我等が優秀なる班長が隙を見てサボることによってできた書類の山を片付け終わると、ふとデスクの隅に追いやられた卓上カレンダーが目に入った。
12月20日。
今日の日付にぐりぐりと幾重にもつけられた赤い丸。はて。これは何の印だっただろうか。提出書類の締切?否。会議か?いや、予定はない。上役との飲み会?違うな。
忘れるってことは大して大事なことではないのかもしれないな、と思った矢先。
宇井ちゃんに口酸っぱく「20日の夜に有馬さんの誕生日パーティーやりますからね、プレゼント用意しておいてくださいね」と言われ、「へーへー」と適当に聞き流していたらこめかみに青筋を浮かばせた宇井にカレンダーを取り上げられ、無言でぐるぐると赤丸をつけられたのだったのを思い出した。
ちら、とパソコンの陰から宇井の方を見遣る。ぶつぶつと何かを呟きながら、血走った目でガタガタとキーボードを叩く様子はまさに鬼気迫るという言葉が似合いの様子。
あれだけ言われていたのに、忘れてました〜ごめんね、てへっ、なんて今の宇井ちゃんに言ってみろ、殺されるか、マシンガンのように怒涛の説教かつ八つ当たりが降ってくるか、もしくは殺されることは間違いない。
「あー……やらかした……」
ぽつりと小さく呟く。
が、地獄耳の宇井は顔を上げた。ぎろり、と人を殺しそうな目で睨まれる。ていうかあれはたぶん何人か殺してる。
「名前さんあなたまさかまた提出書類のデータ消したとか言いませんよね言ったらコロス」
「え?いや違……」
「殺す殺す殺す、ほんっと殺してやるあの白髪」
「タケくーん、宇井ちゃんがイライラして酷いんだけどなんとかしてー!?」
誕生を祝おうとしてたのが一転、葬式に変わりかねない。
有馬班の唯一の良心、平子丈に助けを求めると、隣の席の彼はひょこっと山積みの書類の陰から顔を出した。
「……また何かしたんですか」
全然良心じゃなかった。
「してませんけど!?何その扱い!?」
「そうですか。すみません」
悪いとはちっとも思っていなさそうな平子に向かってとんとん、とカレンダーの赤丸を指さすと、平子はそれだけで何かを察したように「ああ、」と小さく呟いた。
「忘れてたんですか」
「忘れてた。ていうかその肝心な主役はどこ行ったの?今日一日いなかったしゃん」
「有馬さんならたぶん、屋上に」
「屋上?」
「ちょうどいいので名前さん、呼んできていただけますか。書類、終わったんでしょう」
「え?さむいからやだ。宇井ちゃん、」
「ああん!?」
「あ、なんでもないですごめんなさい行ってきます」
このなかで一番下の宇井に任せようと思ったが、その返事に名前はころりと態度を変えた。顔が怖すぎた。
いそいそとロッカーに掛けてあったコートを羽織り、マフラーと手袋を手に取ると、こっそり平子に耳打ちをする。
「タケくん、宇井ちゃんは任せた」
「遠慮したいのですが」
「いや、そもそもタケくんしかいないから、あれ止められるの」
私と有馬じゃ火に油を注ぐだけだからと言うと、平子は「本当にな」とでも言いたげなすごく迷惑そうな顔をした。最近後輩がかわいくない。
シニガミのうまれた日。
屋上の扉を開けると、ひんやり、なんて言葉では生ぬるいような冷たい空気が顔を突き刺した。ぶるりと身を震わせ、持ってきたマフラーに顔をうずめて、コートの襟元をたぐりよせる。
有馬は、フェンスの傍にひとり立っていた。ちらほらと振り落ちる雪と同じ真っ白なコートを羽織って、マフラーも手袋もつけることなく、ただひとり、ネオンにきらめく東京の街並みを見下ろしている。
冬の静謐が、よく似合う人だと思った。
有馬、と呼びかけると静かにこちらを振り向く。
「何やってんの。なんとかと煙は高いところがお好き、って?」
「名前、」
「風邪引くよ。……あれ?有馬、引いたことあったっけ?」
「ない」
「……ほーん」
「体調管理がしっかりしているからであって、馬鹿だからじゃない」
「どうだか」
ハンっと鼻で笑い、持ってきた紙袋の奥底に名前は手を突っ込み、目当てのものを探しはじめた。
有馬の私生活を知る人にとって、体調管理がしっかりしているとはとてもうなずける言葉ではないだろう。
たったそれだけの食事でどうしてそんな筋肉が出来上がるのか、わけわからんと言いたくなるほどの細い食。
たったそれだけの睡眠でいいのかと聞きたくなるような睡眠時間。……とはいえこちらに関しては、仕事中居眠りをする姿も見受けられるので何とも言えないが。
「ほい」
「?」
袋から取り出し、有馬にぽいと投げ渡したのは、途中自販機で買ってきた温かいコーヒー。
「なにこれ」
「プレゼント」
「?」
「誕生日、今日でしょ」
