名前がどうして志士になったかというと、両親が攘夷志士だったからだ。つまり、それ以外の選択肢はそもそも薄かった。両親が従う桂からの頼み事で、とある物質の受け渡し現場に行かされた名前は初めて攘夷志士になったことを後悔した。帯刀していればもちろん真選組の目に止まる。追いかけてくる真選組隊士と夜半の鬼ごっこに興じていた名前は急に止まった怒声に、曲がり角で足を止めて様子を伺った。濃厚に漂う血の匂いが異変を告げる。
「誰…?」
「あ?」
角から覗き込んだ路地裏には血を流す真選組隊士が倒れていた。全く予測できなかった展開に名前の思考回路はフリーズする。彼らの枕元に立つのは一人の人影。笠を深く被ったその人物は声からして男だと判断できた。名前は腰の刀を抜き、相手に向かって構える。その姿は毛を逆立てた野良猫のようだった。
「助けてやったのにその態度はいただけねェなァ…」
「助けてって頼んだ記憶はない」
「そうだ。お前はただ、結果的に助かっただけだ」
「……」
「失せろ」
名前が後退ろうとした時、名前が背にしていた民家の明かりがついた。民家の明かりによって男の顔が初めて見えた。左目に包帯。その顔は何度も、何度も見たことがあった。
「鬼兵隊の…高杉?」
「年上に向かって呼び捨てかよ。礼儀のなってねェガキだな」
「どうして桂さんを裏切った?」
純粋な疑問をぶつけただけだった。名前は桂のことを詳しく理解しているわけではない。彼の思惑はいつでも読めず、名前は盲信的に桂の一言一言に従っているだけだ。高杉のことも世間一般程度しか知らない。だから名前が仮に高杉から桂と懐を別った理由を聞いてもどうにもならないだろう。けれども気になった。高杉は名前の質問に答える気が全くなく、無言で刀を鞘に収めた。
「さっさと帰って寝ろ。ガキが出歩いていい時間じゃねーよ」
その言葉に毒気を抜かれてしまった名前は渋々といったように刀をおろした。自分の抱いていたイメージと、現実の彼は大きくギャップがあるようだ。桂一派とわかれば斬られてもおかしくない。だが、高杉は名前に刀を向けることは無かったし、そもそも敵意も向けてこなかった。過激派とは思えない。名前は無性に去ろうとする高杉の背中になんでもいいから言葉を投げつけたくなった。
「ねえ!」
「でけえ声出すな」
「なんで江戸にいるの?」
「…お前さんに関係ねェことなのは間違いないぜ」
「…助けてくれて、ありがと」
名前がぶっきらぼうに礼をいうと高杉は小さく笑った。名前を助けたわけではない。だが、礼を言われて悪い気もしなかった。高杉が歩き出すと名前も桂の元へ帰るために路地を進んだ。桂に、高杉に助けられたと言った方がいいのだろうか。それとも黙っていたほうがいいのだろうか。言いたいような気もしたが、言わないほうがいい気もした。
「あれ?桂さん?」
「遅い。心配したぞ」
「すみません」
長屋の前には桂が立っていた。名前の姿を見るなり安堵したかのようなため息をつき、彼女の手から風呂敷を受け取る。名前の背を押し、共に家へと入った。ちゃぶ台の前にちょこんと座るエリザベスがお茶を出してくれる。淹れたてのほうじ茶が胸の辺りを熱くした。
「名前、お使いのお駄賃だ」
「…飴玉」
「食べたらちゃんと歯を磨いて寝るんだぞ。お前が虫歯になったらお前の父に俺が怒られる」
「はーい。父と母はいつ帰ってくるんですかね?」
「…さあな。もうしばらく帰って来られないだろう」
「そうですか」
「ああ」
桂は目を伏せて名前から畳へと視線を動かした。エリザベスはボードを出して名前と会話を始めている。どのタイミングで彼女に本当の事を言えばいいのか。静かに苦悩する桂に気づくことなく名前は大きな欠伸をし、涙を流した。