短編 | ナノ



カリカリと、静かな夜にシャーペンを走らせる音だけが響いていた。クーラーは故障中だからと、学校から帰ってきた途端暑い暑いと開けっ放しにしていた窓からは、ようやく涼しい風が入るようになって、高く髪を結い上げてむき出しになっているうなじを撫でる。

この時の、彼の心情を表す一文を抜き出しなさい。

さらっと流し読んだだけの長文問題の文章の、その問いの答えを示すところを文字を指でなぞりながら探していた時だった。

ぴろん。

画面に表示されたのがちらと見えた「影山飛雄」という恋人の名前に、名前は途端に問題集をぶん投げ、スマホに飛びつく。飛雄から、連絡。名前から送れば、返事は返ってくるが、彼から連絡をもらうことは、ほとんどない。

ほとんどないっていうか、付き合う前も付き合ってからも一度かあったっけ……?あれ?という頻度の飛雄からの思わぬ連絡に、胸をどきどきさせながら名前はメッセージアプリを開く。


『あしたオフ』


そこに書かれていた5文字に、急激にテンションが上がるのがわかった。烏野高校のバレーボール部には定期的な休みというものがない。あったとしても飛雄は自主練という形でバレーボールから離れることはなかったから、付き合ってもまともにデートらしいデートもしたことがなかった。

そんな彼からの連絡、あしたオフという文字列、これはもしかして、もしかしなくてもデートのお誘いというやつではないだろうか。きゃー!スマホに顔を押し付け、椅子に座ったまま足をバタバタさせて、名前はひとりはしゃぐ。


『なにする!?』
『ご飯とか食べに行く!?』



文章に、自分の高揚した様子がそのまま乗っかっていた。映画を観に行くのも悪くないかもしれない。飛雄はラブロマンスなんて苦手そうだから、アクション系がいいだろうな。あとは前から行ってみたかった新しく出来たハンバーガーのお店に行って──。

ぴろん。


『明日はカレー』


めくるめく妄想が広がったところで、謎の6文字が返ってきた。

明日はカレー。カレーを食べたい、ということ?気になるカレー屋さんでもあるのだろうか。そういった情報にはめっきり疎そうなものだが、先輩方に教えてもらったりした、とか?そして私とそこに行きたい、とか?

どういう意図がわからず、結局首をひねりながら、短文を返す。


『カレー?』



ぴろん。


『明日はカレーだから、行かねぇ』


…………。え、あ、そうですか。じゃあ何をしましょうね。自分のテンションが急激に落下していくのがわかる。


『オッケー。じゃあ、どうする?』



行かねぇというのだから、他に何かしたいことでもあるのかと続きの文章を待ってみたが、それっきり、飛雄からは何の音沙汰もなかった。既読、という文字だけが画面には浮いている。

もしかして電波が悪くて、メッセージを受信できていないのだろうか。Wi-Fiの電源を入れ直してみたり、天井に向かってスマホをかざしてみたりもしたが、特に異常はない。

え?やっぱり、明日はカレーを食べるっていう報告?初めてきたメッセージがそれ?いやいや、飛雄カレーすきだものね、明日がカレーってよっぽど嬉しかったんだよね、影山家のカレーめちゃくちゃおいしいもんね。え?なにそれ?なにこれ?

さっきまで読んでいた問題集の一文が、ふと脳裏をよぎる。

この時の、彼の心情を表す一文を抜き出しなさい。

──誰か、答えを教えてくれ!

うなだれた名前は、あっさりと白旗を振ったのだった。



***



「何なんですかね!?」
「……本当に何なんだろうね?この状況」


やさぐれた様子でもしゃもしゃとポテトを食いちぎるように食べる中学時代の後輩に、及川は帰りたいという表情を隠さなかった。なんなら、口に出した。


「帰っていい?」
「及川先輩、いつでも困ったことがあったら相談しにおいでって言ってくださったじゃないですか!」
「飛雄以外のことだったらね」
「そんなこと言ってませんでした!」
「察してよ」


仲良くないの、知ってるでしょ、と及川は心中でごちる。ていうか、何なら名前と飛雄が付き合っていることさえ知らなかったんですケド。

きっと岩泉なんかも知らないに違いない。ていうか岩ちゃんは知らないでいてほしい、自分だけが蚊帳の外だったなんてこと──ありえそうだから笑えない。

はあ、とひとつ溜め息をついて、バーガーをかじる。じゅわりと、肉汁が口の中いっぱいに広がった。安いチェーン店でない、このハンバーガー専門店はつい最近できたばかりだった。

