35


気まずい空気が部屋に漂っていた。随分と長い時間、私達は目を合わせることもせずにその場で立ち尽くしていたようにも思えたけれど、実際は数秒も経たない時間だったのかもしれない。
「部屋を間違えた」と言って出て行こうとするマルコに、私は反射的に「待って」と呼び止めてしまっていた。ゆっくりと振り向く彼の視線がようやく私を捉え、随分と久しぶりに彼の視界に自分が映ったような感覚に涙が出そうなくらい私の心は嬉しくなってしまっていた。

「手当、しに来たんじゃないですか?」
「……あぁ」
「この部屋、最近私が寝泊りしているんですけど、でももともとは医務室だったから必要なものは揃っているんです。簡単な怪我だったら私が見ます」

戸棚から手当に必要と思われる薬品や包帯を取り出して、私は彼を呼び止めたことにちゃんとした理由を与えようと必死だった。
気まずいはずなのに、ほとんど無意識のうちにマルコを引き留めた自分の行動原理を考えてみる。イゾウの言っていた『自分の気持ちを大事に』という言葉が脳内で反芻された。
彼を呼び止めたのは、紛れもない自分の本心だった。

「あ、でも、マルコさんは怪我なんて自分で治せますもんね…。私が出る幕はないか」

彼のもとに駆け寄ろうとしたけれど、久しぶりに目があって、じっと見つめられて、平常心でいられるはずがなかった。
私は急に恥ずかしくなり早口でそう呟き俯いた。彼の能力があれば、私の手当なんて必要ない。そんなことすら忘れていたという事実に情けなくもなる。
しかし下を向いた私にマルコは一歩近付いて、そして頭に大きな手を乗せた。それは私たちがちゃんと会話をすることが出来た頃の手と変わりなかった。

「手当てを頼む」
「…でも」

躊躇う私の前に椅子を持ってきたて、そこへドカリと腰かけた。怪我をしている腕を差し出され、「してくれねぇのか?」と尋ねる彼に私は首を振る。
震えそうになる手を必死で抑えてマルコの怪我の手当をしていく。深い傷はほとんどなかった。腕に触れると、その体温が懐かしくてなんだか涙が出そうだった。

「終わりました」
「あぁ、ありがとよい」

ふわりと僅かに見せてくれた笑みに心臓がギュッと締め付けられた。久しぶりに自分へと向けられた彼の優しさがあっという間に私の心を支配してしまう。あふれだした気持ちに慌てて蓋をしようとしたけれど手遅れだった。

「マルコさん」

手当は終わっていたけれどその手を離したくなかった。彼の手首を握りしめた私を怪訝そうに見つめる。名前を呼ぶと、穏やかな声で「どうした」と静かな返事が聞こえた。

その時、廊下からエースと誰かの話し声が響いてきた。断片的に聞こえる単語から、どうやら私を探していることが想像できた。
このままだと、この部屋にエースがやってくる。私は掴んでいたマルコの手をパッと離し、そして立ち上がった。

ガチャリ

扉に駆け寄り腕を伸ばし、私はカギを閉めた。その数秒後、ドアノブが回される。

「あれ、開いてねぇ」
「この医務室、ずっと前から使ってないだろ」
「いや、最近ヒナが寝泊まりしてたはずなんだけど…」

ドアの向こうでエースたちが首をひねっている光景が目に浮かんだ。心臓がバクバクと大きな音を立てている。何回かドアノブを回した後、彼らは私がここにいないと思ったようで去っていったようだ。
私は扉を背にして俯いたままマルコの方へと体を向けた。

「ヒナ」

カギを閉めてエースたちに対して居留守をするなんて、自分でも思い切った行動だったと思う。なんでこんなことをしたのかよくわかっていなかった。衝動的に体が動いてしまっていたのだ。
マルコが私の名前を呼んだ。ゆっくりと顔を上げると、彼もまた立ち上がっていて私の方へと一歩近づいてきた。
彼の手がゆっくりと私の頬へと触れる。私はその手に自分の手を重ねてぎゅっと握りしめた。

「何がしてぇんだ」

呆れたような呟きが鼓膜を震わす。私は僅かに首を振った。

「わからない、けど」

今はマルコさんとだけ、一緒にいたい。



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