屯所は重苦しい雰囲気に包まれていた。それは先日の回天党の一件で隊士から死者をだしたことと名前が行方不明になっていることからだ。特に安藤から預かった名前のことは大問題になりかねず、真選組密偵総出で行方と情報を探していた。生き残った浪士は片っ端から尋問にかけられ、屯所では昼夜問わず絶叫が響き渡る。血走った目で拷問を加える土方に隊士たちは近寄ろうとしなかった。近藤はいさめるが、それも聞こうとしない。
「副長。報告です」
「ここで話せ」
「奥方と娘さんを乗せた車の運転手と連絡がとれないという情報が入りました」
「さっきこいつの同士が裏で鬼兵隊が絡んでいたと吐いた」
「……鬼兵隊ですか」
「あぁ」
最悪の状況だと山崎はつぶやいた。おそらく両手の爪から血をながしているそこの浪士よりも最悪な状況だろう。
土方もイラついたように煙草を灰皿に押し付けていた。彼女の記憶はおそらくまだ戻っていない。それがいいことなのか、悪いことなのか。山崎は名前のあの笑みが忘れられなかった。
「くそっ」
土方がおもいっきり壁に拳を打ち付けた。この人は彼女が過去に鬼兵隊についていた可能性は考えていないだろう。妙なところで甘い。
山崎独特の勘が、なにかあると告げていた。もしも始末するだけだったらあの場で殺せばいい。組織の裏切り者として晒すつもりか、真選組の情報を吐かせるつもりか。それならばもう殺されているはずだ。ならば…名前が鬼兵隊隊員だったのか。自室で情報を整理してよく考えよう。尋問部屋をでた山崎は外の清廉な空気を肺一杯吸い込んだ。
■ ■ ■
柱に括りつけられた名前の両手両足には手錠が、首にも何かがつけられていた。何かを飲まされたのか嗅がされたのかは知らないが頭がぼーっとしている。人の話し声も水を通して聞いているみたいだ。力なくうなだれる名前の髪を誰かが掴みあげた。
「よォ」
「……」
「何年ぶりだァ?まさか生きてるとはな」
「……」
「おしゃべりしようや」
虚ろな名前の目を覗き込んだ高杉の目は怒りに燃えていた。人払いがされた部屋の外には万斉が控える。逃げられるはずはないが、念のため。
渋谷駅爆破テロで死んだと思っていた名前がまさか生きているとは万斉も思っていなかった。
目を細めた高杉は嬲るように名前の輪郭をなぞる。間違いない。間違えるわけない。幕府密偵として潜りこんできた、あの名前だった。
「まさか真選組にいるとはな……コケにされたもんだ」
「……なんのことでしょう」
「とことん信用ならねェ女だ」
「……」
高杉が何を言っているのか名前には全く理解できない。それはこのぼんやりとした頭のせいかもしれないが、それ以上に彼が何について問いただしているのかが分からなかった。ただ、高杉が恐ろしく怒っているのは感じ取れる。静かに憤怒するその様子に鳥肌がたった。いつこの命が消されてもおかしくないのだろう。
「……土方さん」
助けを呟いたその一言が高杉の逆鱗に触れた。刀の柄で力の限り殴られ、口の中が切れた。むせる名前の頬をはたく。そのたびに彼女と壁をつなぐ鎖が重々しい音を立てていた。熱を持った頬がじわりと痛む。そのおかげか少しは頭がクリアになった。
「ただで死ねると思うなよ」
「……私はあなたに何かしたのでしょうか」
「……」
その言葉に高杉はなにかおかしいと悟った。名前の顎を持ち上げ、目を合わせる。彼女の臆面を観察するように。
ぱしぱしと瞬く名前の姿を見て、高杉は部屋の外にいる万斉に来島を連れてくるよう言った。数秒も立たないうちに来島が万斉と共に部屋のなかに入ってくる。彼女も名前を気にして近くにいたのだ。
「おい名前、こいつらの名前を言ってみろ」
「……知りません」
「俺の名前は?」
「高杉、晋助」
名前の言葉に万斉は眉をしかめた。来島はショックを隠せない様子である。どうして高杉の名前だけ知っているかというと、土方が手配書をくれたからだ。来島と万斉の手配書を名前は見ていない。
「名前殿は記憶障害でござろうか」
うなだれる名前を睨む高杉に万斉は声を掛ける。一体どうなっているのだ。全くかみ合わないピースに苛立ちが募る。いっそここで名前を斬り捨てれば楽になるのだろうが、それでは腹の虫が収まらない。名前を残したまま三人は部屋を出て行った。爪先がかろうじて床についているような状態の名前は体勢の苦しさに汗を滴らせる。着ている衣服はあの日のままだ。そして一つ確信した。鬼兵隊の連中は自分の無くした記憶に関わっている。
安藤から受けた説明では、両親を攘夷志士に殺された仇討のため自分の下で働く密偵になったとしか聞いていない。そして鬼兵隊のテロに巻き込まれたと。昔自分がどんな任務をしていたかも教えてくれなかった。
「高杉、晋助」
彼はどうしてあんなに悲しそうな顔をしていたのだろうか。ざわざわと腹の奥がうごめく感覚に目を閉じた。