短編 | ナノ



※16巻までのネタバレうっすら有り
※灰原に対する七海の独白が敬語じゃなかったので、ここでは同期に対して七海は敬語を使っていなかった設定になっています。



怖いものは嫌いだ。だから、私は逃げ出した。

痛いのも嫌いだ。だから、私は逃げ出した。

誰かが傷つくのを見るのも嫌いだ。だから、私は逃げ出した。

死にたくなかった。だから、私は逃げ出した。

私は、負け犬。私は、弱虫。私は、臆病者。

だから、逃げ出した。



あの青だけは永久に



季節外れの蝉が鳴いている。最近ぐんと気温が高くなったから、もう夏になったのだと勘違いして地中から出てきてしまったのだろうか。

梅雨が近いからか、空気にはちょっぴり湿っぽさが含まれていて、じめじめと蒸していた。

当時の寮の個室にはクーラーがついていなかったから、私たちは防犯上のことなど気にせず、一日中窓を開けっ放しにしていた。

まさか呪術高専に空き巣に入ろうと思う輩がいるとは思わないし(そんな命知らずはきっといまい)、もし何かが部屋から無くなっていたとしたら、私たちはとりあえず真っ先に五条先輩を疑っていた。

人の部屋に堂々と侵入し冷蔵庫から勝手に私のプリンを出してぺろりとたいらげた挙句、「楽しみにしてたのに!」と怒る私に「え?だって名前書いてなかったじゃん、だから食べた」とあっけらかんと言い放ったのは記憶に新しい。

あの人はきっとプライバシーとか、プライベートの意味を履き違えていると思う。


(……眩しい、)


よく晴れた青い空。チカチカと時折差す光に、目を細めた。窓の外には少しでも日射しを遮ろうと、ホームセンターで買ったばかりのすだれが垂らしてある。

快く「任せて!」と親指を立てた灰原に頼んで取り付けてもらったそれは微妙に曲がっていて、上の方から少しだけ光が漏れてくるから、やっぱり几帳面な七海に頼めばよかったなと思う。七海に頼んで、途端に面倒臭そうな顔を露骨にする彼に私の心が折れないかどうかは別として。

すだれの手前には、朝顔の絵が描かれた風鈴が吊るしてある。様々な工夫を凝らしてみたもののそれでもやっぱり暑くて仕方がなくて、「暑い!東京無理!暑い!」と騒ぐ私に「気休めくらいにはなるんじゃないですか」と仏頂面を引っさげた七海が、つい先日の任務帰りのお土産に買ってきてくれたものだった。

残念なことに、そもそも風が大して吹いていないから、ちっとも涼を運んできてはくれないのだけれど。


「あっつい」


寝そべるフローリングの床はぬるい。

少しでも冷たい部分を求めて毛虫のようにうごうご這い動く私に、七海は「やめなさい、だらしない」と母親のような小言をくらわせた。

本日もぴしりと着崩すことなく、きっちり第一ボタンまで止められた学ラン。とても今日の気温に似つかわしくないその姿は見てるこちらの方が暑くなって、私は全力で顔をしかめっ面をつくる。


「七海は暑くないの?」
「名前のようにだらけるほどでは」
「えー。変温動物かよ」
「変温動物の意味を調べてから喋ってくれ」
「ウィキペディア先生によるとかつては冷血動物って呼ばれてたんだって」
「……」
「七海にぴったりじゃん」
「……」


七海は本を読む手を止めて、絡む私にため息をつきながら、五条先輩を見るような目(つまり面倒くさい・関わりたくないものを見る目)で私を見下ろす。


「……言いたいことがあるならどうぞ」


それではお言葉に甘えて。

にこ、と愛想良く笑みを浮かべる。


「何で私の部屋にいるの?」
「……」


そもそも部屋の主であるにも関わらず、私が床に寝そべっている理由はといえば、七海がちゃっかり一番涼しい扇風機前のローソファーを陣取っているからだ。

何もかも備え付けられた寮の個室の中で、私が唯一どうしても欲しくて初給料で買った、ちょっといいお値段のひとり掛けの革張りのソファー。

すらりと長い脚を組み、本を片手に気まずそうに目を反らす七海は確かに私が座るよりもよっぽどその高級ソファーがよく似合っているけれど、それは部屋の主の特等席を堂々と占拠していい理由にはならない。


「私の部屋が一番涼しいもんね?」
「うるさい」
「やーい、痩せ我慢ー」
「……やかましい」
「ほら、脱げっ!」
「は!?名前!?」


跳ね起きて七海の膝に跨ると、もはや視界に入るだけで鬱陶しかった真っ黒な学ランに手をかける。抵抗の声を上げる七海に構わず、ひとつふたつとボタンを外していると、勢いよくドアが開いた。


「アイス買ってきたよー!七海も名前も食べる…よ…ね……?」


コンビニの袋を片手に元気よく入ってきた(彼がノックをしないのはもう諦めた)(本当に年頃の妹がいるのかコイツ)灰原は、そのままやや数秒固まる。

どうかしたのかと首を傾げた数秒後に、ああこれは勘違いされても仕方の無い体勢かもしれない、と状況を俯瞰した脳が判断する。固まっていた灰原は動きを取り戻すと、ぎくしゃく歩いてドアのすぐ横にあるキッチンにアイスの入った袋を置き、それと同時にぷくーっと頬を膨らませた。


