18

人の心は心臓にあるのか、脳にあるのか。魂は心に宿るのか、肉体に宿るのか。数年前、大学の講義室で聞いた講義をおぼろげに思い出していた。坂本の前に置かれたガラスケースに浮かぶ脳は、名前達と共に過ごした時間を桂の中に思い返させた。

「名前の妹を焚き付けたのはお前か?」
「焚きつけたっちゅー言い方には語弊があるが、まあ、そうじゃな」

悪びれも無く坂本はそう言った。マナと坂本はゲームをしたのだ。
それに見事に勝ったマナは知りたい事を知る権利を得て、そしてその権利を坂本に突きつけた。桂はきっと誤解している。この手のなかにある脳みそは、魂は、名前の物ではない。

「お前は名前の妹に何を言ったんだ?」
「あの子の両親がどうして殺されたか教えただけぜよ」
「両親の死因がどうして姉を殺そうとしたことに繋がる?」

坂本は机に引き出しを漁り、薄いクリアファイルを取り出した。それを桂へと手渡す。持ったままのコーヒーを机の上に置いた桂はクリアファイルのなかから書類を取り出し、目を通した。これは坂本がマナに渡した書類のコピーだ。

「こんな研究をしちゃあ、いつどこで誰に消されても仕方ないような気がするがのぉ」
「……」
「げに、世の中には知らない方がええことが多すぎるぜよ」
「……これは本物なのか?」
「DNAも確かめてある。これは間違いなくあの子のじゃ」

坂本がガラスケースをなでる。その中身は、名前ではなく、マナのものだった。彼女たちの両親は医者。名前と妹は確かに戸籍上は姉妹だったが、正式に血の繋がった家族ではなかった。
この書類に書かれている事が嘘か本当かは確かめられないが、これを見た少女の衝撃は計り知れなかっただろうと予想はできた。赤の他人でさえ背筋が凍ったのだ。当時者からすれば、自我を保つのでさえ難しいだろう。そもそもマナは人間と呼べるのだろうか。

「名前はこれを知っているのか?」
「どうじゃろなぁ?」

坂本の机に置かれていたパソコンがメールを受信する。無線マウスを使ってメールボックスを開いた。添付ファイルと目の前の友を見比べた。

桂は名前とマナが行方不明な事、マナのパーソナルコンピューターから坂本とのやり取りが見つかったことを聞いて坂本に知っている事を直接尋ねにきたのだ。もう用は済んだ。

「名前は、生きているのか?」
「それはわしも知りたい。さっきも言ったが連絡がとれんのじゃ」
「…銀時は、名前が高杉に殺された可能性があると言っていた」
「……てんご言うたら困る。なで高杉が名前を殺す?」
「今の高杉は名前が知っていた高杉じゃない。あいつはただのテロリストだ。今のあいつにとって弱味になる名前の存在は、側にいようが遠くにいようが、足枷にしかならないんだろう」
「……」

桂の言葉に坂本は視線を手元から桂へと移した。名前が二年前、消息不明になったとき、坂本に探してくれるよう頼んだのは高杉だ。その時は、本当に名前を心配していたように見えた。人の心は万華鏡のように移り変わる。だから三秒前の心境と今の心境が変わっていても不思議ではない。

「おまん、何しにきゆう?」

わざわざヘリコプターを飛ばして会いにきた目的は何だ。ただ話をしたいのならば、携帯電話がある。文明の利器を使わずに会いにきた目的はなんだ。坂本も暇な身ではない。船はとっくに港についているだろう。陸奥が肩代わりしているだけで、坂本の仕事は手に余るほど有るのだ。

「名前がどうなったのか、知りにきたのだ」
「わしゃ知らんと言っちょるがな。高杉に殺されたっちゅう話がまっことなら、そうなんじゃろ」

信じられないがな、と小さく呟いて坂本は桂を見つめ返した。
桂は小さくため息をついてクリアファイルを鞄にしまった。

「……忙しいところ悪かったな。助かった」
「いや、かまわん。困ったときはお互い様じゃ」

坂本に大して何を言うでも無く桂は部屋を後にした。坂本を責めるつもりは無い。彼は彼の仕事をしただけだ。桂が甲板に出ると船は港に寄せられており、桂が去っていくのを好機の目で見るだけだった。桂と入れ違いになるように陸奥は坂本の部屋に入る。そこには上機嫌で鼻歌を吹かす彼がいた。

「機嫌がいいな、頭」
「おお。丁度ええ。この後の商談はパーじゃ」
「は?」
「見てみぃ」

[Ctrl]+[Alt]+[↓]を押し、画面を百八十度回転させてパソコンの画面を陸奥に見せた。見知らぬメールアドレスからのメール画面だ。陸奥はその画面を覗き、整えられた眉を少しだけ寄せた。

「あの女、おまんの友じゃろう?いいのか?」
「どうしようもないことじゃ。さて、ヅラが来たときから薄々感づいていたんじゃがのう…」

坂本はこの後名前と会う約束をしていた。そこでこの脳みそを役立てようと思っていたのに。ガラスケースを小突き、視線を天井に飛ばす。まあ、仕方ない。坂本は陸奥と共に船を降り、手配してあった車に乗り込んだ。青い空に灰色の雲が重くたれ込んでいる。一雨来そうな重苦しい天気だった。

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