短編 | ナノ



※直哉くんはたぶん高校一年生くらい。


「あれ、また来てたの」

 ワンルームの狭い部屋。その大半のスペースを占めるソファーベッドにごろりと寝転んで、退屈そうにケータイをいじっている直哉を見るなり、女はそう言って愉快そうに笑った。
 綺麗に脱色された髪、耳にいくつもつけたピアス、オフショルダーの白いサマーニットに、惜しみなく素足を晒すデニムのホットパンツ。
 三歩後を歩くような貞淑な大和撫子からは程遠いその様相に、つくづく甚爾の好みは分からないと直哉は首を捻る。甚爾がこういう女ばかりを選ぶのは、禪院への反抗からなのだろうか。

「甚爾くん、最近来た?」
「ないない。ていうかもう来ないんじゃない?さすがに」
「……ほんま使えん女」
「うんうん、今日も元気に悪態ついてるねー」

 直哉の口の悪さにやれやれと肩をすくめて苦笑を浮かべる女は、甚爾の寄生先のひとつだった。
 数ヶ月前、偶然甚爾と女が歩いているところを街中で見かけた。黙って見送れば良かったのに、つい高揚して話しかけてしまったのが運の尽き。直哉の顔を見るなり甚爾は露骨に嫌そうな表情を浮かべ、無言で女の腹をむんずと抱えるとあっという間に直哉の目の前から姿を消した。
 ちなみに、ジェットコースターなんか目なんかじゃないくらい怖かったし、あの後普通に路上で吐いた、と後に女は遠い目をしながら語った。知ったことじゃない。

(何があかんかったんやろ。普通に「久しぶり甚爾くん、元気にしとった?」って話しかけただけやったんやけどな)

 禪院という家を彷彿させるものが嫌だったのだろうな、と思う。たとえ、自分を慕って纏わりついていた従弟であろうとも。
 とにもかくにも、その後甚爾は関わりたくないと言わんばかりに、この街を離れたそうだ。──というのが、後日出会った場所で直哉が待ち伏せ、問いただしたこの女から聞いた話だ。甚爾が言わせた嘘かもしれないと思って、直哉はそれから数日女を張ったが、見事に甚爾が現れる気配はなかった。
 女は、自分の行く先々に現れる直哉を見ても気味が悪そうな顔も怯えた顔もせず、ただ直哉の姿を見かけると「今日も甚爾くん帰って来てないよ」と何が面白いのか楽しそうに笑っていた。
 あげくに、何度か学校帰りに女の家の扉の前で甚爾を待つうち、「熱中症になられても困るし、中で待ってれば?」と直哉に合鍵を渡してくる始末である。
 本当に甚爾の好みはわからない、と直哉はぽかんと口を開けたが、「ああでも案外甚爾もこうやって女に拾われたのかもしれない」となにかよくわからない妙なキャラクターのついたその合鍵を受け取ったのだった。
 それから、数ヶ月。甚爾が現れる気配は、未だない。

「着替えるから、それ被っててね」

 突如、視界を覆うように顔になにかが投げつけられた。直哉は文句を言おうと口を開こうとして、吸い込んだ異臭にむせる。ごそごそという衣擦れの音、それからぽすりと女が着ていたであろう衣服が床に落とされる音が聞こえた。

「煙草臭いんやけど、これ」
「だって吸わなきゃ生きていけないんだもん」
「煙草吸う女なんて一生結婚できへんよ」
「大丈夫大丈夫。彼氏いるから、心配ご無用」
「ふうん。趣味の悪い男やな」
「口の悪い子供ね」

 煙草臭い布切れが女によって取り払われ、視界が明るくなる。ノースリーブのロングワンピースに着替え、片眉を吊り上げた女が不機嫌そうに直哉の顔を覗き込んでいた。長い髪を一括りにしていることで、色んなところにあけられたピアスがよく見える。じんわりと汗をかいた胸元の谷間が自然と目に入り、視線を逸らした。

「……ていうか、」
「うん?」
「別れてすぐ他の男作るとか、どんだけ股ゆるいねん」
「別れたっていうか逃げられたのよ、君のせいで」
「……」

 黙り込んだ直哉に、女は苦笑した。拳など握ったことがないであろう白く柔らかな手のひらが、直哉の髪をかき回すようにくしゃりと撫ぜる。

「失礼。正しくは“禪院”っていうお家のせいね。よく知らないけど、仲悪かったんだってね、甚爾くんと実家」
「家のヤツらは、甚爾くんを理解しとらんかった」
「ふうん。直哉くんは理解してたの?」
「……」
「ごめん。大人げなかったかな」

 理解していた、と言い切るには甚爾と過ごした時間が短すぎた。
 沈黙が下りる。女は直哉の頭のすぐ傍に腰を下ろすと、あやすように直哉の髪をそっと撫でた。子供扱いにムッとして手を払いのけようとするも、思っていたよりも女の手が心地良くて感じてしまって、ぎこちなく手を下ろす。……甚爾も、このやわい指先で頭を撫でてもらいながら眠ったことはあったのだろうか。
 うとうとと瞼が重たくなってきた頃、「ねぇ、」という女の呼びかけで意識を戻される。やけに険しい顔をした女が、直哉を見下ろしていた。

