短編 | ナノ



チョコレートが、どろどろと溶けて口の中で粘つく。じっくりとその甘さを味わいながら、ジンジャーエールにほんの少しウイスキーを垂らした、ハイボールとはとても胸を張って言えないものをちびちびと舐めるように飲んだ。

爽やかな甘さに、ほんの少しクセのあるほろ苦い香りが鼻を通っていく。

画面のなかでは、ふたりの男女が指を絡めて愛を囁きあっている。触れるだけだった口づけは段々深いものに変わっていって、荒い吐息を漏らすものになり、やがて男は女をソファーに押し倒して服の中に手をまさぐり入れた。

誰かと映画を見ていてこういうシーンになったとき、一体どんな顔をするのが正解なのか、未だによく分からない。もうすっかり大人なのだから、つらっとした顔をして見れば良いのだろうけれど。

ちらと、隣に座る男を横目で盗み見る。視線に気づいたからなのかどうなのか、ちょうどこちらを見た無駄に整った顔は名前と目が合うとにやりと意地悪く笑んでみせ、そっと名前の耳元にその顔を寄せて、低く、甘く囁く。


「ねぇ、俺たちもソファーでしてみる?」


にこりと、名前は満面の笑みを彼に返した。するりと腰に回っていやらしく名前の身体を撫でる手は、爪の先でメリメリとつねっておく。


「結構です」
「ちぇー。つれないの」


徹は顔いっぱいに不満ですという表情を浮かべて、ふたりの間に置かれたトレーの上からナッツを指でひとつ摘むと、口に放り込んだ。ポリポリとそれを咀嚼する軽い音が、BGMの甘ったるいジャズに混じる。

ランキング上位に入っていた、流行だという理由だけで借りてきたラブロマンスは、随分と現実味がなくてちっとも感情移入ができなかった。

最悪の第一印象、最初は仲が悪かったふたりが、なんやかんやでだんだんと惹かれあい、両想いになったところで女の方に病気が見つかる──お涙頂戴の、そんなラブストーリー。

現実に、きっとあることなのかもしれない。だけど、生まれてこの方健康優良児である自分には関係のないことだろうな、と他人事のようにしか思えなかった。

徹とはもともと仲が良くて、自然に、成り行きのままに付き合うようになった経緯もあるのかもしれない。ドラマティックな、ロマンティックなはじまりなんて私達にはなかった。

たまたまお互い彼氏彼女がいなかったタイミングで、なんとなく気が合って。「ねえ、俺と付き合わない?」「うん、いいよ」そんな軽い感じではじまった関係はもう数年続いているし、時差の発生する遠距離恋愛となった今でさえ、別れようとも別れたいとも思ったことはない。──たまに、会いたいと思ったときに会えないさみしさはあるけれど。

映画は、佳境を迎えていた。病室で、ウエディングドレスを来た花嫁は青白い肌をしつつも、たくさんの花に囲まれて幸せそうに笑っている。

ぼんやりとそれを観ながら、やっぱりアクションとか、サスペンスとか、そういう現実味がなくともどきどきできるようなものを借りてきたらよかったなと思う。

さっきのナッツをおもむろに口に頬張るを見た限り、徹もさぞ退屈した顔をして観ているのだろうと、ふと横を見て──ぎょっとした。


「──え、なんで泣いてんの、徹」
「ぐすっ……いや、名前はなんでそんなに冷めてるの?」


ここ絶対泣くとこじゃん!

ぐすぐすと鼻をすすりながら、徹は何枚も何枚もティッシュを手に取っては、ぼろぼろとこぼれる自分の涙を拭う。ちーん、と大きな音を立てて鼻を噛むと、真っ赤になった瞳で名前を視界に入れて、ぐいとその肩を引き寄せ抱いた。


「だってさぁ、考えちゃうじゃん」
「なにを?」
「もし、名前がこんな風に病気になったらどうしよう、とか」
「え?ならないよ」
「どっから出てくるの、その根拠のない自信」
「ならないよ、私ほとんど風邪とか引いたことないし、健康診断でも引っかかったことないし」
「……この間インフルエンザになってた」
「それはそうだけど、」


徹が怪我をしたり、日本にはない海外の病気になって苦しむ可能性の方がよっぽど高い気がする。抱き寄せられるままに徹の身体に自分の頭を預けながらそう伝えると、徹はうーんと唸った。


「でもさ、そんなこと言ったら怪我はともかく、名前もそのうちアルゼンチンに来るわけだから……」


もごもごもご。

鼻の詰まった声で、小さく言われた言葉に、顔を上げた。


「え?そっちに行くの?私」


徹が、不思議そうな顔をして私を見下ろす。


「……来ないの?ていうか、」


おいでよ。

「ねえ、俺と付き合わない?」はじまりのその言葉と同じくらいの軽さで、徹はそう言った。「うん、いいよ」と、今度は、そう簡単に返事はできなかった。仕事のことだってあるし、あっちに知り合いも友達もいないから不安だし。

