「あれ、」
ドアを開けると、見知らぬ靴がひとつ。踵の擦り切れた男物の、スニーカー。
「おかえりー、侑くん来とるで」
一体誰のものかと首を傾げながらそれを眺めながら靴を脱いでいると、母がひょっこり台所から顔だけを出した。
ばりぼりと煎餅をかじる音混じりに掛けられたその一言に、名前はぱちぱちと目をしばたかせ、更に首を傾ける。
「侑?なんで?」
「なんや、約束しとったんやないの?」
「え?しとらんけど。ていうか高校入ってからまともに話してへんよ」
「そうなん?まあようわからんけど、あんたの部屋に通しといたから。はいこれジュースとお菓子、持ってって」
「ええ……」
思春期真っ盛りの女子高校生の部屋に確認もせず勝手に男を通した挙げ句、ようわからんけどと言いながらも甲斐甲斐しく飲み物と茶菓子を用意する母はおおらかを通り越していて、我が母ながらちょっと引く。
幼馴染みって、そんな信頼感のある代名詞だったっけ。しかも高校入ってからまともに話してもいないと申告したの聞いていましたか、お母さま。
とにもかくにも「ええからはよ行き、侑くん待っとるやろ」と背をつつかれては仕方がない、肩からずり落ちたスクールバッグをかけ直し、階段を上がる。
しげしげと向き合ったドアは、先客がいると聞くだけでなんだかいつもの自分の部屋だと思えなくて、軽々しく入室することに躊躇した。
なぜだかノックをしなければならない気がして、だけど菓子とジュースののったトレーで両手は塞がっているから、爪先でドアを軽く叩く。……返事は、ない。
「侑ー?入んで」
これにも、返事はない。もしかして、寝てるだろうのか。名前は首を傾げながら、肘でドアノブを下げ、押し開ける。
視界に真っ先に飛び込んできた、ちょっと根元の黒いプリン気味の金髪頭の持ち主は、部屋の隅に置かれたベッドに背中をあずけて床に座り込んでいた。
かけられた声に、ゆっくりと顔を上げる。寝ていたにしてはちっとも緩慢な様子ではなかったその動作に「なんで返事せぇへんの」と声をかけようとしたものの、その顔に貼り付いていたのっぺりとした表情に怯んで、口をつぐんだ。
「……おう」
「え、暗っ。ちょっとやめてや、人の部屋でお通夜みたいなオーラ出すの」
久しぶり、とか突然どないしたん、とか。
ドアの前で何て言おうかと考えていた言葉は、全部吹っ飛んだ。
顔に影のかかるくらい、陰鬱な表情。
「すまん」
ポツリと呟くように謝り、前髪を指でいじる侑は、やけに素直だ。──だがしかし、こういう時こそ慎重に言葉を選ばなければならないことを、名前は長年の付き合いでよく知っている。
下手に地雷を踏み抜いてみろ、途端にガーッと愚痴やら罵声やら何やらをマシンガンのごとく浴びせられることは間違いない。
こうなると何だかもう足音を立てることさえも気がはばかられて、名前はその場に棒立ちになって侑の様子をじっと伺う。
(……いや。なんで、自分の家、しかも自分の部屋でこんな気ィ張らなきゃならんねん)
なんて思っていても、顔には出してはいけない。
それにしても、暗い。高校でまともに会話もしていない幼馴染の家に、連絡もなしの突然の来訪。何かあったことは間違いない。
そういえば、治──治は、一緒じゃないのか。ふっと頭に浮かんだひとつの可能性に、名前はためらいがちに口を開いた。
「あの……もしかして、治がなにか事故とか病気、」
「いや、めっちゃ元気」
「あ、そう」
拍子抜けした。まあそうだよな、と思う。
治になにかあったときに見たい顔は私ではないだろう、と名前はひとり納得して頷いた。
そんな名前の顔を侑はちらと見て、言葉を続けようと一度は口を開くものの言いにくそうに口を閉じた。
何かよっぽど気になるものがあるのかと聞きたくなるくらい、じぃっとフローリングの床を見つめたまま、ぼそぼそと聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟く。
「元気に、彼女と手ぇ繋いで帰ったわ」
「……へえぇ」
ああ、なんだ、そういうこと。
侑がひとり体育座りでいじけている理由がなんとなくわかって、名前は侑に気を遣うのをやめた。
「なんや、しょーもな」と口に出さなかっただけ、なんでもずけずけ思ったことを口に出してしまう自分にしては上出来の対応だ、と名前は思う。
カバンを学習机に放ると、すとんと侑の横に腰を下ろした。菓子とジュースの乗った盆をふたりの間に置き、冷えたグラスに注がれたコーラを手に取る。氷が、からりと音を立てた。
「おめでたいやん。ほら、お煎餅お食べ。チョコもあるで」
「ん」
おとなしく差し出されたお煎餅を手に取る侑。やっぱり、今日はいやに素直だ。
