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どうにかエースをベッドに運ぶことができて、ほっと一息を吐く。
問題は何一つ解決していないことは分かっていたが、しかしどうすることもできなかった。
険しい顔をして眠るエースに「おやすみ」と声をかけて、私は彼の部屋を出た。

潮の香りに混じって微かに雨の匂いがした。海の変化を体で感じ取れるようになったのはつい最近のことだ。この船に乗って生活することに、心よりも先に体が順応しはじめているらしい。
自分のベッドへと戻ろうと足早に歩き出したとき、ゆらりと目の前に大きな黒い影が現れた。

「……え」

大きな影は私の行く手を阻み、そして肩を掴んだ。
温かいのに冷たい手のひらの温度を私は知っていた。
どうしてここに。しかし彼の名前を呼ぶ前に、私の体は強く壁へと打ち付けられた。

「っ!……ん、ぅ」

被さった影は強引に私の唇を奪った。
何が起きたのか分からず、慌ててその場から離れようとしたけれど体は壁と目の前の黒い影に阻まれて身動きを取れなかった。
顔を背けようにも大きな手が私の頬を固定するように押さえていて、為すがまま熱い舌先が口内へと入り込む。

「ふ、っ…ぁ」

酸素が欲しくて口を大きく開けると、漏れた吐息が艶めかしい色を帯びていて恥ずかしさと驚きで心臓がさらに早鐘を打つ。
ファーストキスがこんなにも乱暴に奪われるなんて。
ぼろぼろと生理的な涙がこぼれ、それに気付いたのかようやく私の呼吸は解放された。
二人の間を唾液の銀糸が繋ぐ。

「なん、で……」

ふ、と雲が途切れて朧気な月明りが差し込んだ。三日月より細い月がマルコの顔を映し出す。

「マルコさん」

私が名前を呼ぶと、マルコは壁についていた手をどけて呆然と立ち尽くすように私を見下ろした。
今私に強引に迫り、初めてのキスを奪ったのは、確かにマルコだった。
アルコールの強い香りが口内に残っている。恐らくつい先ほどまで酒を飲んでいたのだろう。
酔った勢いか、それとも。そんな浅はかな行為を彼が犯すようには思えなくて、だけどじゃあどうしてキスをしたのか理由なんか全く思いつかなくて、息を吸うだけでも苦しくてたまらなかった。

「悪かった」

囁かれた謝罪の言葉に、私は絶望する。
やっぱり、お酒のせいで犯したただの間違いだということなのだろうか。
月明かりは陰り、私達の顔は互いに暗い闇に溶け込んでいく。

「なんで、私に……キス、したんですか」

こんなことを聞くなんて、子供っぽいと呆れるだろうか。
マルコとの隔たりはたくさんある。守られる子供でしかない弱い私とこの船を支える力を持つマルコ。年齢も、取り戻せない記憶も、乏しい経験も、隣に立つべき存在じゃないと分かっているからこそ、その差が私の心臓を締め付ける。

いつだったか、船内で見かけたマルコのキスシーンが脳裏によみがえった。動揺して、狼狽える私を助けてくれたエース。
キスなんか特別なことじゃない。突きつけられた現実が私の心を砕いていく。

特別な存在だと言ってほしい。少なくとも彼にとって私は価値のある人間だと。だけど、それを望むのは傲慢なのだろうか。
抱えた問題を自分じゃ何一つ解決できない弱くて愚かな私が望んではいけないことなのか。

「……悪かった」

繰り返された言葉が残酷に胸を抉る。
空っぽになった胸に冷たい空気が入り込んだ。
謝ってほしいわけじゃない。酔った勢いだったとしても、何かの間違いだったとしても、そこにほんの一握りの理由があれば、それだけで私は救われたのに。

「私、は。……好きな人とじゃなきゃ、キスなんてしたくない」

それは今の私に出来た精一杯の非難だった。あんなキス、忘れられるわけがない。好きじゃなきゃ、唇なんて重ねられない。
だけど、貴方は違うんですね。そういう意味を込めて投げつけた言葉は、空虚に響くだけ。
マルコはもう何も言わなかった。何も言ってくれなかった。

私は逃げるようにその場を走り去った。


 

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