「いつから付き合ってたの!?ひどいよ、三人しかいない同期なんだから言ってくれたっていいじゃないか!」
「違っ!?誤解だ!」
「しかも七海が押し倒される側だなんて!もっと男を見せろよ、七海!押し倒せ!」
「何の話だ!」


ぎゃーぎゃーぎゃーぎゃー。

騒ぐ男ふたりに構わず、するりと七海の膝から降りて、灰原が買ってきてくれたアイスをあさることにした。こういうとき下手に混ざると、最終的に何故だか七海だけでなく灰原にも説教されることになるのは、この1年ちょっとでもう十分経験済みだ。


(七海の好みも私の好みも十分知ってるはずなのに、なんでいっつもこんないっぱい買って来るかな。本当灰原ってコンビニ行くと買いすぎる人の典型例……)


袋いっぱいにぎゅうぎゅうに詰められたアイスを、ひとつひとつ取り出してはトレーに並べていく。とっととこれを持って行こう。そうすれば嫌でもあのわんにゃん大戦争も止まるだろう。


「付き合ってないし、名前と付き合うことは今後も絶対に、ない」
「……」


聞き捨てならない言葉を耳が拾って、袋の中身を改める手が止まった。

本人を目の前にそこまで言うかな、普通。別にいいけど。でもちょっと傷つく。別にいいけど。七海が好きなわけじゃないし。別にいいけど。


「なぁんだ、そうなの?良かった」
「……良かった?」


七海のその問いに灰原は何も答えず、ただいつもの人の良い笑顔を浮かべる。


「あ、私スイカバーがいい」


袋の一番下、取り出したそれに思わず口をついて出た私の小さな呟きに反応した七海が、すかさず額に青筋を浮かばせた。


「あ、やっぱり?名前は絶対スイカバーだと思ったんだ」
「名前、貴方って人は、本っ当……そもそも誰のせいで!」
「うわっちょっと待って七海!タイム!バリア!」
「は?馬鹿か」
「シンプルな罵倒!」


じりじりと距離を詰めて来る七海に、硝子さんのところへ逃げ込む算段を脳内でつけていると、腰に手を当てぷんすかとしている灰原が声を掛けてくる。


「ちょっとふたりとも、アイス溶けるよ!せっかく買ってきたのに!」
「待って灰原今ちょっとそれどころじゃない、あとアイスありがとう!」
「どういたしまして〜。ねぇ、僕ガリガリ君食べていい?七海はクッキーアンドクリームだよね?」


どこまでもマイペースにすすめる灰原のその言葉に七海は毒気を抜かれたような顔をして、それから深い深い溜め息をついた。


「……頂きます」



***



(……なんで今、こんなこと思い出してるんだろ)


七海とは高専を卒業してから一度も連絡を取っていなかった。だから突然電話が来て、ましてや「今日、飲みに行かないか」という誘いの電話でとても驚いた。

あの頃スポーツドリンクや炭酸飲料ばかりを飲んでいた私たちが、今やビール片手に仕事の愚痴を延々とこぼす「あんな大人にはなりたくない像」そのものになってしまったことに、年月の流れを感じる。


「ていうか七海、なにその目のクマと頬の痩けヤバすぎ。社畜なの?」
「ヤバいのは名前の語彙力の方でしょう」
「はあ?相変わらずの冷血動物か」
「使い方間違ってるぞ、それ」


大人になっても変わらぬポンポン飛び出す悪態のやり取りにホッとした。あの頃からちっとも成長していないということでもあるかもしれないけれど。

威勢のいい若い店員が、マカロニサラダとジョッキのビールをふたつ、どん、とテーブルの真ん中に置いていく。来た来た。ここのマカロニサラダは茹で卵とカリカリベーコンが入っていて美味しいのだ。


「ちゃんと寝なよ」
「……仕事辞めたから、今後は心配ない」
「辞めたの?転職?」


思わずマカロニサラダを自分の皿に取り分けていた手を止めて、顔を上げる。「何で私の部屋にいるの?」と私に聞かれたあの時と同じ、七海の気まずそうな顔に、ああこれが今日の本題だったのかと察した。


「呪術師に、戻ろうと思って」


言葉を失うとは、このことか。からりと、力をなくした手から箸がすり抜けていく。


「もうあの人1人で良くないですか?」


力なく壁に背を預け、足をだらりと放り投げながら呟かれた七海のその言葉は、灰原の亡骸にしがみついて泣きじゃくっていた私の涙をぴたりと止めた。そしてそれは、私と七海が呪術師を辞める理由となった。疲れていた。嫌で、もう嫌で、逃げ出したかった。

だから私は正直、七海が「呪術師にはならない」と先に言ってくれた時、ホッとした。逃げ出すのが自分一人じゃないことに、本当に安堵したのだ。


「名前には、言っておこうかと」
「やめておきなよ」
「……その方が、いいんだろうな」
「もう決めたの?」
「ああ」
「私は戻らないよ」
「そうしてくれ」
「……そう」