しぱしぱと、二度三度瞬きをして。ほんの少し小首を傾げると、やがて有馬は「ああ、」と納得したように手のなかのコーヒーをまじまじと見つめた。
「……忘れていた」
「忘れてたって、カレンダー見て2〜3日前みんな祝ってくれるかなーとか楽しみだなーとか、思ったりしない……有馬はしないか」
「うん。誕生日が楽しみっていう年でもないし。いただきます」
「どうぞ」
一緒に買っておいた、自分の分のコーヒーのプルタブに手をかける。じんわりと伝わるぬくもりに、ほっとした。かじかむ手でゆっくりと口元に運んだそれは喉を落ちて、腹をじんわりあたためる。
「何見てたの」
「東京の街」
「一日中?」
「うん」
「何か面白いものでもあった?」
「……いや、どうかな」
「そう」
「うん」
「……綺麗ね」
「そうだな」
本当になかったのか、それとも話したくないだけなのか。有馬貴将という男とは高校からの付き合いになるが、未だによく分からない。丸手や富良なら、もう少し彼を理解しているのだろうか。
ちらと横目で盗み見た有馬の目には、一体何が映っているのかが気になった。何の変哲もないこのいつもと変わらぬ日常も、彼には違う風に見えているのではないだろうか、なんて。考えすぎか。
しばし無言で、ただふたりで街を見下ろし続けた。すっかり温かさをなくした残りのコーヒーを飲み干したところで、有馬はこちらに顔を向ける。
「俺よりあったかそうな格好のわりに、名前は寒そうだな」
「うん、寒い。そろそろ戻ろう、宇井ちゃんが顔面パイの準備して待ってる」
「なにそれ戻りたくない」
「宇井ちゃんのストレス発散のためにご協力願いまーす」
「今日、俺の誕生日なんだよね?」
「良く考えてみなよ、有馬。素敵な思い出になると思わない?」
「思わない」
「……素敵な思い出に、」
「何度言っても思わない」
じぃっと無言で自分を見る名前の視線に、ため息をついて折れたのは有馬の方だった。
「……まあ、忘れられない誕生日にはなりそうだな」
「でしょう?」
にこ、とわざとらしい笑みを返す。
「ねえ、」
「ん?」
「そういえば、俺に言うこと、ない?」
言うこと。何かあっただろうか。
目線を宙に泳がせ、思考。
「会議サボるのいい加減やめてくれないかな、私が毎回丸手さんに怒られるんだよね」
「……ごめん。でも俺が言いたかったのはそうじゃなくて、」
「?」
「そうじゃなくて、その、」
言いにくそうに言葉を詰まらせた有馬は押し黙り。……やっぱり何でもない、と言うと背を向け入口へと歩き出した。
言うこと。忘れていること。何だ?
頭をフル回転させ、ふと思い浮かんだ答えを抱えて、有馬の手を掴み引き止める。ほんの少し驚きで見開かれた目が、私を見下ろしていた。
「誕生日、おめでとう」
「……うん。ありがとう」
そう言って、有馬は頬をゆるめた。
どうやらお望みの言葉はこれで合っていたらしい。180センチのガチムチな筋肉質な大男のくせ、こういうところはかわいげがあるよな、と思う。
だから、これからやることに対してはほんの少し、罪悪感を覚える。ほんの少しだけ。
「ところでさ、有馬。もう一個プレゼントがあるんだけど、」
「?」
名前は手を、持っていた紙袋に突っ込んだ。有馬がなんだろうかとがさごそと袋のなかをあさる名前のその手元を覗き込んだと、同時。
スパァァァン!
ベチャッ
有馬貴将の顔面に綺麗に叩きつけられたたっぷりクリームの乗ったパイ。
それはしばし有馬の顔で停止し、やがてゆっくりと顔を這うようにずり落ち、最後には床へと落ちた。
「あっはははは!似合う!似合ってるよ有馬!これぞ白い死神って感じ!」
してやったりとげらげらと腹を抱えて笑う名前とは対称に、べったりとクリームのついた眼鏡のせいで有馬の表情は伺えない。
準備をしてくれたうえ、顔面パイを叩きつけられる瞬間の有馬を動画に撮ると意気込んでいた宇井には悪いが、有馬の気がほんの一瞬ゆるんだ、今この瞬間しかないと思ったのだ。
そうでなければ、この男に不意打ちなど到底できるものではない。
「…………………名前」
「チッチッチッ、甘いよ有馬。確かに私は宇井ちゃんが準備しているとは言ったが、投げるのが宇井ちゃんだとは言ってない。宇井ちゃんは本当にパイ投げ用のパイを用意しただけ。日本語って難しいね?」
「……名前、」
「うん?」
「覚悟は、できてるんだな」
ぎろり、とその眼鏡が光ったときにはすでに名前は踵を返していた。
その日。
クリームまみれの死神はひとりの同僚をCCG中を追い回し、やがて騒ぎを聞きつけた鬼の形相の宇井に捕獲をされたあげく、バースデーケーキに顔を突っ込まれたという。それは後に、CCG内において有馬班の変と呼ばれた。
(20201220)