消去法では答えがでない

全治二ヶ月ですね、と豊かな白髭を蓄えた船医に告げられた身体を引き摺って、名前は総督の元に向かっていた。もちろん先日の大使館員殺害報告のためだ。先ほど兄である河上万斉に傷の報告をした所「こんな簡単な任務でこんな大袈裟な傷を受けるなんて情けない。そなた、本当に拙者の妹か?」と辛辣なお言葉を頂いた。そもそも万斉に急なレコーディングの仕事が入ったため急遽名前が行かされたのだ。高杉に「三分で支度しろ」と言われた時の、あの恐怖。慌てて筆を放り刀を取った。まだまだ未熟な名前を一人で戦場に放り込むのは、例えそれが部下に経験を積ませてやろうという愛情の裏返しだとしても辛すぎる。

「高杉さん、失礼します。…入っていいですか?」
「あァ」

襖の向こうから返事が聞こえたのを確認して、敷居を踏まぬよう気をつけて部屋に入った。窓枠に座り、ゆるりと紫煙を揺らす高杉は文字通り絵に成る程様になっていた。万斉は音楽の才に恵まれているが、名前は画の才に恵まれた。無名の水墨画氏でありながら彼女の画は良く売れる。画に名を刻まないのだ。それでも名前の作品を見極め集めようとする粋人は少なくない。

「狗猿星大使館員暗殺の任務完了しました」
「怪我は」
「少しばかり足を負傷しただけです」
「……」

今まで空を眺めていた高杉が名前の足に目をやった。左踝を覆う包帯に向かって煙を吐く。吐き出された白い気体が名前の足元で散った。此の足の負傷。死んだと思っていた敵に不意打ちでやられたなんて恐ろしくて言えない。怪我の状態は気になっても理由にまでは興味のない高杉は「そうかい」と詰まらなそうに言うと再び月を眺めだした。

「それでは…」
「その足じゃァ暫くは暴れられねーな」
「はぁ…」
「部屋に閉じ籠もって襖に絵でも描いてろ」
「…はぁ」

襖絵とは。一礼し、自室へ向かいながら名前は首をひねっていた。生憎、名前の部屋は鉄製のため襖は無い。逆にあるのは高杉の部屋だけだ。高杉の部屋の襖絵を書けと言われたのか。何を書こう。派手好きなあの人が気に入るような印象的な襖絵。朱泥を使って燃え盛る江戸城でも書くか?…趣味が悪すぎる。燃え盛る江戸城より吉原炎上を描いた方がまだいいだろう。三日三晩考えた挙げ句、名前は筆をとった。


■ ■ ■


「万斉、あんたの妹っスよ?心配じゃないんスか?!」

名前が部屋に閉じこもってひと月と少し。名前が部屋から数ヶ月出なくなるのは珍しいことでもないが、二日ほど食事もしていないということで万斉が駆り出された。彼女が食事を取らず倒れるのも珍しいことではなかったから。閉ざされた名前の部屋の前で一拍息を吐く。ヘッドホンから流れる音楽を止める。芸術家の感性は繊細なのだ。

「名前」
「……」
「…これは」

返事が来ないことを承知で万斉が名前の部屋を開くと咽せかえるような墨汁の匂いが鼻につき、次に部屋中に散乱した和紙が目についた。色眼鏡を外して妹の部屋を眺める万斉は彼女が珍しく差し色を入れているのを見た。部屋の真ん中で筆を握る名前。鬼気迫る表情と白い夜着に飛んだ墨汁が合わさって異様な雰囲気を醸し出していた。兄に見向きもせず筆を滑らせる名前。彼女が万斉の存在に気づいたのは三時間後であった。

「終わったのか?」
「…兄さん、いつからいたの?」
「はて。数時間はいたでござる」
「いつもの五月蠅いシャカシャカ音がしなかったから気づかなかったわ」

万斉が持ってきたお握りに手を伸ばそうとして、その手が墨で汚れているのを見た名前は手を引っ込めた。困ったように兄を見る。

「仕方のない奴でござるな」

万斉が名前を座らせ、その口元にお握りを差し出すと名前は何の躊躇いもなく食べた。中身は鮭。また子が作ったらしいそれは完全な三角ではなかったが、名前はこの歪なお握りがお気に召したらしい。口を開けて早く食べさせるよう促した。

「あれは、天女と…鬼女か?」

名前の口にお握りを押し込みながら万斉は先ほどまで名前が書き上げていた二枚の襖絵を見た。白い襖には色彩鮮やかな着物を纏った笑う女とボロボロに薄汚れ、表情乏しい鬼女が書かれていた。笑う女が横たわる鬼女に赤い椿を差し出している。椿と着物以外墨汁の濃淡で表された圧倒的迫力に万斉は息を飲む。端に書かれた葉から察するに、草蔭から覗き見た世界なのだろう。我が妹ながら末恐ろしい才能だと感嘆した。

「毎度毎度、売ってしまうのが勿体無いものだな」
「…これは多分高杉さんの部屋に飾られるんじゃない?」
「晋助の?」
「この襖、高杉さんのだし」

二つ目のお握りを頬張りながら名前は言う。少なくとも二週間、高杉は襖が足りない状態で過ごしていたのか。考えられない状態に万斉は少し笑った。残りのお握りを名前の口に押し込む。少し大きかったのか名前の眉根に皺が寄った。

「早く手を洗ってこい。晋助にこの襖、返しに行くのを手伝だおう。ついでにひと風呂入ってきたらどうか?お主、墨臭いぞ」
「はいな」

裸足のまま部屋を出て行く妹の後ろ姿を見送った万斉は再び例の襖を眺めた。換気の為に窓を開けると勢い良く吹き込んできた風が床の半紙を舞い上げた。足元に飛んできた一枚を手に取る。それは襖に書かれた天女を書いたものだった。はて、誰かに似ている。残りの半紙を片付けながらその誰かが引っかかってしょうがなかった。名前の机の上に流し目を送る天女の絵を乗せ考える。

「それ、高杉さんをモデルにしたのよ」
「…あぁ」

確かに高杉だ。万斉の後ろから覗きこんだ名前が彼の疑問を解決させた。肩で切りそろえた髪を揺らしながら襖を運ぶよう万斉に言う。果たして高杉は、この天女が自分だと気づくだろうか。気づいたとして名前に何か言うだろうか。晋助、名前の目には、そなたは天女のように写っているらしいぞ。万斉の独り言に名前は困ったように眉を下げた。

「鬼女は誰だと思う?」

意味深に笑う名前の姿に万斉の第六感がざわめいた。名前には答えを教える気はない。高杉は出来上がった襖絵を見て満足気に笑った。
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