「何のシャンプー使ったらこんなサラッサラになるのこれ。キューティクルやっば、天使の輪っか出来てるじゃん」
「……君の髪がボロッボロなだけやろ」
「ボロボロは言い過ぎじゃないかな、直哉くん」
「うちの女中、毎朝玄関を掃き掃除するんやけどな、それに使うとる箒に似とる」
「傷め。直哉くんの髪なんて傷んでしまえ」

 直哉の髪を憎たらしいと言わんばかりにギュッと少し強めに鷲掴んでくるものだから、直哉は今度こそ女の手を振り払った。
 それから、ふと気になって女の耳の横に垂れている後れ毛を気まぐれに一房手にとって、指に絡めてみる。自分の髪と比べてみれば確かに少しパサついている気もするが、言うほど軋んでいるような感覚はなく、するすると細く柔らかな髪だった。
 窓から差す日光に照らされて、金糸が直哉の視界できらきらと揺れる。なんだか眩しくて、直哉は少し目を細めた。──甚爾が、ほんの一時だけでも心を寄せたかもしれない女の髪。

「……染めてみる?」

 女が言う。直哉は黙って、ただこくりとうなずいた。


***


「禪院家の男ってみんなこうなの……?」

 狭い風呂場に連れていかれ、上半身を晒した直哉の身体をしげしげと女が見ながら言うのに、直哉はうげぇと顔をしかめた。

「キッショ。エロい目で見てくるんやめろや」
「あ、大丈夫です条例は守ります」

 すん、と表情を消し、やめて通報しないでと両手を上げる女を鼻で笑うと、安っぽそうなプラスチック製の椅子に腰掛ける。汚れるからと渡されたケープをかぶる間に、女は手袋をはめて、染料となるらしい薬剤を混ぜはじめた。

「直哉くん、かぶれたこととかある?」
「いや、別に」

 本当はパッチテストとかやった方がいいんだけど……まぁいっか、と女は適当なことを言うと、直哉の髪を手に取った。櫛形のノズルのついたボトルから出る、白いクリーム状の液体を直哉の真っ黒な髪に塗っていく。

「痛かったら、教えてね」
「痛くなるもんなん?」
「だってさ、色素抜くんだよ?激痛だよ。オシャレは我慢、大人は皆この痛みを乗り越えているのだよ」

 そういうものなのか。まあ呪霊に負わされる痛みよりはマシだろうし問題ないだろうと直哉が考えていると、ふと気づく。髪を切るときに痛みを感じたことはない。
 鏡越しに見えたにやにやとする口元を隠そうともしない女に、直哉は目を細めた。

「……君、しょうもない嘘つかんと生きていかれへん病気なん?」
「直哉くんこそ、いちいち悪態つかないと生きていけない病気なの?」

 ああ言えばこう言う。口達者と幼い頃から散々周りの大人たちに言われてきた直哉でさえ、閉口する程だった。

「甚爾くん、ほんまこんなんのどこが良かったんやろ……」
「やかましい。……まあ、薬剤が頭皮について痒くなることはあるから、なんか変だなって思ったら教えてね。すぐやめるから」
「ん」

 幸いにも特に痛みも痒みも出ることはなく、液剤は塗り終えたらしい。あとは15分くらい放置して洗い流すだけ、と女が麦茶を直哉に渡しながら言う。
 鏡に映る自分の髪はまだ真っ黒で、これがどうしたら女のような金髪になるのかと直哉は首を動かししばらく色んな角度から鏡を覗き込んでいたが、変化が特に見られずすぐに飽きた。

「何か喋ってや」
「何かって?」
「別に、何でもええ。待っとる間、暇やから」
「えー……じゃあ、直哉くんって彼女いるの?」
「何でその話題選んだん?センス無しか」
「何でも良いって言ったじゃん、容赦無しか」

 いないと素直に言うのもなんだか癪に思えて、直哉は答えをはぐらかすことにした。

「この顔でおらんように見える?」
「彼女っていうか、まず友達いるか心配になるレベル」
「……」

 ほんま嫌いや、この女。

「直哉くん、私は直哉くんのお友達だからね!」
「しばき倒すで」

 殴ろう。もう甚爾の女だとかどうでもいい、殴ろう。グッと親指を立てウインクする女に、直哉がこめかみに青筋を浮かべていると、女は「きゃーこわーい」と棒読みで言いながらリビングへと逃げていった。溜め息。