徹がいるっていっても、徹は練習やら遠征やらで、ずーっと一緒にいてくれるわけではないだろう。誰も知らない場所にひとりで取り残されて、自力でなんとかしなきゃいけないことも、きっとたくさんあるだろう。──できる、だろうか。


「アルゼンチンって、何語なの、言葉」
「スペイン」
「全然わかんない。オラ、とグラシアス、しかわかんない」
「だいじょぶだいじょぶ、俺がいるじゃない」
「徹だから心配なんだよ」
「ええ?そう?……うーん、まあ、そうか」


アルゼンチンに行けば、今より一緒にいられる時間は、確実に増えるだろう。一緒に眠って、朝を迎えて、顔を合わせてごはんを食べて、時々一緒にお風呂に入る。声を聞きたいと思ったときに時差を気にすることもなくなるだろう。

それは、魅力的だなと思う。ていうかこれ、そもそも結婚っていう形になるのだろうか。これはプロポーズなのか?

惑う名前の気持ちも分からなくも無いから、と徹は強引に返事を催促しようとはしなかった。ただ、愛しそうに名前のことを抱き寄せて、額に、髪にとやさしく口づけて、ぽつりと呟くだけ。


「幸せにするのは、間違い無いんだけどなぁ」


徹の言葉に、名前は彼の腕の中で首を傾げた。


「……もう、十分幸せだけど」
「ええ?もっとだよ、もっと」
「欲張り、ごうつくばり」
「そりゃあそうだよ、名前のことだもん」


徹は、へらりと笑う顔をしまいこんだ。バレーをしているときに似た、真剣な表情。獲物を狙うような鋭ささえ感じるその顔で、徹はゆっくりと名前の顔の輪郭を指でなぞる。


「全部、欲しい。余すことなく、全部全部、俺のものにしたい」


ちろりと唇の間からのぞいた赤い舌に、喰われる、と思った。触れた唇はあっという間に口内をこじ開け、名前の舌をいやらしく絡めて、歯列をなぞり、甘く吸う。

むさぼるようなその瞳は、先程低く囁いた言葉通りにただ名前だけを求めているのが痛いほどに伝わってきて、同時に喰らい尽くさないようにと徹が自制をしていることも伝わってきた。

すとん、と結論が降りてくる。ああ。この人と一緒にいられるのなら、もうなんでもいいか。


「ああ、もう、いいや」
「え?なに?」
「行く。アルゼンチン」


きょとん。徹は目を丸くして、それから焦ったように待て待て待て、と名前の両肩を掴んで、がくがくと揺する。


「え?待って待って、どうしたの急に、」
「徹こそ自分で言ったくせに、なんでそんな急に焦ってるの」
「だってさっきまで不安そうに悩んでたじゃん!」
「だから、その不安が解消されたから行こうと思って」
「え?なに?もしかしなくても、俺のえっろいちゅーで?……愛の力かな」
「うん、そう、それそれ」
「え?ばかなの?」
「そっちこそ」


本当にいいの、と真剣な顔をしてそう言った徹に頷く。


「うん、いいよ」


そう言って笑うのと同時、ぎゅうっと徹に抱きしめられた。めちゃくちゃうれしー……と、どこかホッとしたような声で言われて、実は徹も緊張していたらしいと気づく。

おずおずとその頭を撫でると、猫みたいに気持ちよさそうに笑う。それから、ちょっと表情を変えて、言いにくそうにごほんと咳払いをした。


「あのさあ、」
「なに?」
「今度、ちゃんとするから、プロポーズ。だから、今のは予約ってことで受けといてね」
「え?いいよ別に、改めてやんなくても」


指輪が欲しいわけでもないし、花が欲しいわけでも無い。徹の身ひとつさえくれるのなら、あとは別に、なにも。


「だめ。今度こそ、ちゃんとはじめなくちゃ」
「ちゃんとって。今までだって、ちゃんとしてなかったわけじゃ」
「さっきの映画よりずうっとロマンティックで、ドラマティックなやつ、やるから。名前が退屈だーつまんなーいって欠伸噛み殺さないような、一生覚えてたくなるような、すてきなプロポーズ」
「自分でハードル上げすぎじゃない?大丈夫?」
「だいじょぶだいじょぶ」


にこっと、いつもの人懐こい笑みを顔に浮かべる。徹が大丈夫と言うのなら、きっと大丈夫なんだろう、何もかも。胸がスッとして、つられるように笑った。


「楽しみにしてる」
「うん、楽しみにしてて」


画面の中では、エンドロールが流れていた。

そう。ラブロマンスにしても少女マンガにしても、どちらも大体結婚してしまえばそこで物語はおしまい、というのが一番リアリティーに欠けるよな、と思っていた。実際はそこからが波瀾万丈のはじまりのはずなのに、と。


「……もう、十分幸せだけど」
「ええ?もっとだよ、もっと」



さっき言われたばかりの徹の言葉を、噛み締めた。

病めるときも健やかなるときも。結婚式の誓いの言葉としてつむがれるその口上が、ふと頭に浮かぶ。さあ、波瀾万丈のはじまりだと。



エンドロールは終わらない、



(20200819)
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