鳴りの時間も長くなりめまいも日常茶飯事に。電車に乗ればすぐに吐いてしまうし、酷い時は気を失ったことさえあった。

営業職をしていたほたるに取ってその発作はあまりにも致命的で、接待中に過呼吸を起こしたのをキッカケに職場で孤立し、退職を余儀なくされた。
仕事がなくなれば必然と外にも出なくなった。
人が怖くて堪らないのだ。

きっとみんなほたるを異常者として見てくるから。
どうしようもなくなって、頼る人の居なかったほたるはたまたま旅行誌で見つけたこの村に、何となく辿り着いたのだ。
財布と身分証明書しか持っていなかったほたるは、かつて遥祐と出会った時のようにバス停で酔い潰れ、眠っていた。

ふと目を覚ました時、人の気配がして飛び起きると目の前には人の良さそうな顔をした老人が心配げにほたるを覗き込んで言った。
─……大丈夫かぇ?
これが大家のじいちゃんとの出会いだった。
彼はまるで自分の子供のように、時には孫のようにほたるに接してくれたいわば親のような存在だった。

他の村の住人がほたるに冷たくする中、じいちゃんだけはみんなの前でも優しく、陰口を叩かれてもほたるに接することを止めようとはしなかった。
そんなじいちゃんをほたるは守りたいと思っていた。

じいちゃんの評判がこれ以上悪くならないように、この村では同性愛者という事は絶対にバレてはいけないと心に決めたのだ。
そしていくらほたるが同性愛者だとて、そんな誰彼かまわず貪り食うわけではない。
遥祐の事は年下と知って余計に恋愛対象からは遠のいていたはずなのだ。
加えて残念ながら遥祐の存在はほたるのタイプからは外れていた。

ほたるは年上が好みなのだ。
四十五辺りで、穏やかな紳士が好きだ。
遥祐とは真逆。ほたるには愛想少な目だし、すぐ怒るし、力は強いし、荒いし……。
なのに何故、好きだと思ってしまったのだろう。
彼の無垢な素直さに惹かれたのだろうか……。
否、いずれにしろこの気持ちは一生表に出してはいけない。

自分の心の中にしまっておかなくてはいけない。
第一今この気持ちを伝えても、ほたるは犯罪者になってしまう。
相手はまだ未成年。
ほたるの存在が遥祐にとってトラウマになってしまう事だって十分にあり得るのだ。

それは、嫌だ。

「ねえ遥祐。ちょうどお前が帰る前日の夜祭りがあるんだ。一緒に行ってよ」

ほたるの最後のワガママだという事を知らない遥祐は一瞬驚いたが、何もいう事はなく「わかった」とだけ返した。

「楽しみだ」
ほたるは嬉しそうに顔を綻ばせた。
その表情に遥祐もまた、優しく微笑んだ。








いつもは闇に飲まれている村が、今日ばかりは活気に溢れ明るかった。
「あ、遥祐!お前も浴衣着たの!」
からんころ、と下駄を鳴らし駆けてくるほたるに手を伸ばし、肩を抱く。
「危ないから、下駄で走るな」
「……ガキのくせに」
唇を尖らせて言われても全く威厳はない。
遥祐は笑いつつ「どこ行きたい?」と問う。
「俺、どこでもいい」
ほたるは、祭りに来るの初めてなんだ、と目を輝かせて言った。
「じゃあ全部回ろう」
そう言うと、ガキである遥祐よりもはしゃいだのは、やはりほたるの方だった。




「はぁ……楽しい」
深々と呟いたほたるに遥祐も「だな」と頷いた。
「なあ明日何時に出んの?」
「昼過ぎくらいかな」
「ふぅん」
気のない返事をするほたるに少し意地悪したくなった遥祐は、ニヤッと口角を上げた。

「なに、寂しい?」

ほんのいたずらのつもりだった。
何の意図もない、ただ拗ねた顔が見たかっただけ。
たったそれだけの事だったのに、

「……うん、さみしい」

困ったように笑ったほたるの顔から目が逸らせなかった。

初めて会った時は小汚い酔っ払いとしか思っていなかったが、ほたると関わっていくうちに、子供っぽい彼のころころ変わる表情に惹かれる自分が居た。
自分の前でだけ見せる表情はどれも綺麗で愛おしいと思えた。

それは遥祐が、ほたるに恋をした証拠だった。

「お前はきっと、俺を忘れるんだ」

ほたるは遠くで打ちあがる花火を瞳に映し口を動かした。
キラキラと星が散りばめられたように光る瞳は、少し潤んでいる気がした。

「でも俺はお前を忘れないんだよ」

悪戯っ子のように笑ったほたるを、自分の世界に閉じ込めたかった。誰の目にも触れさせたくない─……けど今は、自分の腕の中にしか閉じ込める方法が思いつかなかった。

「な、なに……?」
驚くほたるの肩に、顔を埋めた。
「俺は忘れるのか、ほたるを」
「な……っ!お前呼び捨てっ」

「なあ、忘れるのか、俺は」

力強くほたるを抱きしめ、わたがしのような甘い香りと屋台の煙の匂いが混じって鼻腔に広がった。

「……忘れるよ、お前は」
「なんで」

なんの根拠があって言い切れるのか。
ほたるもまた遥祐の肩に顔を隠した。


「……お前が、子供だから」


ほたるの声が遥祐の耳に届いたその瞬間、遥祐はほたるから体を離し、彼の耳下に手を這わせ、りんご飴を食べていた甘い彼の唇にそっと口づけた。

花火に照らされたほたるの顔は艶やかで、その瞳からこぼれる涙は宝石のようだと思った。

「……ずるい」

大粒の涙を溢し続けるほたるの小さな、汗ばんだ額に己の額を合わせ遥祐は微笑む。

「俺はまだほたるの言うくそガキだから、狡い事も出来るし、壁を越えるのも怖くない」

「……おれは、……怖いんだ……すごく」

いとも簡単に二人を飲み込んでしまいそうな藍色の闇。
彼の左耳に光る、緋色のピアス。
破裂音を伴い打ち上げられる光たち。
一瞬で消え去る光の様はまるで、夏の夜を柔らかく照らしてくれる蛍のようだと思った。

「……ほたる、やっぱり綺麗な名前だな」

震えながら紡がれた言葉に返す事は出来なかった。
けれど儚くはない、消えもしない。
永遠ではないけれど、だからこそ美しい明かりなのだ。

「……おいで」

遥祐の知り得る言葉ではもう、ほたるを泣き止ませる事は出来なかった。
遥祐の言葉に素直に頷き腕の中に飛び込んでくるほたるを強く抱き締め、撫でた。
ほたるの後頭部は遥祐の手のひらに収まりそうで、愛らしくて微笑む。

声を押し殺さなくても花火の音が消してくれる。
涙も、情けない顔も夏の宵闇が隠してくれる。

汗ばんだほたるの額にキスを落とし、遥祐もまたほたるの肩口に顔を埋めて、この体温を忘れぬように必死に抱き締めた。






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