モブリットに名前を送らせたハンジは久方ぶりのシャワーを浴びた。きちんと清潔にしないとリヴァイは会ってすらくれないのだ。生乾きのまま出歩こうとするハンジを部屋に戻ってきたモブリットは慌てて止める。水を吸ってぐっしょりと重くなったタオルを籠の中にいれ、新しい乾いたタオルでハンジの髪の毛の水分を吸わせていく。
「モブリット、あなたは私についてきたせいでこんな目にあっているけど、後悔していない?」
「僕が後悔しているのは、あなたを甘やかしすぎたせいでダメ人間を作り上げてしまったことだけですよ。シャツまで濡れているじゃないですか。全く」
「ははっ。悪いね」
モブリットの気の済むまで頭を拭かせ、ハンジは部屋を出た。付いて行きましょうかというモブリットを下がらせてハンジは東の居館に入る。今日は雨が降っているから塔にはいないだろうと思ったのだ。予想通り、四階のリヴァイの私室をノックすると返事が返ってきた。ドアをあけると椅子に腰掛けて本を読むリヴァイがいた。
「今日は名前のところに行かないのかい?」
「あとで行く」
「そう……名前は聖職者だね」
突然のハンジの言葉にリヴァイは本を閉じてハンジを見た。鼻につくほど香るシャボンの匂いに眉間の皺を和らげる。
「さっきまで名前とおしゃべりをしていたんだ」
「ほう。お前の研究にさぞあいつは興味があるだろうな」
「そうだねえ。お陰で話が弾んだよ。まあそう睨まないでよ」
リヴァイは背もたれに完全に凭れ掛かり、足を組み替えた。ハンジは同じように椅子に座り、膝の上に肘を立てて手の上に顎を乗せる。メガネの位置を直し、リヴァイを見た。
「名前は爪先から髪の先まで人間であることに誇りをもっているよ。彼女にとって力ない人類は救うべき対称であり、私みたいな……心臓を預けて生を貪るような人間は軽蔑の対象みたいだ。残念だね」
「ずいぶんと偉い奴じゃないか」
「教会で育てられたって言っていたから、まあその思考にいってしまうのは仕方ないかもしれない」
ハンジはやれやれとため息をついた。エルヴィンの戦略は前途多難なようだ。リヴァイは左胸の上に手を乗せる。それをハンジは哀れみと期待を込めて見た。
「リヴァイ、大丈夫かい?エルヴィンに言われるまで半血の呪い…呪いってか病だね。先天性疾患なんて信じていなかったけどね。ダンピールの唯一の欠点なんて言われているけど、これもう欠点の一言じゃ済まないよね」
「……」
「にしてもリヴァイ、もう名前の心臓を取っちゃったんだね。名前は気づいていないみたいだけど、何を迷っているの?」
「……うっせえぞ」
「あなたらしくないね」
リヴァイは手に持っていた本をハンジに投げつけた。ハンジの頭をめがけて一直線に飛んで行く本をハンジは頭を伏せることで躱した。リヴァイが投げた本は壁に当たり、床に落ちた。床に落ちた本は無残にもページが折れてしまっている。リヴァイは大きな舌打ちをした。
「名前に本当のことを言う必要はないんじゃないのかな?別に教えてあげる義務はあなたには無いし。それに弱肉強食こそが彼女が生きて来た世界だよ?」
「そうだな、義務はないが、義理はある」
「教えてあげてどうするの?ああ、分かった。死にたがったところを美味しくいただくんだね」
ハンジは無表情でそう言った。言葉は弾んでいるものの表情は重い。ハンジはハンジなりにリヴァイを心配しているのだ。もう時間がない。頼りのエルヴィンもまだ帰ってこない。焦りが日々大きくなるのだ。ハンジの心境はリヴァイにも伝わってきている。
「ハンジよ。愛とはなんだろうな」
「どうしたのいきなり……私には縁のない単語だから、なんとも言えないよ。気になるならリヴァイも研究してみるといい」
「そうだな」
ふとハンジは先ほどリヴァイが投げつけた本を拾いに行った。背表紙のタイトルをなぞり、口をへの字に曲げる。上がりそうになる口角を必死に抑えた。リヴァイはそっぽを向いている。
「リヴァイ。研究者からのアドバイスだよ。文献は確かに役に経つけど、自分の足で行動してみることが何よりも大切だ。だから、ほどほどにね」
「………」
「いざとなったら無理にでも食わせるよ、私は」
ハンジはリヴァイに本を返す。表紙を払ったリヴァイは机の上にそれを置いた。ひらひらと手を振ってハンジは部屋を出て行く。リヴァイはその背中を見送った。再び自らの心臓に手を当てる。一定の速度で鼓動を刻むのを確認し、はあっと息を吐いた。まだ死ぬわけにはいかない。リヴァイは決意を露わに椅子から立ち上がった。