揺らぐ純情

珠が枠と梁に当たり、ぱちんぱちんと弾けるような軽い音を鳴らしている。名前は耳心地のいい音に少し目を閉じて耳を傾け、残りの仕事を片づけていた。ふと時計を見ると授業終了からはや三時間も経っている。吉田先生はもうお帰りになってしまったから、十畳ほどのこの部屋にいるのはアシスタントの名前ともう一人。先生と入れ違いになるように、ふらりと現われて、先ほどから算盤を弾き続けている高杉しかいなかった。算盤を弾くなら、きちんと正座をして貰いたいが、まあ授業は終わっている。彼がだらしなく立膝をついて算盤を弾いていたとしても、わざわざ咎めるほどではないだろう。軽く視線を向けるとそれを感じとったのか彼も珠を弾く手を止めて顔を上げた。そしてすぐに視線をおろし、珠を払った。それから数分後、彼女も出納帳に今月の月謝をまとめて記入し終わり、すこしためらった後、静かに閉じた。

「高杉君。そろそろ教室閉めたいのだけれども」
「…ああ」

名前の言葉にぶっきらぼうに返事をした彼は、見た目からは想像できないほど素直に算盤をケースに収納し、学生鞄にしまい、窓の鍵を閉め、カーテンまで閉めてくれていた。遊び盛りの高校生が静かに算盤なんて鬱憤が溜まりそうなものだけれど、どうやら彼は違うらしい。勉強は好きではないけれども、算盤は好きなのだと前に教えてくれた。いかにも不良な外見と相まって、一層変わった生徒である。その高杉が教室から出たのを確認してから部屋の電気を落とし、ドアを施錠するために廊下に出た。公民館の一室を借りている算盤教室だが、夜遅くなったせいか他に人気がなく、なんとなしに不気味だ。夏とはいえ二十二時も過ぎれば外は暗い。廊下の明かりもついていないせいで鍵穴に鍵がなかなか刺さらなかった。じわりと湿度の高い籠った熱気が首筋に絡みつき、居心地の悪さに名前は軽く首を振って頬にかかる髪を払った。

「ほらよ」

声と共に湧いた急激なまぶしさに名前は目を細めた。手間取る名前の手元に燦然とした電子光が当てられていた。右横を見ると高杉が壁に寄りかかるように立っている。名前の手に向けられた手には高杉のものだろうスマートフォンが握られ、その待ち受け画面の光によって鍵穴が照らされていた。味気のない待ち受け画面。かちゃり、と音を立ててスムーズに施錠は完了した。

「ありがとう」
「ついでだから駅まで送ってやらァ」

名前の手から鍵を浚った高杉はさっさと廊下を歩き、階段に消えた。それを慌てて追う。彼女が一階にたどり着いたとき、彼は受付のおじさんに鍵を渡すところだった。小走りで受付に向かい、退出時間と責任者の名前を記入する。出口の扉を開けて待っている高杉を待たすのは心苦しいのでやや乱雑な字だ。ほとんど話したこともない高杉がわざわざ送ってくれるとはどういった風の吹き回しなのだろうか。駅までの道も特に会話を交わすことなく歩いていく。信号待ちするときでさえも、こちらを見ようともしなかった。当てもなく視線をうろうろさせる名前の目に入ったのは「不審者注意」の看板。一週間ほど前からそういった呼びかけがされていた気もする。もしかして、と隣に立つ高杉を見ると、彼もその看板を眺めていた。何も言わないが、きっと心配してくれていたのだろう。わかりづらい優しさだからこそ名前の身に染みた。もうすぐ駅だ。なかなかに人通りも多くなってきた。

「送ってくれてありがとう」
「ああ」
「高杉くんも気をつけて帰ってね」

それには返事をせずに引き返す高杉の背中をしばらく見ていた。帰ったら大学のレポートを書かなければならない。そんなことを思いながら改札口を通り、ホームに続く階段を上った。名前は少し緩んだ口元に手を当てる。高杉が出納帳に挟んだ小さな紙は今日も気付かれないままだった。
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