名前が正式に団長班に配属されることになった。会議にてそれが発表されるとエルヴィンと名前は目を交わし、微笑み合う。その様子にハンジが首を傾げた。名前からは惜しげもなく幸せオーラが発揮され、リヴァイはいつもどおり不機嫌な顔をしている。リヴァイの補佐は特別作戦班がするようだ。
「ご機嫌だな」
「ええ。だってやっとエルヴィンの班に戻れるんだもん。エルヴィンにちゃんと認められたのよ、私」
「……」
「素直に祝ってくれないんだ。それとも寂しいの?」
「お前の座っていた席にはペトラが座り、さぞかし静かな執務室になるんだろうな」
「あなたペトラ好きでしょ?私が居なくて清々するうえに可愛い女の子と正当な理由で一緒に居られるのよってメリットしかないじゃない」
名前は自分が座るソファーを指でなぞる。リヴァイの持っていた書類がくしゃりと歪んだ。どうせ破棄するやつだから支障がない。ぐしゃぐしゃに書類を丸めるリヴァイは珍しい。名前は彼のお気に入りの紅茶を啜りながらご立腹のリヴァイを眺めていた。
「自分にウエディングドレスを贈ろうとした男に、よくそんなひでえ事が言えるもんだな」
「残念ながら私の面の皮はあなたと一緒で厚いから」
「ほう」
先日本部から戻ってきた時に持ってきた林檎のジャムを紅茶に入れた名前はその甘さに目を細めた。隣に座ったリヴァイも名前の前に置いてあるジャムを勝手にとり紅茶に入れた。甘酢っぱい香りが鼻孔をくすぐる。
「ねえ、エルヴィンに結婚するって言いに行った時のこと覚えている?」
「ああ。俺の黒歴史だからな」
「間違いなく黒歴史だね。そうじゃなくて、その時何て言われたかちゃんと覚えている?」
リヴァイは顔を歪ませた。あまり思い出して楽しい事ではない。プロポーズを申し込んでその勢いで報告に行って、破談。恐らく三十分も持たなかった。隣で呑気に紅茶を味わう女はエルヴィンの言うことなら、とあっけなく引いた。愛敬もないうえに自分より身長が高い女、なによりどうにも気に食わない女をどうして好きになったのか。
『彼女はとても強い。歴戦の戦士だ。だが、同時に心はとても繊細で脆い。名前が寄りかかれる先を見つけてしまえば、それは弱さにしかならないのだよ』
『待ってエルヴィン、それって私に一人で生きていけというの?』
『いいや、違う。君が選ぶパートナーは、支えてくれる人でなく、上から手を引いてくれる人がふさわしい。リヴァイ、今の君は名前にふさわしい男か?』
『………』
エルヴィンの言葉を思い出したリヴァイはああ、と納得がいった。団長班に入れたということは、彼女が言うように自立を認められたということだろう。エルヴィンが団長になっても名前が補佐官の任を解かれなかったのは、彼女を自立させるためだった。エルヴィンが側にいては名前は甘えてしまう。だから決して彼女が甘えを許さないだろうリヴァイを宛てがったのだ。名前とリヴァイが互いに切磋琢磨しあうことを望んでいたエルヴィンからしてみれば、結婚すると言われてさぞかし驚いたことだろう。
「名前よ。お前、自分で自立できたと思っているのか?」
「さあ。まあエルヴィンに依存することはもうないんじゃない?依存っていうか、私がエルヴィン大好きすぎて任務に支障がででいたってことでしょう。流石にもうその熱も冷めたし」
「冷めたのか?」
「え?冷めているわよ。なによその目。やめてくれない?」
リヴァイの疑うような目を向けられて名前は心外だと顔を歪めた。エルヴィンと別れてもう五年以上経っている。確かに彼は好ましいが、五年も執着するような女でもない。そんなしつこい女だと思われていたのかと名前はリヴァイを睨みつけた。
「エルヴィンに振られたお前は見ていて痛々しかった」
「……」
「陣から離脱したと聞いた時のエルヴィンのリアクションを見せてやりたかったぐらいだ。ああ、やっぱりといった目をしていてな…」
名前も黒歴史を掘り変えされて顔を歪ませる。聞きたくない。手を耳にあててて続きを拒む。その様子にリヴァイは意地悪く口を歪めて彼女の手を引き剥がそうとした。リヴァイの手が名前のそれぞれの手に被さるように当てられ、容赦のない力で引き剥がされる。いやいやと首を振る名前を抑えこむ。
「おーいリヴァ……お取り込み中だったかな?」
「ハンジ!」
名前の目が輝き、ハンジという名の助け舟に向かって一目散に駆け寄った。リヴァイは少し乱れたシャボを直し、ハンジが持っている書類に向かって手をのばす。リヴァイに研究計画書を渡したハンジは、手首を押さえる名前とシャボを直すリヴァイを見ながらどういった状況なのかと尋ねた。
「リヴァイから嫌がらせを受けていたの。最悪」
「いつものことじゃないか」
「そうよ。ハンジ、昼食はまだでしょう?一緒に食べましょう」
