ビターコンビネーション

元同級生である灰原の訃報が名前の元に届いたのは、名前が呪術高等専門学校を自主退学した5ヶ月後の高校2年生の9月だった。
もう1人の元同級生、七海から連絡を受け取った時の衝撃を今でも名前は言葉にできない。通夜でも、告別式でも、名前は目を開けない灰原に掛ける言葉を持っていなかった。

名前が放課後に働く喫茶店の時給は900円である。喫茶店の定休日である火曜日を除き、平日は毎日17時から閉店時刻である21時までシフトを入れているため、1日の給料は4500円であり、月平均で8万円程度の収入を得られた。
ATMから今月分の給料を残さず引き出した名前は、それを収めた現金封筒を鞄にしまうことなく、店舗前で待つスーツ姿の男に渡した。
その場で封筒を開けた男は、金の入ったままの現金封筒で名前の頬を叩いた。
「おい、足りてないがどういうつもりだ?」
「すみません。貯金が尽きました」
「それはお前達の都合だろ。明日までに残りの金、用意しないと痛い目を見るからな」
凄みを利かせる借金取りの男に名前は静かに頷いた。
「家の物を売ります」
「そうしてくれ」
先程の表情から一転、笑顔を見せた男は名前の肩を優しく叩いて去っていった。

制服のプリーツは握りしめていたせいで皺になってしまっていた。名前はスカートを軽く叩き、その皺を伸ばした。
家の物を売るとは言ったが、アクセサリーなどの貴金属類は既に無い。今でさえ最低限しかない家電や服を売ってしまうと今後の生活が成り立たない。家が持ち家ならば売却することで纏まった金額になっただろうが、名前と家族が住んでいるのは市営の住宅だった。

重い足取りで家に帰った名前はがらんとした部屋を見渡した。1DKのこの部屋に、もはや金目の物など存在しなかった。身体の力を抜けば、重力に逆らうことなく名前の足は崩れ、砂利の散る玄関に座り込んだ。

