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名前は引き込まれそうになる冷たい海水にパニック状態になった。目も開けることができない。口の中に水が入り、咽るが、それでもまだ水の中。もがく名前に異常を感じた神威が彼女の腕を掴むと必死になってしがみついてきた。パニックを起こす名前を水面に押し上げ、支えてやる。神威の肩を掴む手は震えていた。名前を支えながら岸まで泳ぐ。陸に上がった名前は寒さと恐怖で震えていた。

「泳げなかった?」
「……いきなり落とすから心の準備が……」

神威に手を引かれるようにして落ちたのだ。船からでたら阿伏兎に連絡を入れる手はずだったが、スマートフォンの電源はつかない。水没してしまった。
神威はそもそも携帯を持っていない。仕方なく、先ほど別れた場所に重い足を引きずって行ったが、そこにも彼はいなかった。

「まずは着替えない?阿伏兎なら大丈夫だよ。子供じゃないんだし」

ずぶ濡れの状態で行けるところは限られている。人に会わずに体を休ませることができる場所を名前は探した。
この海岸からも看板が良く見える。神威も同じ場所を見ていた。平日の深夜。フロントにある客室パネルを神威が適当に押し、出てきた鍵を名前が取る。

「日本のラブホテルはフロントに人が居ないからいいネ」
「……そうですね」

たしかに全身びしょ濡れのこんな姿を見られたら怪しまれるに違いない。二人がのるエレベーターの絨毯には大きな染みができていた。部屋に入るなり名前はバスローブを取って風呂場で着替える。神威も洋服を脱ぎ捨ててバスローブに腕を通していた。乾燥機なんかついているわけがない。ハンガーに洋服を掛けた名前は部屋の照明をマックスに明るくした。真ん中にある大きなベッドとサイドテーブルに置かれた備品を除けばただのホテルだ。

「お風呂沸かしますね」
「一緒に入る?」
「撃ちますよ。どうぞお先に入ってください」
「名前が先に入っていいヨ」

ジャクジー・ジェット・バス。勢いよくお湯を溜めた名前は今後の予定を考えた。ズボンのポケットに入れた小銭入れには五万円が入っている。札も乾かせば使えるだろう。ホテル代は一万で足りるはず。シャワーで体を洗い髪を洗い顔を洗った名前は熱いお湯の中に身を沈めた。長い溜息を吐く。部屋と風呂の間には仕切りはなかった。神威が顔をのぞかせる。

「何考えてるの?」
「何しているんですか?」
「こんなに広いんだから俺も入れるかな、って思って」

そう言って神威はバスローブのひもを解いた。そっぽを向く名前に笑い、名前と向かい合うように腰を降ろした。お湯を止めると途端に静かになる。

「お陰で助かったヨ。まさか君が来るとは思わなかったけどネ」
「諸事情があったんです」
「へェ。そういえば高杉と知り合いだったんだネ。もしかしてグルだったりする?」
「まさか。私も彼もつい二十四時間前までお互いの正体を知らなかったんですから。おかげで彼に心臓真上撃たれましたよ」
「同じこと高杉も言いに来たヨ。で、これからどうするの名前?」
「……私があなたを助けたのは晋助に対するあてつけです。もう彼の元には戻れませんから……ほとぼりが冷めるまで海外にでも行こうと思います。だから一緒にこの国から出してください」
「俺と一緒に来るって言う選択肢はないの?」
「今のところ」
「それは残念だなぁ」

じりじりと近づいてくる神威に名前は立ち上がった。小ぶりな胸と引き締まった腰のラインが明るい電灯の下にさらされる。風呂から出て行こうとする名前の手を神威は掴んでいた。名前は振りほどこうとはしなかった。

「神威さんはこれからどうするんですか?」
「ここまできたら下剋上かな?あのアホ提督の首を取っちゃえば春雨は俺のものだし。のこのこと日本に来てるうちに殺ちゃおう」
「……一人で行くつもりですか?」
「俺の目の前に最高の女。これも運命だと思わない?」

名前の指先に舌を這わせる姿は酷く官能的だった。背中でまとめられていた三つ編みは解け、ピンクに近いオレンジの髪が緩くウエーブしている。神威の舌を挟むように名前は指を動かした。立ち上がった神威が名前の頬を撫でる。どちらともなく唇を合わせた。


■ ■ ■


神威が逃げたという一報は六本木にいた高杉の元にも届いた。詳細情報として名前の名が上がる。舌打ちをした。一睡もせずに名前を探し回っていたのだ。名前は高杉に殺されると思い込んでいるらしい。その誤解を一刻でも早く解きたかった。このまま彼女を失うことは避けたい。イライラとタバコに火をつける高杉のスマートフォンが着信を告げた。

「やァ。お早う」
「……奇遇だな。さっきてめえの情報が入ったばっかりだ」
「安心しなよ。君の名前も五体満足で寝てるよ」
「……名前に代われ」
「ねェ。名前に会いたいかい?」

沈黙が流れた。神威はそれを肯定と受け取った。隣で名前が不安そうに神威を見ている。彼女の髪に手を通しながら神威は高杉が話し出すのを待った。しかし聞こえてくるのは煙草を吹かす音だけ。高杉を挑発するように名前の肩に口づけをおとし、リップ音を響かせる。

「今夜十二時ちょうどに、横浜で。一人で来てネ」
「あぁ」
「じゃ、彼女に代わるね」

名前が受け取り少し話す。切れた電話を暫く眺めた高杉は煙草を灰皿に押し付け、万斉にスマートフォンを渡す。先ほどかかってきた電話の在り処を調べさせるのだ。表面には出さずとも、腸が煮えくり返りそうになっていた。頭では分かっているが心はそう素直じゃない。

「出たでござる……固定電話でござるな……」
「どこだ」
「……」
「おい」
「……中央区のラブホテルでござる」

無言になった高杉に万斉はノートパソコンをしまって部屋を出る準備をした。危ない。こっちの身にもなってくれと内心ぼやきながら高杉のいる部屋を後にした。扉の前にいた来島に入らぬよう命令する。だがいらぬお世話だったようだ。万斉が出て数秒後に何かが割れる音がした。たぶん飾ってあった壺だろう。後始末がめんどくさそうだ。

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