21

阿伏兎が手配したホテルは神威の趣味に全く合わない派手派手しいホテルだった。
金色の猫足のついたバスタブは恐ろしく磨き上げられ、その曲線は艶かしいほどに美しかった。バスタブの中には既にバラの花が撒かれており、湯を注ぎがてら覗き込めば甘い香りが立ち上がった。
足元に纏わりつく毛長な絨毯は機嫌の悪い神威の足音さえ飲み込んだ。

「趣味悪いよ、阿伏兎」
「仕方ねーだろ。ここしか抑えられなかったんだ」
「他のホテルを抑えるのが面倒だっただけだろ」

リビングルームのソファに座り、ウエルカムフルーツを摘んでいた阿伏兎はバスルームから戻ってきた神威の言葉に肩をすくめて見せた。

そもそも急に上海に行くと言い出す神威が悪いのだ。贔屓にしているホテルはどこも満室で、かといって部屋のグレートを落とすわけにも行かず手を打ったのがこのホテルだった。
「ほんと、趣味悪い」
ソファーに倒れこむようにして座った神威はまだ腹が据え兼ねているようだった。阿呆からさぞチクチクと言われたのだろうと阿伏兎は同情した。
同情はしたが、このままでは自分が八つ当たりの対象になると察していた阿伏兎はそそくさと退散することにした。
「じゃあな、団長。いい夜を」
冷蔵庫の中からワインを持ち出した阿伏兎に神威は手を挙げて応えた。



ソファーに身を投げ出してぼんやりとしていた神威はバスルームから聞こえていた水の音が止まっていることに気がついた。阿伏兎が去った今、この部屋には神威しか残っていないはずだった。レトロな蛇口が独りでに閉まるわけもなく、神威は警戒心を露わにゆっくりと起き上がった。
部屋に入って衣類を寛げなかった事が幸いして、胸元にはまだハンドキャノンが仕舞われていた。
残弾を確認し、撃鉄を起こした神威は銃口をリビングルームの入り口に向けた。

「……誰?」
「溢れそうだったから止めてあげたのに。その物騒なもの、降ろしてくれませんか?」

両手を挙げて扉から姿を見せたのは名前だった。大柄な花が描かれたタイトなワンピース姿の名前の腕には包帯が巻かれ、頬には湿布が貼ってあった。
「高杉に殺されたって聞いたけど、生きていたんだ」
ゴキブリ並みの生命力だと皮肉られて名前は片頬を引きつらせた。女性を例える言葉に相応しいとは言えない比喩だった。
「まだ死ぬわけにはいかなかったので。それより、辰馬から買った物を譲って欲しいんですけれど」
名前は頭の上に上げていた腕をゆっくりと下ろし、ソファーの横に転がるトランクケースを指差した。

神威は爪先でトランクケースを軽く蹴った。名前の様子がどう考えてもおかしい。ただこの荷物が目当てならば強奪すれば済む話だ。丸腰で、わざわざ神威の前に現れる理由が無かった。
神威は銃口を僅かに名前から逸らし、引き金を引いた。
名前はその発砲音に反射的に片耳を抑えた。
「……阿伏兎は?」
銃声に対し、警護の部下が駆け付けて来ない。ワンフロアワンルームの部屋を阿伏兎は手配した。誰も来ないということは、フロアごと制圧された可能性があるということだった。
「……謀ったなクソ女」
「二年前、貴方に開けられた胸の穴の怨みは忘れませんよ」
耳を抑えていた手を解き、名前は手の中に入れていた小さなリモコンを押した。
閉められていた厚手のカーテンがゆっくりと開き、神威の背後に上海の夜景が見えた。

「あの坂本っていう商人もグルだったのか。俺は彼からあんたが死んだって聞いたけど、嘘だったしね」
「いえ、彼は何も知りませんでしたよ。多分、私が生きていることもまだ知らないと思いますし……」