ひとりでさっさと先に進んでしまわないでよ、置いて行かないで。思わず口をついて出そうになった言葉は、ビールと一緒に喉の奥へと流し込んだ。

それからすぐ、会計をして店を出た。

七海は何も言わなかったし、私も何も言わなかった。夜風がやけに冷たく感じて身震いをすると、七海がすっと自分のジャケットを脱いで羽織らせてくれたので、甘えて借りる。ふわりと、清涼感のあるコロンが香った。


「ねぇ、七海」
「何だ」
「死なないでね」
「いや、それは……約束できない」
「正直か」


危険な仕事なのはお前もわかっているだろう、とでも言いたげなその顔に拳を叩きつけたい気持ちを抑える。代わりに、隣を歩く七海の小指をそっと自分の小指で絡め取った。

あの頃の線の細さがすっかりなくなった、筋張った男の人の指。


「約束してよ」


俯く私に、七海は諦めたように深く溜め息をついて、私の小指を握り返す。


「……わかった」



***



何でどうしてと詰れば良かったのだろうか。ぶん殴ってでも止めていれば良かったのだろうか。


「虎杖くん、」
「名前に、約束守れなくてごめんと伝えてもらえますか」
「後は頼みます」



訃報を聞いたのは、数年後のことだった。

何度か一緒に任務をしたことがあった伝手があり、特級術師の九十九さんが「虎杖という高専に通う少年がそう伝言を預かったらしい」と連絡をくれた。


「……後は頼みますって、酷いな、七海のやつ」


灰原の遺したその言葉に苦しんだのは自分も同じだろうに。

寝そべるフローリングの床はぬるい。

皮肉なくらい、真っ青な空が広がっていた。大の字に転がって、ぼんやりと見上げた視線の先には、未だに涼を運んでこない風鈴が吊るされている。買ってきた男に似て、素直じゃないのかもしれない。


「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます、………死んだらごめん、か」


風鈴に描かれた色とりどりの朝顔が、だんだんと滲んでぼやける。

慰めるようにちりん、と軽やかに鳴った音に「今更遅いよ」と呟いた声は、震えていた。



***



階段に座り込むその背中は、やけに小さく見えた。

特級呪物・両面宿儺の器だというその少年の横に腰掛けて、俯く横顔を覗き込む。


「虎杖悠仁くん?」
「……誰だ、あんた」


返ってきた声は、ひどく暗い。


「初めまして、 名前と言います。九十九さんから伝言をもらった者です」
「あ、」


聞き覚えのある名前だとわかったらしい虎杖少年が、ようやく顔を上げた。幼さの抜けない、子供らしい水分を含んだ目をしている。


「そっか、ナナミンの……」
「ちょっと待って、ナナミン?ナナミンって呼ばれてたのアイツ?」
「そこ?」
「めっちゃ墓前で連呼してやろ」


場違いにひとしきりけらけらと笑う私に、虎杖少年もつられたのか、ほんの少し頬を上げる。


「初めてナナミンって呼んだとき、ひっぱたきますよって言われたなぁ、そういえば」
「クールぶってるけど結構短気なんだよね、七海って。私もよく怒られた」
「名前さんは、ナナミンの……恋人?」
「絶対違う」


今更だけどあの時聞き捨ててあげた分、利子つけて返すけどいいよね、七海。

質問に被せるように強く言い切られた言葉に、彼は少し怯んで、口元をひくつかせた。誤魔化すように笑って、「高専の同級生だったの、私と七海は口喧嘩ばっかりしてたけど、同期3人結構仲良かったんだよ」と付け加える。

虎杖くんが「そっか」と小さく呟いた後は、しばらく沈黙が降りた。雲が月をゆっくりと覆っていって、ふたりに影が落ちる。


「七海を、独りで死なせないでくれてありがとう、虎杖くん」
「俺は……もし、俺がもうちょっと早く着いてたら、」


言葉を遮るように彼の頭をわしゃわしゃと撫ぜると、「“また”ガキ扱い……」と不満げなような、複雑そうな顔をされた。


「たられば言いっこなし。七海が呪術師に戻るって言ったあの時もっと反対すれば良かったとか、私も一緒に戻れば良かったとか私の方が無限に出てくるから、多分虎杖くん聞いてて嫌になるよ」
「……名前さんは、呪術師辞めたんだね」
「辞めたよ。二度と戻ってきたくなかったし、戻って来る気もなかった」
「……“なかった?”」


過去の形をとったその言葉に、彼は訝しげに首を傾げる。


「そう。なかった。自分にはできないやりたくないって散々逃げた。だけど、今こうしてやっぱり後悔してるからさ、」
「……」
「自分のできることを、精一杯頑張ってみることにした。……まあ、これは受け売りだけど」


よいしょと立ち上がり、グっと伸びをして、目を閉じる。

東京の空は暗い。それなのに、瞼の裏に映るのはどうしてだか、七海と灰原と過ごしたあの青い空ばかりだった。


(20210622)title:星食
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