早く許してよ

神威が予備校から帰宅すると風呂場の電気だけがついていた。マンションの鍵を玄関ポーチの棚の三段目に置いてある箱の中に入れ、高校指定の通学カバンを自分の部屋のベッドの上に乱暴に放った。ゲームセンターで獲得したうさぎのマスコットの悲し気な視線に見送られて洗面所に向かった。手を洗い、うがいをし、学ランをハンガーにかけてカッターシャツを腕まくりする。靴下を脱いで洗濯機の中に入れ、小さく溜息を吐いて風呂場の扉を開けた。視界が白くかすむほどの湯気の中に人影が見える。

「名前?」

湯船のヘリに頭と足を乗せ、両腕で目を覆うようにして風呂に入っていた名前は神威の声に少しだけ反応した。そんな彼女の濡れた髪を撫でた神威は指先の冷たさに顔を顰めた。湯の外に出ている腕も冷たい。けれども、彼女が身を沈めるお湯はまだ四十度を保っていた。追い炊き、追い炊き。白いスポーツタオルを彼女が腕で隠すようにしている顔にかけた。

「ご飯だよ。早くでておいで」

神威が風呂場を出て台所に行くと名前は緩慢な動作で足を湯の中に引っ込めた。ついでタオルを手に取り、腕を顔の上から降ろす。照明の明るさに顔を顰め、ぱちゃぱちゃと浴槽の水を掬って顔にかけた。立ち上がり、栓を抜く。風呂場から出た名前は浴槽内との温度の差に身を震わせた。スポーツタオルで全身の水気を取り、バスタオルを体に巻き、胸の前で止める。化粧水を適当に肌にしみこませて脱衣所を出た。

「どうぞ」
「ありがとう」

コップに冷えた水を入れた神威は名前に氷を入れたそれを差し出した。受け取り一口口に含んだ。火照った体内を冷えた水が滑り落ちていく。名前が水を飲み干している間に神威はコンビニで買ってきたお弁当を電子レンジに放り込んだ。三分ほど温めているうちに名前はテレビの電源をつけた。ニュース番組にチャンネルを合わせてニュースキャスターが原稿を読み上げていくのを険しい面持ちで睨む。そんな名前の前に麦茶を注いだ神威は温まった幕の内弁当の蓋を外して机に置いた。割り箸を割って、差し出す。

「神威」
「うん?」
「明日には出ていく」
「そう」

胡麻が振りかけられた白米を口に入れ、麦茶で流し込んだ名前はそう言った。神威は部屋の暖房をつける。バスタオルしか身に着けていない彼女の腕に鳥肌が立っているのを見たからだ。服は洗濯機の中に放り込まれている。

「誰か私のことを尋ねてきても恍けてね」
「わかってるヨ」
「あと鳳仙にもお礼言っといてね」

から揚げを半分に切る。不機嫌になった神威に肩をすくめて見せた名前はプチトマトのへたを外す。明日の天気予報を伝えるアナウンサーの声が静かなリビングに響いた。

「ここから出て名前はどうするの?」
「しばらく西のほうに行くよ。伝手があるから」
「ふうん」

神威のポケットに入っていたスマートフォンが震える。それに鋭い目を向けたのは名前だった。画面をタッチした神威はメールマガジンであることを確認させるため名前に受信画面を見せた。殺気立った雰囲気が丸くなる。閉められたカーテンの隙間にちらりと目を向けた。サイレンの音がする。だが、救急車のようだ。

「名前、今日も殺したの?」
「…さあ」

神威は名前が人殺しだと知っている。先ほどニュースでやっていた暴力団構成員の死体が見つかったという事件は名前の仕業だと直感していた。鳳仙に頼まれて匿っていた神威だが、その同居生活も今日でピリオドが打たれるようだ。なんとなくつまらない気がして目の前の名前を睨みつける。神威に睨まれても気にした様子のない名前はエビフライにソースをかけることに専念していた。

「俺も連れてってよ」
「どこに?」
「名前が行くところに。弟子入りさせてヨ」

少しばかり目を見開いた名前は神威の真剣な顔をまじまじと見つめ、笑い出した。笑われた神威は合点が行かないと言うように眉を寄せる。自分を落ち着かせるように麦茶を飲んだ名前はエビフライの衣を歯でかみちぎる。馬鹿な話は終わり、と告げられたようだ。さっさと弁当を片づけて部屋に引っ込んだ名前。リビングに置き去りにされた神威はふてくされた表情でスマートフォンを弄った。いたずらのつもりで電話帳に登録されている名前の電話番号に電話をかける。

「おかけになった電話番号は現在使われておりません。電話番号を確認のうえ…」

苛立った神威は壁にスマートフォンを投げつけたくなった。その衝動を抑え深く息を吐く。シャワーでも浴びようと思い、廊下に出た神威はリビング以外のどの部屋の電気もついていないことに気が付いた。名前はもう寝たのだろうか。彼女が使っている部屋を覗いた。

「名前?寝ちゃった?」

返事はない。名前が気付かないわけがないから、寝たふりでもしているのだろう。神威は部屋のスイッチを付ける。ぱっと蛍光灯が付き、部屋が明るくなる。名前はいなかった。表情を歪めた神威は洗濯機を覗く。中身は神威の着替えだけだった。玄関の靴置き場にも名前の靴は無かった。ああ、行ったのか。リビングで物音がした気がした神威はゆっくり足を進める。つけっぱなしにしていたはずのリビングの電気も消されていた。壁にあるスイッチに手を伸ばした。

明かりが点灯しかけたとき、窓際に立つ彼女が勢いよく振り返った気がした。暗闇に慣れかけた神威の目に焦りを浮かべた名前の表情が映り込む。暖かい光がリビングを照らし、次の瞬間にはガラスの割れる音が響いた。神威の足下にまで破片が飛ぶ。飛び散った破片をたどり、名前に目を戻したとき、彼女の体は倒れ込んでいた。



酒を片手にぼんやりとした表情で昔話を語る神威の前に阿伏兎は水を置いた。安っぽい居酒屋にいまいち馴染めない二人を店員は訝しげに見る。

「で、お前さんがこの仕事についた理由ってのは?」
「もちろん、」

神威は顔をあげて好戦的な瞳をきらめかせた。その目の奥に暗い色を感じ取った阿伏兎はぬるいビールを飲み干す。

「名前の仇討ちさ」

春雨最強の殺し屋と歌われている彼の目指すものがその程度のものとは思えない阿伏兎は首をかしげる。きっと彼はまだ何かを隠しているのだろう。だが、神威はこれ以上話す気は無いようで、店員にウーロン茶を注文した。そろそろお開きだろう。

「阿伏兎」
「…なんだい」
「嘘だヨ」

にやっと笑った神威は財布を阿伏兎に投げて出て行った。受け取った阿伏兎は神威の財布ではなく自分の財布から安い食事代を出す。店の外に出た神威は空を眺めていて、その光景に阿伏兎は少し、憂鬱な気分になった。
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