どうやら現在はお昼時らしい。壁と手すりを駆使して階段を下り、1階の待合室までたどり着いた。ナースステーションに見知った姿が見える。彼女に事情を聴くのもいいが、忙しそうな彼女の手を煩わせるのは気が引けた。仕方なく新聞を手にとり、ナースステーションが落ち着くのを待つ。本当は外にでて同僚に事情を聴きたいのだが、あいにく私は裸足である。一紙読み終えたころ、彼女が私に気づいた。
「名前!!」
「ごめん忙しかった?」
「目が覚めたならナースコール押さなきゃだめでしょ!」
そっちか。同じ医療忍者で同期の彼女は親友である。心配したんだから、と言いながら隣にすわる彼女に心の緊張がほぐれていく気がした。さて、聞かなければならない。
「いきなりなんだけど、飛段について何か知らない?」
「…まさかまだ追うつもりなの?」
「は?」
「あんな大怪我させられたのに、まだ追うつもりなの?」
あんな大怪我させられたのに。任務中の怪我。まだ。つまり、私は追い忍として飛段を追っている最中に飛段の攻撃をくらい、入院し、飛段はいまだ逃亡中である、と。彼女の話で母さんのリアクションの謎も解けた。なんという屈辱だろう。確かに私が飛段とグルであるという濡れ衣は解けたが、あんまりじゃないか?
「ごめん、ありがとう」
「えっ、ちょっと名前?」
呼び止める彼女を無視し、病室への道をたどる。母さんにだけは本当のことを言わないと。守秘義務なんかもう、知るものか。308と書かれた病室の扉を開けるとそこには母さんのほかに暗部の先輩もいた。猪の面の彼女。私の姿を認めると母さんにいったん外に出るように促した。すれ違う母さん。先輩は私に座るように促した。ご丁寧に手まで貸してくれる。
「気分はどう?」
「最高に最悪ですね。なんなんですかあの噂」
「一番信憑性は高いでしょうがね。…本当に飛段から連絡はないの?」
「連絡も何も今まで意識不明でしたし…知りませんよ」
「本当?」
「疑うのならば、もう一度拷問にでもかけますか?時間の無駄だと思いますよ。私は何も知りませんから」
一秒か、二秒か。おそらくほんの短い時間だけ先輩とにらみ合っていた。先輩が焦点をそらしたと同時にふっと空気が緩んだ。今となっては里を抜けたがっていた飛段の気持ちが痛いほどわかった。ただ一つ違うのは私には里抜けした後の明確なプランがないこと。飛段のように宗教に傾倒する気にはなれない。復帰を待っている、と言い残した先輩が外に出ると入れ違いに母が入ってきた。なんだか酷く疲れた。
入院生活ももう一週間になる。手首の神経と腕の筋肉の回復が遅れているらしい。最近では暗部の見張りもなくなり、快適な生活を送れるようにもなった。もうすぐ復帰できるが、どうしようか。どうしても気が進まない。いっそ転職でもしようか。転職ってか忍辞めちゃって結婚とか。…お見合いとか。一か月も奴の顔を見ないと寂しくなってくるものである。例えば、私が結婚すると聞いたら奴は祝福してくれるだろうか。…想像できない。飛段が普段どんな風に接してくれていたのかも忘れてしまった。白い枕に顔をうずめて必死に思い出を手繰りよせた。中忍試験の時、初任務の時、事故で唇を交わしてしまった時。思い出してこそばゆくなってきた。
「…泣いてんのか?」
「……」
「お前、昨日も無視しただろ。結界なんか張りやがって」
「…死ねばいい」
「なあ聞いてくれよ名前、俺不死身になったんだ!」
急に大きな声を出す飛段になぜか私が慌てた。ばれたらどうするの!?窓とベッドの間を遮るカーテンを勢いよく開けた。全開の窓からは湯隠れ名物の澄んだ夜空と上弦の月が見える。それを背景に立っているのは十数年一緒にいた腐れ縁、飛段だった。幻術でもないし、変化の術でもない。何となくわかっていたよ。絶対に会いにくると思っていた。馬鹿でさびしがり屋のあんたが私なしで過ごせるわけがないからね。
「あんたのせいで私、大変だったんだから」
「知ってる」
「……」
「拷問されたんだってな…その、悪かった」
バツが悪そうな顔をする飛段。大鎌を背負った彼は死神みたいだ。あんたのせいじゃない、と言った途端ニヤニヤと笑い出す飛段に怒る気力もわかなくなっていた。拷問されたことを知っているならば、もう少し心配やら労りやらをくれたっていいのではないか?寝そべったまま飛段のほうに体を向ける。何しに来たのだろうか。世間話なら帰ってほしい。
「他に言うことがあるんじゃないの?」
「例えば?」
「例えばって…」
「お前のことが好きだとか?一緒に来てくれとか?」
「……」
「俺が言いに来たのはそんなことじゃないんだけどなあ」
「じゃあ何よ…疲れてるから早くして」
「うーん。両親殺されたくなければついてこないか?」
茫然。窓ガラスが鏡のようになって私の情けない顔を映していた。暗くてよく見えなかったが飛段の忍服には返り血のようなものが異常についていた。もっと目を凝らすと飛段自身も血を流しているのがわかった。意味不明。
「あ…飛段、手当しなきゃ…」
「言ったろ?俺は不死身だって。里に入ってここまで来るの、大変だったんだぜ?軽く十数人に足止めはされたしい」
「殺したの…?」
「ん?ああ、もちろん。ジャシン教のモットーは『汝、隣人を殺害せよ』だからなー」
そういって大鎌を私の首にあてた。やっぱ入ったんかい。あれか、生贄的なあれか。飛段の大抵のことは理解したと思っていたが、今の飛段の何もかもが信じられない。鎌から香る血の匂いに吐き気がする。ゆっくり後退する私を追い詰める飛段の顔がいつもの飛段と違う。あと数センチでベッドから落ちてしまう。こんな重たい足では逃げ切れないだろうな。手がベッドの端からすべり落ちたところで飛段に支えられた。