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驟雨(しゅうう)に洗われ、全身びしょ濡れになった夕は、錆び付いたテント屋根の下ぼんやり絶望していた。

今朝の天気予報のお姉さんは「今日は晴れます」と言ったのだ。毎朝彼女を信じている夕は勿論、傘など、折りたたみ傘すらも持ち歩きはしなかった。彼女を信じたばかりに、ひと風呂浴びたような濡れ具合だ。
否、彼女が悪いのでは無いな。この気まぐれな空がいけないのだ。尤も、いつも散々照りというのも困ってしまうのだが。
はてさて、きっとこれは下着までいってしまっているな。靴の中もぐちょぐちょしていて、歩く度に水がぐしゃりと湧き出てしまう。
靴下なんか意味を成さない。おろしたての糊のきいたカッターシャツも、濡れたせいで僅かに生臭さを感じる。
まだ、ざあざあ降りだ。しかし、空は明るいからすぐに晴れるだろう。
このまま走って帰ろうかと思案している時、運が良いのか悪いのか、聞き覚えのある声が聞こえた。

「行光!」
「……」

自分の名を嬉しそうに呼ぶような酔狂な人間は、この世で1人しか居ない。

「……日野、」

振り向けば日野は、ばしゃばしゃと激しく雨に打たれながら同じ屋根の下に避難してきた。ぽたぽたと頬を伝い顎から滴り落ちる雫が厭らしく見えて自己嫌悪する。

「きょー花ちゃん晴れっつったのになー、やられた」
「……はな、ちゃん?」
「朝のさあ、4chのお天気お姉さん」

あ、それ俺も観てきたよ。

「いつもほぼほぼ当てんのに、今日は駄目な日だったかぁ。ま、そんな日もあるわな!」

何事も楽しそうに話す日野を見つめていると、日野は夕の視線に気づき一瞬だけ僅かに眉を寄せた。

「……行光、これ羽織な」
「……え、え……!?」

なんで顔を顰めたのかと考える暇もなく、夕は行光から自分の服と同じくらいびしょびしょに濡れた上着を手渡されてしまった。

え、え……これ、……着るの? なんで?

「あー……あの、さ、…………いや、このまま一緒に走れる?」
「……っえ」
「俺ん家ちけーの、知ってっしょ? 寄ってってよ。時間平気?」

こんな短期間で2度も、かつて好きだった人の部屋に転がりこめるものかと、夕は大いに瞳を瞬かせた。

「だ、だいじょぶ、その……」

俺、もう帰るから、

その言葉を発するより前に、日野は肯定と受け取ってしまい「よし、じゃあ行くぞ!」と土砂降りの中、夕の手首を掴み引っ張った。

「……わ、っ」

いきなり引っ張られた夕はその力強さと、手の大きさに圧倒され、腕と体が切り離されてしまうんじゃないかという錯覚に陥った。
しかし走る速度は夕が懸念したより速くはなく、時折ちらりと夕を気遣うような視線を寄越しつつ走っていたから、きっと体力のない夕が着いてこれる速度を考えてくれていたのだろう。
途中何故か薬局に寄った日野だったが、買い物を終え出てくるとまた夕の手を取り、雨の中2人勇んで日野のワンルームのアパートへと駆け込んだ。







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日野が玄関を開ければ、ぱっと鼻腔を蕩かすような甘い日野の香りが広がり、夕は大きく深呼吸をして、走ったせいで鳴った鼓動と、手を掴まれてドキドキした鼓動を落ち着かせた。
日野は床が濡れるのも厭わず、ずんずん部屋の中に入って行く。そして、浴室からタオルを3枚取り出して2枚を夕にぽいっと放り投げた。
夕は慌てて靴を脱いでタオルをキャッチすると、日野はにっこり笑う。

「それで拭いてここまでおいで。そんで風呂入って来な。沸いてはねーけど、シャワーで温まって」

まさかの言葉に夕は目を見開いて思わず、ぶんぶんと首を大きく横に振った。すると日野はキョトンとした顔で「え? なんで? さみーっしょ?」と首を傾げる。
夕は柔軟剤の匂いがするふかふかのタオルに口元を埋め、ゆっくり言葉を発した。

「……も、もうしわけない、から……かえる、たおるだけ、……ごめん」
「なにが?」

借りるね、という夕の言葉はまた、飲み込まれた。

「……す、水道代、とか……た、たおる、とか……」
「とか?」

「……あ、えっと、……じ、時間……とか、」
「とか?」

「……あ、……ぅ、……や、……優しさ、とか……」

自分が何を伝えたくなったのか分からなくなり、思考がぐるぐるした。
なんでか今日は日野が少し冷たい気がした。けれど、夕にとってこれは普通の反応で、日野以外の人から常に受けている対応だった。日野が特段優しいだけで、普通の人はこうなる。日野は普通に戻っただけだ。……なのに、優しくされないと怖くなるなんて、我儘になったもんだ。
しかし日野はいきなりケラケラ笑いだした。時折、「時間と優しさって……!!」と言っている。

「ごめん! 行光。意地悪言ったわ」
「えっ」

い、意地悪!? 意地悪だったの……?

「あのさ、実はずっと透けてんのよ、行光の身体。シャツの下、何も着てねぇのな」
「えっ!?」
「お、珍しい大声」

日野の言葉にばっと自身の身体を見下ろすと、白のカッターシャツをチョイスしてしまったせいで、あろう事か全て、丸見えだった。こんな事になるなら、黒のTシャツにすれば良かった、と激しく後悔する。

「……だからさそれ、手当てさせて。あと出来れば、話も聞かせて」

……そうか、だから日野は、途中薬局に寄ったのか。
恋人からつけられたこの傷達が、あの土砂降りの中屋根の下で見えてしまったから。

また迷惑、かけてしまった。

「い、いたくないから……」
「うん」

「いらない」
「うん」

まるで拒否される事を分かっていたかのように日野の返事は早かった。夕は次なんて拒否しようか考えていると、いきなり肌と肌が吸い付くかのように……隙間を埋めるように、ぎゅっと夕の体は日野の体に引き寄せられた。
突然のことに夕は声も出ずに固まる。

「……お前が頷くまでこのまんま離さねーから。お前がいつまでもやだやだ我儘言ってっと、俺もお前も風邪引くなー」
「な……っ!? ず、ずるい……っ」
「狡くて結構。こうでもしねぇとお前逃げんだろ。前みたいに」

昔の事を持ち出されてしまったら、夕はもう否定出来ない。
なんせ逃げまくっていた前科があるのだから。

「わ、わかった! わかったからはなして!」
「男に二言は?」
「な、ないから!!」

よし、と満足気に頷く日野はやっと太く逞しい腕と胸から夕を解放した。夕は咄嗟に自分の胸に手を当てて、頬も真っ赤になっているのを自覚しつつ、恨めしげに日野を睨み上げた。

「はいはい可愛いお顔で睨んでもダメでーす。はよ行ってこい。あ、次俺も入っから籠城すんなよ」
「し、しない!!」
「素直でよろしい!」

ケラケラ軽快に笑う日野に顔だけで反発しながら夕はユニットバスに繋がる中折れ戸を開けた。




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