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走り去っていくヒナの後ろ姿を見ながらこれは悪夢なのだろうかとぼんやり考えた。
唇にはまだ熱が残っていて、思わず指でなぞってしまうくらいには生々しい感触が思考回路を蝕みだす。





イゾウから強引に誘われて酒を飲み交わした数時間前の記憶。
ヒナに対する感情が、彼女との関係が複雑化していることは誰にも話していない。しかし同じ船に乗っていれば、聡い人間にとっては周知の事実であるかのように異変を感じ取っていたらしい。

「お前は一体どうしたいんだよ」

呆れながらそう問われ、しかしおれは情けなくも返事をすることができなかった。

ヒナに欲情している。そう口に出してしまうと、それはまるで酷くおぞましいことのように思えただなんて。言えるわけがない。
おれはただ酒を煽りイゾウから目を逸らした。
気持ちを自覚してから、悪あがきのように他の女を抱こうとしたこともある。しかしそれがなんの意味も持たないことは分かり切っていた。それどころか、もしこの手で触れたらどんな反応をするのか、どんな声で啼くのか、一層生々しさを増す劣情に嫌悪感ばかりが募っていく。

「どっちつかずの態度取ってると、かっさわれちまうぞ」
「……うるせェよい」

呆れた顔をするイゾウを置いて一人船へと戻る。


そして、エースの部屋の前で抱き合う二人を見てしまった。


暗闇の中、ヒナに支えられて歩くエースが彼女を壁際に押しやって、そして唇を重ねる姿がぼんやりと浮かんで見えた。
殴られたかのような鈍痛が思考回路を塗りつぶしていく。
あぁ、なんだ。二人はちゃんと想い合っていたのか。
エースの頭を優しく撫でる小さな白い手が見えて、さらに理性が音を立てて崩れていくような絶望を感じた。

見間違いだとか、そういう可能性は一切脳裏をよぎらなかった。そのときのおれには自分の見た光景が夢か現かなど関係なくて、ただ目の前にある事実が感情を大いに揺さぶった。
二人で狭いベッドで抱き合ったあの夜も、彼女が言おうとしていた言葉も、全て自分の思い上がりだったということ。彼女が俺に求めていた感情は家族としての愛だったことくらい、知っていたはずなのに。

エースの部屋から出てきたヒナを見たとき、雲の切れ間に現れた月明かりに照らされた彼女の頬が赤らんでいて、おれはほとんど無意識にその細い肩を力任せに掴んでいた。
合わさった唇は熱く、全身の血が煮え立つように騒ぐのを感じた。
壁に押し付けた体を覆い潰すように、さらに深く、彼女の奥底まで喰らい尽くすかのように唇を貪った。甘く、底無しの渇きが胸に広がる。エースとのキスを塗り替えるように、おれの唇の記憶だけが鮮明に残れば良いと、そんな惨めな独占欲が原動力だった。
漏れ出た小さな声がさらに欲情を煽った。このままここで抱いて、奪ってしまいたい。剥き出しの感情をそのままぶつけてから、ようやくおれはヒナが泣いていることに気が付いた。

「悪かった」

伝えられた言葉はそれだけだった。何故キスをしたのかと咎めるように問われたが答えられなかった。
お前が欲しいから、なんて。言えるわけがない。守る振りをして築き上げた信頼を壊したおれが、彼女の気持ちを無視して唇を奪った自分が、そんな戯言を言っていいはずがない。

「好きな人とじゃなきゃ、キスなんてしたくない」

震える声で呟かれたそれが拒絶の意味を持つことなんて明らかだった。彼女の言う「好きな人」が自分ではないことを改めて突きつけられ、情けなくも返事をすることすらできなかった。
去っていく小さな後ろ姿を見ながら鈍痛が脳内で響いていた。

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