マナのスマートフォンから坂本と名前の情報を知り、名前より先に目当ての物を手に入れることで、彼女を出し抜いたつもりだった。彼女の倍額の金を出す事で交渉が成立したが、坂本から名前が死んだと聞いて気が抜けたものだった。買い手のなくなったものだから良かったと大声で笑う男を思いだし、神威は眉を寄せた。
「どうしてここに居るって判ったのかも気になるけど、お喋りの時間は無さそうだね」
複数人の足音が近づいて来ている。その揃った足並みから、素人集団でないことは明らかだった。
名前の余裕の理由は彼らだろう。窓の外からはヘリコプターの爆音も聴こえてくる。
計画的な犯行だと神威は舌を巻いた。いつから嵌められていたのか検討もつかない。坂本との取引は昨日急遽決まったことであったし、取引の後中国に戻らなかったのは神威の気まぐれであった。

部屋の扉が開けられた音がした。名前の背後からアサルトスーツに身を包んだ集団が部屋に雪崩れ込んで来た。
動くな、の怒号が響く前に神威は名前に向かって引き金を引いた。
「…………」
部屋に響いた銃声と、銃が落ちる音を名前の耳はしっかりと拾った。
「確保!!!」
銃を向けられて囲まれた神威は大人しく両手を挙げた。自身が国際指名手配をされていたことを今更ながら思い出した。



連行された神威を見送った名前は放置されたトランクケースを持ち上げ、深いため息を吐いた。
「……沖田さん、私、今度こそ心臓止まるかと思ったんですけれど」
神威の拳銃を撃ち飛ばしたのは沖田だった。結果的には命の恩人になるが、事前の話より突入があまりにも遅かったことを名前は責めた。
「いやぁ、俺もあんたがいつ奴に銃を向けるかヒヤヒヤしながら待ってたんでさァ。土方さんからはあんたもしょっ引けって命令が来てやしたし」
銃刀法違法で逮捕したかったとぼやく沖田に名前は仮に銃を向けたとしても正当防衛になると主張した。そもそも此処は日本ではない。
「で、あんたいつの間に死んだことになってるんで?」
神威との会話で気になっていたことを沖田は尋ねた。
「実際殺されかけましたよ。高杉に裏切られたんです」
「因果応報って言葉通りでさァ」
「まあ、見た通り、なんとか切り抜けましたよ。私の特技は死んだフリなので」
時計を見た名前はトランクケースを抱え、部屋の扉へと向かった。
「じゃあ、沖田さん。またいつか」
沖田の胸ポケットに紙を差し込んだ彼女は、足音もご機嫌に去っていく。
名前から渡された地図に沖田は頭を掻いた。胸ポケットからスマートフォンを取り出し、土方へとメッセージを飛ばす。鬼のような電話が掛かって来るだろうことに今から気が重くなる。
「……結局俺らも利用されただけかィ」
冷蔵庫の中からシャンパンを取り出そうとし、止めた。何の薬を盛られているか判ったものではない。ワイン瓶を片手に廊下で倒れていた男を思い出した沖田は冷蔵庫の扉を閉めた。もう二度と会いたくないと深いため息をつきながら、点滅するスマートフォンの電源を落とした。



■ ■ ■



伊藤の死体が見つかったとの一報に会議室は騒ついた。灰皿に溢れんばかりの吸い殻を溜めていた土方も壁に映し出された地図とそこに印された赤いバツ印を睨み、深く息を吐いた。
「近藤さん、伊藤がクーデターを企んでいたのは間違いない。残党も早めに狩った方がいい」
「しかしだな……」
「此処に仕掛けられた盗聴器と総悟が持ってきた書類で証拠は揃ってる。表沙汰になる前に消した方がいい」
未遂だと渋る近藤を土方は宥めた。沖田は既に伊藤一派の確保のために動いている。
「粛清は総悟に任せて俺らは高杉を追うぞ」
「……そうだな」
煮え切れぬ近藤の肩を叩き、土方は立ち上がった。元々汚れ仕事は自分が引き受けるつもりだ。そもそも土方は近藤が襲撃されたことを許していない。
伊藤の遺体がある場所とクーデターの証拠を総悟に渡したのは名前だが、近藤の襲撃のタイミングから考えて名前が無関係の訳がなかった。
「いつかこの手で牢獄にぶち込んでやるからな」
ショートメッセージで送られてきた口座番号を睨みつけ、土方は呟いた。

END

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