「……あんな大人にはならんようにしよ」
「ちょっと直哉くん、聞こえてる」
「聞こえるように言うてんねん」
「かわいくない子供ね」

 女は、べぇ、と直哉に向かって舌を出した。どっちが子供だかわからない。


***


 10分も経った頃だろうか。女は灰皿を片手に、煙草を咥えながら戻ってきた。

「副流煙」
「換気扇ついてんじゃん」

 そう言う問題じゃない。直哉が睨むと、女は「わかったわかった」と肩をすくめて灰皿に吸いかけを押し付けた。

「とりあえず殴らせろや」
「え?さっきのことまだ根に持ってんの?水に流そうよ、お風呂場だけに」
「全然うまくないんやけど、何なんそのドヤ顔」
「はいはいごめんってば」

 ちっとも心にも思っていなさそうな言葉を並べる女の足を軽く小突く。「痛い痛い」と言いつつも女はずかずかと風呂場に入ってきて、直哉の髪をその細い指でかき分ける。

「うん、綺麗に抜けてる。じゃあ洗い流そうか、シャンプーはこっち、トリートメントはこっちね。外にタオル置いておくし……ケープは捨てるから、この袋に入れて置いておいて」
「トリートメント」

 てきぱきと指示をもらったものの、普段は使わないそれの使い方がわからなくて思わずオウム返しに聞き直す。「シャンプーの後に使うの、髪染めたあとだし使った方がいいよ」という説明にわかったと頷いた。
 女が出ていった後、直哉はひとり脱衣場でスラックスとボクサーパンツを脱ぎ捨て、鏡を覗き込む。黒かった髪は、すっかり面影をなくしていた。

「お、いいじゃん。似合ってるよ」
「……ん」

 タオルを肩にかけリビングへと入った直哉の姿を見ると、女は汗をかいたグラスを片手に微笑んだ。濡れた髪からは、女と同じ匂いがしている。

「おいで、乾かしてあげる」

 洗面台の前の椅子に座る直哉の後ろに立って、女がドライヤーを髪に当てる。
 いつもは洗いあがった髪をばさばさと適当に乾かしているだけだったから、女が「タオルドライが甘い」と頭皮をマッサージするみたいにしっかり髪の水分をとってくれたり、洗い流さないトリートメントとやらをつけたりとするのを見て「女ってめんどいんやな」と思いつつ、直哉はされるがままになっていた。人に髪を乾かしてもらうというのは、案外悪くない。

「甚爾くんがさぁ、」
「え」
「こうして髪の毛乾かしてあげると、今の直哉くんみたいな顔してた」
「どんな顔やねん」
「んー?……ナイショ」

 鏡に映った自分の顔は少し眠そうだが、別に何の変哲もないように見える。むしろ、そう言う女の顔の方がいつもと違う顔をしているように見えた。たとえば、部屋の掃除中に小さな頃大切にしていた宝物を偶然見つけたような、懐かしさと切なさをないまぜにしたような、そんな顔。

 そういえば、女から甚爾との思い出話を聞くのは初めてだったかもしれない、と気づいたのは家に帰ってからのことだった。

「そろそろ帰るわ」
「うん。……あ、直哉くん、鍵」
「あ?」
「鍵、返して。もうすぐ出てくんだ、ここ」

 ちょうどいい時に来てくれて良かった、と女は直哉に向かって手を差し出した。

「どっか行くん」
「彼氏いるって言ったでしょ。同棲ってやつだよ」
「は?この間付き合い始めたばかりやろ?」
「結婚前提のお付き合いって言われてたの。もう結婚秒読みだよ、えへへ」
「同棲してそのまま結婚せんで別れるカップル、結構多いらしいな。なんでももう一緒に住んどるのに籍入れる意味を感じへんとか」
「減らず口め」
「そっくりそのまま返すわ」

 話しながら何となく、掌の上の鍵を手でもてあそぶ。結局何だったか知らないままの、不細工なキャラクターのキーホルダー。

「もしかして、寂しい?」
「んなわけあるかいな」

 バッと、叩き付けるように直哉は鍵を女の掌に置いた。

「それは残念。──じゃあ、元気でね」

 はいさようならまた明日、とまるで放課後に教師が生徒達に言うような気軽さで女は直哉に笑いかけ、ひらひらと手を振った。
 女に背を向け、ぎらぎらと日光を照り返すアスファルトの上を歩き出す。視界に入る前髪が、部屋で見た女の髪と同じようにきらきらと陽に透けた。毛先を指でつまみあげしげしげと眺めながら、「家の連中は何か言ってくるだろうか」と考える。……まあ、別にいいか。どうでも。
 何気なく振り返ってみると、女はまだ部屋のなかに入らずじっと直哉の後ろ姿を見送っていた。煙草を持っているらしいその手で小さく手を振られたので、気持ちばかり手を上げて応えた。
 ふと、もう二度と会うことはないだろう女の名前も知らないことに今更気づく。もう一度後ろを振り返ったとき、紫煙をくゆらす金糸の後ろ姿はちょうどドアの隙間に消えていくところで、直哉はほんの少し開きかけていた口を静かに閉じた。


(20210823)
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