ハンジの手を引いて名前は執務室を後にする。途中でモブリットを拾い、三人で食事をすることになった。味気ないパンもジャムがあるだけで随分変わる。遠慮するモブリットのパンにジャムを塗りたくるハンジに笑いながら名前は執務室から見下ろすリヴァイに手を振ってみせた。
名前が団長班に引きぬかれてから、旧調査兵団本部はすっかり落ち着きを取り戻していた。名前が三日置きに来ることもなくなり、リヴァイが感情を露わにして怒り狂うこともなくなった。ハンジは少し寂しそうだが、リヴァイ班としては上司の火種が側になくなったお陰で気分が楽だ。名前がリヴァイ班から離れて九日が経ったある日、早馬のトーマの異称を持つトーマが本部に、文字通り駆け込んできた。何事かと集まってくる兵士たちに息が荒いトーマは言葉絶え絶えにおどろくべきことを告げた。
「補佐官が、カラネス区で小流行していた、病に感染しました」
「!?」
「重篤ですが、今のところ命に別状はないと聞いています。しかし、次回の壁外調査に出られない可能性もあるらしく、早急に兵長と分隊長にお伝えするようと」
「それは……」
「緊急会議は二日後の朝の予定です」
モブリットがトーマに冷えた水とタオルを差し出す。トーマはその水を一息に飲み下した。皆が恐る恐るリヴァイを見る。緊急会議が開かれるのだろう。面倒なことになったといった表情をリヴァイはしていた。
「俺とハンジは本部へ行く。それまでエレンの実験は中止、エレンはなるべく地下室からでないようにしろ」
「はい」
「おいハンジ、行くぞ」
「えっ、待って、今から!?夜通し駈ける気なの?」
「お前が行かないのなら俺一人で行こう。名前の様子が気になる。おい、詳しい病状を教えろ」
リヴァイに睨まれたトーマは嫌な汗を流した。トーマの隣に立っていたモブリットもリヴァイの表情を見て鳥肌を立てる。モブリットの表情から察したハンジがリヴァイの目を覆った。
「てめえ!何しやがる」
「そんな怖い顔をしていちゃしゃべりにくいでしょ。尋問じゃないのだから。さ、みんなはもう寝よう。モブリットとトーマは私の部…食堂で話そう。いいでしょ、リヴァイ」
「……ああ」
リヴァイはハンジの手汗の感覚が気持ち悪いのか、しきりに目を拭っている。そんな彼に苦笑いしながら、モブリットは人数分の紅茶を用意した。カラネス区で流行っている病については前にもリヴァイ達の耳に入っていた。確か感染者が二十人、そのうち九人が死亡していたはずだ。名前は命に別状はないと言われているが、九人とも病状が急転してなくなっていたはずだ。だから、大丈夫だと言われても不安が絶えない。
「補佐官の病状ですが、39度を超える高熱、肺炎の兆候が見られます。ここまでの症状はカラネス区の感染者と同じですが、補佐官の場合、胸元から腹にかけて何点か赤い斑点が見られます。発熱と同時に発疹がでる病気はよくありますが、合併症を起こしているとするなら少し厄介なので………」
「そうか」
「流行り風邪っぽいね。ということは伝染る可能性がある。名前には会えないのかな?」
「一応隔離状態にありますので、面会は難しいと思います。ただ、カラネス区の感染状況ですが、人から人へ感染するのなら家族ぐるみで発症するはずです。しかし、発症場所はバラバラなので別の経路があるのかと……」
トーマの言葉にハンジは肩を下ろした。思ったより様子は悪そうだ。隣に座るリヴァイの貧乏揺すりが床を伝わり椅子を伝わりハンジに伝わる。
「あの女、こんな大切な時期に……」
「名前も罹りたくてかかったわけじゃないんだから、その言葉、絶対名前の前で言っちゃダメだよ」
「はっ。会えねェなら言えねェだろ」
「……素直に会いたいって言えばいいのに」
「………」
リヴァイの貧乏揺すりが一層激しくなる。テーブルまで揺れが伝わりそうだとハンジは思った。ここに名前が居たのならば毒々しい言葉で彼を諌めただろう。だが、その名前は現在病床に付している。
「布団で死ねるほうが幸せかもな」
「ちょっとリヴァイ、縁起でもないこと言わないでよ。名前はまだ生きているんだし」
「巨人に食われちまえば遺体なんて残るほうが珍しいしな」
「……おいリヴァイ」
ハンジがリヴァイの肩を揺する。それを振り払い、リヴァイは退席してしまった。ハンジは大きなため息をつく。
「もう一度名前の病状について確認するけど、症状はカラネス区の流行病と一致、かつ発疹など合併症が見られる、でいいね」
「はい」
「モブリット、明日の早朝に出ると思うから準備を頼むよ」
モブリットは頷き、ハンジにもう休むように言った。徹夜明けに馬を走らせるのは辛いだろう。ハンジは書きかけのレポートを机の引き出しに閉まった。軽く体を清めてから寝よう。目を軽くこすり、ハンジは不安を殺すように欠伸をしてみせた。