いつもなら「相変わらずやな、名前のおかんのチョイス。コーラとお煎餅とチョコの食べ合わせってどうなん」とぶつくさ文句を言いながら食べるくせに。
しばらく、ふたりとも無言だった。音楽もかけていない空間には、ただ煎餅を咀嚼する堅い音だけが響く。
階下から、機嫌良さそうな母の鼻歌が聞こえてきた。そういえば夕方から始まるドラマの再放送で、最近お気に入りの顔の良い若手俳優が出てるって言っていたっけ。
隣から聞こえていた咀嚼音が、途絶えた。侑はコーラを手に取ると、一気に飲み干す。
(……あ。来るな)
バッと、侑が勢いよくこちらを向く。衝撃に備えよ、という言葉が脳裏をよぎった。
「何っで俺より先にアイツに彼女ができんねん!」
それから侑は堰を切ったように喋る喋る、治の彼女がどんな見た目の子だったかとか、手を繋いで帰ろうとするふたりを見つけて呆然と佇む侑に気づいた治がどんな嫌味ったらしい勝ち誇った顔をしていたかとか、それから目を合わせて照れ臭そうに微笑むふたりがどんなに幸せそうだったか、とか。
名前は、チョコレートを舌の上で転がしながら、相槌をうつでもなく、ただ黙ってそれを聞いていた。
まくしたてるだけまくしたて満足したのか、侑はようやく口を止めた。ひとつ息をついた侑に、名前は自分のコーラを差し出す。飲みかけだが、まあ特に気にしないだろう。
「ていうか侑、彼女欲しいとか思ってたん?バレーが恋人かと」
「サムにできて俺にできん理由があるか」
つまり結局、そういうことらしい。何から何まで俺の方が上だと喧嘩ばかりしている双子って大変だ、と名前は肩をすくめた。
彼女。彼女、なぁ。
「侑、」
「なんや」
「じゃあ、私と付き合えば」
「は?」
思っていたよりも露骨に嫌な顔をされたものだから、名前は声を上げて笑う。
「そんなドスの効いた声出すほど嫌?」
「嫌っちゅーか……」
侑は言葉を切り、気まずそうに前髪を指でいじる。
「お前なに、俺のこと好きやったん」
「いや、別に。私も彼氏欲しいなって。最近友達もできたって言うとったから」
「なんっっやねん!」
キンキラキンの金髪、どう見たってチャラチャラと遊んでいそうな見た目をしている癖に、頭を抱えて「もてあそばれた!」とキャンキャン騒ぐ侑は結構純情よな、と名前はまた煎餅をひとつ手に取りながら思う。ざらめのついた、あまじょっぱい煎餅だった。
指についたざらめを舐め取りながら、名前は淡々と言葉を続ける。そこに恋愛独特の、少女漫画みたいに甘酸っぱい雰囲気はない。
「私は彼氏が欲しい、侑も彼女がほしい、ウィン・ウィンの関係やろ?」
「お前はもっと自分のことを大事にせぇ!」
「ええ……なに」
「なにってお前、今付き合うたらな、キスもエッチも俺が最初の相手になるってことやぞ。いやまあお前みたいに大してモテん女にとっちゃ俺が相手っちゅーのは確かに光栄なことかもしれんけど、」
「別に、そういうこと抜きでもええやん。手繋いでるだけでもカップルには見えるやろ」
「はぁ!?俺は偽りの愛なんていらんねん!」
「じゃあ、何でうちに来たん」
沈黙が下りる。
「……知らん」
侑は振り絞るみたいに、その言葉だけを吐き出して、また視線を床に落とした。
ただ話を聞いて欲しかっただけなのか、慰めて欲しかったのか、それとも。
本人が知らんという限り答えを深追いする気もなく、名前はまた肩をすくめた。
「そもそも私の初ちゅー、侑やろ。もう終わっとるし」
「……チビん時のことをカウントするんやったらな」
「する。……でさ、今考えとったんやけど、一番も二番も三番目も私は侑でええなって思ったんやけど、それだけじゃあかんのかな」
名前のその言葉に、ふっと侑が顔を上げた。
ぱくぱくと、口を開いたり閉じたり。昔飼っていた金魚を思い出した。餌をあげる時にしか寄り付いてこなかったけれど、それでもなんかかわいいなと思っていた金魚に、今の侑は似ている。かわいくて、なんだかちょっと愛しい。
しばらくそうしていた侑だったけれど、やがてはっと我に返ったようにひとつ咳払いをして、どことなく喜びを隠しきれない様子のほんの少しゆるんだ口もとを、キュッと引き結ぶ。
「……そこは俺でええ、やなくて俺がいい、って言えや」
「うんうん、侑がいい、侑でいい」
「お前な!」
ああもううるさいなぁと思って、また小言を紡ごうとする口を塞ぐ。
そのやわらかな感触は悪くないなと思ったし、目を開けた時に飛び込んできた侑のびっくりしたような間抜け面は笑えた。というか、堪えきれずに名前は噴き出した。
真っ赤な顔をした侑に怒鳴られながら、名前は二番目も侑が相手で良かったと思ったし、三番目もその後もずーっと侑だったらいいな、と思っていた。
吐息に乗せたアイラブユー
(20210505)title:コペンハーゲンの庭で