ハンジの部屋に入り、その曇った空気に咳き込んだリヴァイは、名前にこの部屋を早急に綺麗にするよう言いつけた。それから三時間たった今でも、名前は、ハンジの部屋の埃を払っていた。三時間かけて、洋服を片付け、書類を片付け、本を片付け、ようやく床が見えてきたのだ。眉間に皺を寄せ、口布に三角巾でハタキを振り回す姿はリヴァイを彷彿とさせる。彼自身が掃除を教えこんでいたこともあって、名前の掃除スキルは随分と上達した。
「この棚の上は弄っても大丈夫ですか?」
「うん。頼むよ」
棚の中を綺麗に拭き、時計やら顕微鏡やらを上手く収納する。その後は、本の上に積もった埃を落とす。名前が開けた窓から入る風が書類を飛ばそうとするのを、ハンジは両腕を使って抑えていた。濡れた布巾で本棚そのものを拭いていく。床に落ちていた本も埃を払い、本棚に収めた。書類はバインダーに纏め、引き出しに収納する。ベッドの下に転がる本を見つけ、名前はげんなりとした表情を作った。
「…ハンジさん、これ全部本棚に入りませんよ」
「あーじゃあそこらへんに積んどいて」
「ダメですよ。もう一つ本棚買いましょう」
「うーんエルヴィンに頼んどいて」
ふんふんと鼻歌を歌いながらペンを動かすハンジ。先ほど彼女の机周りを掃除した時に、その書類を覗きこんでみたが、みみずがのたくるような文字で書かれたそれを解読することはできなかった。脱ぎ捨てられた服とカーテン、シーツをかごに入れ、部屋の外の廊下に出す。かご3つ分の服を溜め込んでいるとは思わなかった。洋服ダンスは先ほど整理したが、どうりでスカスカだったわけだ。ベッドの下から本を発掘し、箒で埃を出す。雑巾で床とベッドを磨き、名前は腰を伸ばした。
「ちょっと洗濯してきます」
「ごめんね」
「お時間ができたらお風呂にも入ってもらいますからね!」
ハンジはすっかり綺麗になってしまった部屋を見渡した。小ざっぱりした部屋は、なんだか落ち着かない。名前がやけに従順なのも落ち着かなかった。名前は元憲兵団所属の兵士だった。101期訓練兵団を次席で卒業し、憲兵団に入団。入団式の夜、歓迎会の席で憲兵団の上司を殴って調査兵団に飛ばされた彼女は入団前から厄介者のレッテルを貼られていた。どんな凶暴猫かと思えば見た目は至って普通の女の子。ただ、酒が入ると厄介なことが判明した。酒瓶片手に人類最強に喧嘩を売った女は彼女が初めてだろう。煽るようなことを言ったリヴァイも悪いが、ここは軍隊。上司がルールだ。
「おいハンジ。名前はどうした」
「洗濯にいったよー?」
「ほう…随分綺麗になったな」
リヴァイは窓の桟を指でなぞり、埃がつかないことを確認した。床でひとまとめになっている本をにらみ、本棚を見る。入らないのか。今度はハンジを睨んだ。床に在る本の何冊かは図書室の本だ。きっと返却期限はとっくのとうに切れているだろう。
「そういえばあと何日?」
「あ?」
「ほら、名前とのアレだよ」
酔っ払った名前がリヴァイに喧嘩を売り、翌日彼に土下座する彼女の姿は多くの調査兵団によって見られていた。土下座しながら彼女が言ったセリフが「なんでも言うこと聞くのでゆるしてください」これを了承したリヴァイが名前にした命令が、自分の手足となって三ヶ月働くことだった。腐った性根を入れ替えてやる、と睨みつけた彼の顔はとても恐ろしいものであった。幸い入団直後とあって班編成は決まっていない。名前はその日からリヴァイの班に組み込まれ、文字通りにリヴァイの手足となって働いた。
「あんなもん無期限に決まってんだろ」
「可哀想に…」
「本来なら懲罰房にぶちこまれても仕方ないところをこうして働かせてやってるんだ。ありがたく思うことだな」
「お酒さえ呑まなきゃいい子だって証明されてるじゃないか。そろそろ解放して上げてもいいんじゃない?」
名前がリヴァイの元についてからもう二ヶ月は経ったはずだ。そろそろ終わりが見えてくる頃だと思ったが、そうは簡単に行かないようで、リヴァイは軽い舌打ちをした。
「あいつ、憲兵団に戻れると思っているらしい」
「え?」
「自分が殴った野郎への手紙をこそこそと書いてたんだよ」
忌々しげに顔を歪めたリヴァイはハンジが書き上げた書類を手にとった。巨人の生け捕りに関する資料だ。手足を切ってから網で捕獲。捕獲網に銛をつけることで抵抗を最低限に抑える。図と共に記されたそれは悪い案ではなかった。ハンジはメガネを外し、疲れた目を擦る。なるほどリヴァイは名前が憲兵団に戻ろうとすることを面白く思っていないらしい。
「いいじゃん元々憲兵団の子なんだから」
「だが今は調査兵団の戦力だ」
「討伐数ゼロだけどね」
「これから間違いなく伸びる」
リヴァイがそう言うならばそうなのだろう。軽い足取りと共に名前が部屋に戻ってきた。ハンジの部屋にリヴァイがいることに驚き、まずいものでも見られたかのように床に積みあげた本に素早く視線を飛ばした。えっとこれはまだ掃除途中で、と弁解する彼女にリヴァイは遅い、と激を飛ばす。頑張っているのに報われない。それも正規の訓練でなく掃除でこうも叱られては憲兵団に行きたくなっても仕方ないな、とハンジは苦笑いを浮かべた。