開国二十周年記念式典に行くという高杉に名前は自らもついて行くことを勝手に決めた。万斉を通して聞いた情報では兄である桂小太郎も江戸に潜伏しているという。戦争末期から会っていない兄の顔を見に行こうと思ったのだ。その旨を高杉に伝えると彼も彼で小太郎に用があるらしく二つ返事で許可をくれた。将軍様も来る大きな式典に興奮を隠せず嬉々として浴衣を選び出す名前に高杉は溜息を吐いた。どっちがいいかな、と呑気に聞いてくる彼女の手には二枚の浴衣。濃紺と真紅の全く方向性の違う浴衣で悩める彼女に高杉は右の浴衣を指差した。
橋の上で坊主の服装を纏った兄を発見した名前はなんともいえない感情に襲われた。攘夷活動にも莫大な資金が必要なのはわかっている。しかし頭領自らこんな恰好をしてお金を集めているとは。やっぱり高杉についてきてよかった、と名前は思った。小太郎に近づく高杉の背中を追う。高杉と名前の姿を認めた桂は眼を見開き、名前の腰に日本の刀を差してあることに対し、高杉を強く睨みつけた。未だに名前が刀を振るうことを認めない兄に名前の怒りも再び燃え上っていく。口を開けば間違いなく兄妹喧嘩が勃発する。そんな緊張下で口火を切ったのは高杉だった。二人の話に入る気が毛頭ない名前は欄干から下を流れる川を眺める。派手に着飾った浴衣姿に、高杉がくれた大きな簪。絶対に兄の趣味には合わない。河原を歩く男たちが名前に見惚れるのを見て、彼女は口角を上げた。
「名前。俺はやることがある。後で迎えに行くから兄貴とでも祭り、行って来いや」
「え…」
「おい待て高杉!」
予想もしていなかった展開に桂兄妹は高杉を問い詰めた。それを全て黙殺した高杉は人込みに紛れて歩いていってしまった。慌てて後を追おうとする名前の手首を桂が掴んだ。旧友がくれたチャンス。掴んだ手を離さないまま、小太郎はたちあがり、高杉が歩いていった方向とは逆方向に妹を連れて行った。かわいい妹をこのまま鬼兵隊に所属させておくわけにはいかない。刀を振るうこと、攘夷活動に参加していることでさえ許しがたいのに、よりによって名前がいるのはあの高杉の鬼兵隊だ。なんとかして説得しなければ。抵抗をやめ、無言で歩く妹にとりあえず昼食を食べさせることにした。
■ ■ ■
北斗心軒と暖簾のかかったお店に入ると小太郎は勝手に『本日は休業します』の札を表に出した。それに対し女主人が文句をいう。呆れかえった名前は何も言わずに出された水を飲んだ。幾松に一発殴られ左ほほを腫らした桂が向かいの席に着く。兄の真剣な眼差しに名前は背筋を伸ばした。
「名前。単刀直入に言わせてもらうが、俺はお前が攘夷活動をすることにまだ反対だ」
「……」
「だが、その意志は汲んでやりたいと思っている」
「どういうこと?」
「やるなら俺の目の届くところでやってくれ」
「鬼兵隊を抜けろっていうの…?」
「そうだ。高杉は危険すぎる。あいつのやっていることは攘夷ではない。ただの破壊行為だ。それはお前もわかっているはずだ」
「……」
兄の言い分が正しいことは名前にもわかっている。小太郎の元で戦えるのも望ましいことだ。でも名前には高杉がいる。戦争から置いて行かれた名前に刀をくれた高杉がいる。桂が名前を認める前に高杉が名前を認めてくれたのだ。勝手に鬼兵隊に入ったことに対し、彼女を思って小太郎は烈火のごとく怒った。そんな兄を避け続けているうちに戦は終わり、名前はまだ鬼兵隊隊員として高杉の傘下にいる。攘夷志士で居たいという思いより、置いて行かれたくないという思いから始まった判断だった。戦争をなめるな、となんど高杉に言われたか分からない。でも真剣を与え、毎日稽古をつけてくれたのは高杉だ。今の名前がいるのは高杉のおかげである。
「高杉には恩があるから。私はあの人と一緒にいくよ」
「名前」
「意志薄弱で、我が儘だってわかってるけど、あの人について行きたいの」
「名前…お前まさか…」
「……兄さ「高杉に惚れたのかァァァァアアアア!?許さん!お兄ちゃんはあんな奴、認めませェェェェんんんん!!!!」
頭を抱えて絶叫しだす兄に名前は思わず耳をふさいだ。シリアスなムードが一瞬にして砕け散った。「天誅ゥゥゥゥウ!!」となおも叫ぶ兄に向ってお冷を投げつけ頭を冷やさせる。見事に当たった水浸しになった桂は一瞬冷静になり、次いで予備動作なく名前の両肩を掴むと前後に烈しく揺らした。ぐらんぐらんと首が揺れ、力のこもり過ぎた桂によって華奢な肩が軋む。後ろで飾られた簪だけがしゃらんしゃらんと鈴やかな音を奏でていた。意識が遠のきそうで遠のけない一種の拷問に名前は泣きたくなった。名前の浴衣から香る高杉の煙管の匂いに桂の勢いは増す。
「どこまで行った!?AかBかそれともHかァァァァアァ!?まさかもうK線突破か?!おのれ高杉ィィィィィイィ!!!俺の可愛い妹を手籠めにするとはァァァァ!!」
「…ぅいい加減にしろぉぉぉぉぉ!!!」
「ふがっ!」
「惚れてねーし!なにもねーよ!馬鹿!」
ガンっと、鈍い音とブラックアウトした視界。襲いかかる頭の痛みに桂は妹の拘束を解除した。名前の渾身の頭突きが見事に炸裂したのだ。見事に着崩れを起こした浴衣を直しつつ、頭のネジがぶっとんだ兄から距離を置く名前。赤くなり、ジンジンと痛みを訴える額を涙目で押さえた。だから嫌なんだこの兄は。未だくらくらする視界を整えるように息を吸った名前は高杉を自分から探しに行くことを決めた。小太郎とはもう話し合っても無駄である。気絶した兄を放置し、二人分のお代と迷惑料を幾松に手渡した。こんなに受けとれないという幾松に名前は少し笑っていう。
「これからも兄がご迷惑をおかけすると思うので。…どうぞ兄をよろしくお願いします」
白眼を剥く兄の懐に一通の手紙を差し込んだ名前は街へと繰り出した。祭りの時間にはまだまだ早すぎた。高杉を探す名前を遠目から眺める銀髪。彼が名前のもとにたどり着く前に彼女の姿は消えていた。