どれくらい呆然としていたのか判らないが、名前の意識は、玄関のチャイムが鳴らされた音で浮かび上がった。
玄関の扉に背を預けながら緩慢な仕草で立ち上がった名前はそっとドアスコープを覗き込んだ。本来ならば扉の前に居る人物の姿が見えるはずであるが、指で塞がれているのか、スコープ越しに見える光景は墨を塗りつぶしたような暗さだった。
訝しんで居留守を使おうとした名前の気配を察したのか、今度は扉が優しく叩かれた。
「名字、私だよ」
その声には聞き覚えがあった。つい最近、灰原の葬式でも聞いた声だった。
「夏油先輩?」
チェーンを外し、玄関の扉を開けると名前の予想に違わずそこには私服姿の夏油が立っていた。
「久しぶり。元気にしてた?」
「まあ……夏油先輩は変わりませんね」
「そんなことはないさ、それより、少し話したいんだけど上がっても?」
部屋にあがろうとする夏油に名前は首を傾げた。夏油は高専時代の先輩であり、お世話になってはいたが二人っきりで話し込むような仲ではなかった。どちらかと言うと名前は夏油のことが苦手だったので、部屋に上がられるのは正直気が進まなかった。
「母が中に居るんです。よければ外の公園かファミレスで話しませんか?」
「いや、実は諸事情があってあまり外を彷徨きたくないんだ」
「……私に何か御用ですか?」
玄関で話を済まそうとする名前の肩を夏油は軽く押した。強い力を籠めたつもりは無かったが、膂力の差は明らかで、体重の軽い名前はその力に押し流されるように後方に蹈鞴を踏んだ。名前が後退りした分、夏油が踏み込む。後ろ手で玄関の扉が閉められたことを確認した名前は唖然とした。
「お邪魔するよ」
「……先輩が無神経な人だということを忘れてました」
「酷いな、これでも名字には気を遣って優しく接していたつもりだったんだけどね」
「あっ、部屋を片付けるので少し待っててください」
「お構いなく」
夏油が構わなくても、名前は困る。名前は慌てて部屋の奥の寝室の扉を閉めに向かった。
靴を脱いだ夏油はその後を追い、ダイニングキッチンのローテーブルを見つけるとその近くに腰を降ろした。
すっかり寛ぐ姿勢を見せた夏油に名前は非難の目を向けた。
「お茶でいいよ」
傍若無人な夏油の態度に名前は口をへの字に曲げながら冷蔵庫を開けた。冷蔵庫から取り出した2Lのペットボトルと水切りラックに置いてあったコップを手に持ち、ローテーブルに載せると、名前は怒りを込めるようにペットボトルの蓋を開けた。
勢いよくコップに注がれたお茶は水面を波打たせながらガラスを満たした。
「どうぞ」
「どうも」
名前が差し出したグラスを手にとった夏油は一呼吸で飲み干した。
9月とはいえ今日は夏の名残を残したように汗が滲む気温だった。喉が乾いていたらしく、再度差し出されたグラスに名前は無言で緑茶を注ぎ足した。静かな部屋には衣擦れの音が大きく響く。気まずさを誤魔化すように名前は自分の空のグラスを爪で弾いた。
「帰ってほしいって顔に書いてある」
苦い笑みを浮かべた夏油は名前の柔らかい頬の肉に親指と人差し指を挟むように沈めた。摘んだ名前の丸い頬は、溶けかけた雪見だいふくのような感触だった。
何が面白いのか名前にはさっぱり理解できないが、夏油は上機嫌で名前の頬を小突き続けた。
「やめてください。ほんと、何しに来たんですか」
夏油は頬杖をついて名前の横顔をじっと見つめた。
「名字、借金肩代わりしてあげるから、私のもとで働かないかい?」
夏油の手を払い、赤く熱を持った頬を自分の手で冷ましていた名前は、夏油の言葉にそっぽを向いていた顔を戻した。
不機嫌から一変、野良猫のように警戒心を顕にした名前を宥めるように、空のままであった名前のグラスにお茶を注いで差し出した。親の借金について触れてほしくないと名前が思っていることは察していたが、夏油は態とそこをつついた。
「名字のことを数日前から探していて、偶然知ってしまったんだ」
「同情なら結構です」
「同情じゃない。言っただろう。元々名字の力を借りたいと思って探してた」
名前の機嫌を取るように、グラスを掴んだ名前の手の上から自分の手を重ねようとした。
夏油の指が触れた途端に、まるで油が跳ねたかのように手を引いた名前を、無言で夏油は非難した。避けられている自覚はあったが、こうもあからさまに嫌がられると心が痛む。夏油は比較的名前を気に入っていたのだ。
「酷いな、名字。私の頼みを聞いてくれないのかい?」
「夏油先輩に何を言われようと呪術師には戻りませんよ。万年人手不足なのは知っていますけど、灰原君の穴は私には埋められません」
「別に君にそんなこと求めてない。もしかしてまだ知らなかった?私も呪術師を辞めたんだ」
「…………」
夏油は肩をすくめて何事でもないように言ったが、名前の頭はそれを理解できずにフリーズした。元々大して回転の早くない頭ではあるが、夏油が呪術師を辞めたということが信じられなかった。
固まる名前を溶かすように夏油は名前の手の甲を抓った。
「やっぱり君って顔に出る。素直でいいと思うよ」
「褒めてないことだけはわかりました。そうなんですか、夏油先輩が辞めたとなると呪術界は大打撃ですね。てか、よく辞められましたね。私と違ってそう簡単に手放されるとは思いませんけど」
「辞めた理由を聞いてこないあたり、名字って私に興味ないよね」
「まあ、否定はしないです」
名前は暗に関わりたくないと伝えたつもりであり、夏油はそれを理解した上で故意に聞き流した。
「諸事情で私も追われているんだ。名字の術式は逃げるのに役立つだろう?とりあえず1ヶ月でいいから私の身を隠すことを手伝ってほしい」
「嫌ですよ……私にメリットがないじゃないですか。厄介事に巻き込まれるのも御免です」
「借金を肩代わりしてあげるし、ちゃんと給料も出す。割のいいアルバイトだと思えばいい」
胡散臭い笑顔を浮かべる夏油を名前は恨めしく睨んだ。夏油は名前が断らないと思っているのだろう。名前の貯金が尽きたこのタイミングで訪問してきたことが偶然だとは思えなかった。
「何に追われているか知りませんが、呪霊と戦うのはもう嫌なんです」
「その心配はいらないさ。名字を戦闘には巻き込まないと約束する。元々、名字に戦力としての期待はしていないし」
夏油はテーブルについていた腕を持ち上げ、右手を名前の顔の高さに上げた。握っていた拳から小指だけを立ち上げ、名前を誘うように曲げてみせた。
「日給2万と衣食住の生活費は別に支給する。悪い話じゃないだろう?」
「悪い話じゃないですけど」
煮え切らない態度で指切りを拒む名前に夏油は痺れを切らした。
「頷くまで呪霊の群れに追いかけまわされたいのかい?」
夏油の言葉に名前は嫌な記憶が蘇りかけて、顔をしかめた。五条と夏油が巫山戯て大量の呪霊に名前を追いかけ回させたことは忘れていない。チューしよーよ、と迫って来る呪いに泣きながら高専中を逃げ惑った記憶がある。
思い返せば、あの出来事によって名前は夏油に拭えない苦手意識を植え付けられた。恐怖の記憶が蓋を開けて出てこようとするのを名前は必死に抑えた。
一方夏油は名前の記憶の蓋をこじ開けようとするように名前のトラウマになっているチューを迫る呪霊を出してみせた。
「わかりました!わかりましたから、それ、しまってください!」
「それはよかった。じゃあ、行こうか」
今日一番のアルカイックスマイルを浮かべた夏油は胡座を解き、床から立ち上がった。苦い顔をする名前に手を差し伸べ、立ち上がらせた。

玄関に置いてある靴に足を突っ込んだ夏油は、ローファーを履こうとする名前に声をかけた。
「お母さんに一言かけていかなくていいのかい?」
「必要ないです」
無表情で返答した名前は部屋の奥に見える寝室の扉を一瞥した後、夏油を押して玄関から出した。マンションの廊下に出て鍵を閉めた名前は、深々とため息を吐き、夏油を見上げた。
「じゃあ、まず佐々木さんの所に行きましょう。夏油先輩、私の代わりに300万払ってくださいね」
「お安い御用だよ」
名前が手に入るならば喜んで払おう。一度夏油に手を貸してしまえば呪術界は間違いなく名前を処分対象にする。信頼されているのか興味がないのか、夏油の近況を確認しない名前が悪いのだと自身が故意に伏せていたことを棚上げし、名前に責任を転嫁した。
「夏油先輩?」
「なんでもないよ。さあ行こう」
名前の背を押した夏油は、後戻りできない一歩を踏み出させた。
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