08

  
名前は一週間前からビジネスホテルを転々としていた。今まで暮らしていたアパートは火事によって住めなくなってしまったからだ。出火元は名前の住んでいた隣の部屋だが、その部屋は空き部屋だった。アパート自体は半焼し、名前の部屋は全焼した。念の為にとまとめておいたキャリーバッグは今、ホテルの床に転がっている。

「あーどっするかなこれ」

名前はベッドの上で弄っていたノートパソコンから身体を離し、大きく伸びをする。独り言にしては大きいその言葉に同室にいたサシャが反応した。

「どうしたんですか?」
「ユミルがさ、どっか行っちゃったんだよね」
「ユミルって、あの性格と口が悪いことで有名な闇医者でしたっけ」
「そうそう。腕は確かなんだよね。あと、ナースがクソかわいい」

名前はユミルの助手を務めるクリスタのことを思い出して口元を緩めた。だが一瞬の後、その顔は再び困った顔を作った。サシャは手に持っていたドーナツを口元に運び、一口で半分ほど咀嚼する。口に収めた甘いドーナツを完全に飲み込んでからサシャは人差し指を立てた。

「でも、名前さんならすぐに見つけられるんじゃないですか?」
「いや、サシャ。よく考えてご覧?逃げた女医を捕まえたとしてさ、そのお医者さんが素直に治療してくれると思う?」
「……ユミルは名前さんから逃げたんですか?」
「さあ、どうだろうね?……サシャも逃げたい?」

サシャは苦笑いを浮かべた。イエスともノーとも言わないところがなんともサシャらしい。再びノートパソコンに何かを打ち込み出す名前をサシャは暫くじっと見つめた。今ならまだ引き返すことができる。名前が抱えている案件は、直接サシャには関係ないものなのだ。

「サシャ?」
「は、はい!」
「悪いんだけど、自販機で煙草買ってきてくれない?」
「煙草ですか?」
「そう。ブラックデビルっていう煙草。ココナッツミルクね。コンビニには売ってないから自販機でね」

名前は財布から千円を取り出し、サシャに渡した。サシャはそれを受け取ると自分の財布のなかに部屋のキーカードが入っていることを確認し、部屋から出た。サシャが出ると名前はすぐにベッドから起き上がり、パソコンを閉じた。ベッドの下に転がっていたキャリーバッグを引き上げ、部屋に散らばっているものを適当に詰めていく。数分の内に部屋は綺麗に片付いた。ベッドサイドテーブルの上にホテル代金と、一台のスマートフォン、封筒に入れたサシャへの礼金を置いて名前は部屋を去る。

「チェックアウトはよろしく、っと」

ホテルの非常口から外へと出た。もうすぐ真夜中だ。黒いコートに黒いタイツ、黒いパンプスを履いたうえ、 名前は黒いマスクを付けた。全身真っ黒なそのコーディネートは昼間に見れば単なる不審者だが、月明かりもない夜に歩くには身を隠すのにちょうどいい。名前はスマートフォンを取り出し、発信履歴をタップした。外灯の少ない道でスマートフォンの画面がぼうっと浮かび上がる。

「はぁい、ジャン。この間注文した物は手に入ったって聞いたんだけど?」
「あぁ、といっても粘土の方だけですよ。あんたが頼んでいる銃はまだ届かねぇ」
「あらおかしいわね。蟹の旬は冬でしょうに」
「……嫌味な人ですね。甲羅が割られない内に隠れた方がいいんじゃないんですか?」
「ご忠告ありがとう。絶賛隠れている最中よ」

銃の密輸の多くは蟹などの海産物を輸入しているとみせかけ、混入させていると聞く。真相は知らない名前だが、ジャンの反応からして、あながち間違ってもいないようだ。ハイヒールをコツコツと鳴らしながら名前は住宅地を歩く。人通りは無く、名前の話す声が響いている。

「いつ取りに来ますか?」
「今って開いている?」
「まあ、まだいますけど。面倒なもの連れてこないでくださいよ」
「大丈夫、大丈夫」
「お待ちしております」

バス停の時刻表を見る。あと三分で来るようだ。名前はジャンとの通話を切り、バスを待つ。さすがに黒いマスクを付けたままだと怪しまれそうなので外した。寒さで足をすり合わせる。その間にも、もう一つのスマートフォンはポケットの中で震えていた。警察官はこんな時刻までお仕事に勤しんでいるらしい。もう、いい加減にいいだろうと名前はリヴァイから着信を受けている方のスマートフォンの電源を落とした。

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