おいしいと評判ではあったけれど、デートの場所に選ぶのはなぁと思っていたから、ようやくありつけた味。うん、うまい。今度岩ちゃんたちとも来よう、と及川はぺろりと指先を舐めた。それはさておき。


「あのねぇ、及川さんだって暇じゃないんだよ、名前ちゃん。今日はオフで、しかもたまたま予定が入ってなかったからいいけどさぁ……」
「何言ってんですか!彼女に振られたから暇でしょ!土曜日に!」
「ちょっと、何で知ってるの!?」
「国見が教えてくれました」
「国見ちゃん〜あのヤロウ〜」


そう、及川は彼女と別れたばかりだった。だからこそ、そんなタイミングで連絡を寄越した自分によく懐いていたかわいい後輩にほんのちょっとばかりの下心と期待をもって、わくわくしながら待ち合わせ場所に来たというのに、これだ。

ほんの少しツヤめくかわいらしい色のリップを塗ったその唇がつむぐのは、彼氏である影山飛雄についてのことだけで、及川に「それかわいいね、」と口説く隙さえ与えなかった。

ズコーッとシェイクを吸い込む。彼女はぷりぷりと怒っていた。飛雄の的を得ないメッセージに、意味がわからないを通り越して怒りを感じたらしい。


「カレーに負けた!」


つまりは、こういうことである。彼女である自分よりも、カレーを選んだと。


「……まあ、カレーはおいしいからね」
「カレーに!負けた!」
「うんうん、飛雄の好物だもんね。仕方がないよ」
「え?仲悪い割に、そういうことは覚えてるんですね、意外です」


こうなったら落ち着くまで適当に流そうと言った言葉に、彼女がふと冷静さを取り戻して食いついた。意外です、と言ったそのままの表情を浮かべ、じいっと及川の顔を見る。かわいらしい、大きな目を縁取る長い睫毛が、彼女がまばたきをするたびにしぱしぱと動く。


「…………まあ。チームメイト、だったし、主将だったし、それくらいはね」
「飛雄は絶対に及川先輩の好物知らないですけどね。私も知らないです。国見と金田一もたぶん知りませんよ」
「うんうん知ってる、君らはかわいくねー後輩ばっかりだよ」


やっぱりもう帰っていい?

その言葉を口にしようとしたときだった。

ドン、

ふたりが座るテーブルの真ん中を、見慣れた手のひらが叩いた。

ぜえぜえと息を切らす影山飛雄が、そこには立っていた。ただでさえ吊り上がっている目をことさらに吊り上げ、及川をねめつける。


「……何で、よりにもよって、及川さんと一緒にいるんだ」
「おい、飛雄。よりにもよってってなんだよ」
「私が誰と一緒にいようが私の勝手でしょ。例えそれが及川先輩だったとしても」
「名前ちゃん、それどういう意味?なんか悪意を感じるんだけど」
「ていうか何でここにいるの?カレーはどうしたのよ、愛しいカレーは」
「え?無視?ふたりして無視?」
「カレー、うちに食いに来いって誘いに来たんだよ」
「……そんなこと、全然書いてなかったじゃん」
「おーい、及川さん、泣くぞー」
「昨日は充電切れたんだよ。だから朝からずっと探してたのに、なんかずっと教室にいねーし。避けるなよ、頼むから」


すっかりふたりの世界に入ってしまった。後輩ふたりに無視をされ続けた及川のライフはもうゼロに近い。


「ごめん、飛雄……」
「ん。もういいから、」


飛雄が、自然な様子で名前の手を取った。するりと絡められた指先に慣れを感じて、ああ本当にこのふたり付き合ってたんだなぁと及川は思う。ついこの間まで子供にしか見えなかったというのに、なんて親心さえわく。


「ていうかよく、ここにいるってわかったね、飛雄」
「前にここ通ったとき、行きたいって言ってたろ」
「覚えててくれたの?」
「……お前のことなら、覚えてる、ちゃんと」
「飛雄……!」


自分は一体、何を見せられているのだろうか。ドラマでも見られることのないような、砂を吐きそうなげろ甘い展開。女の子たちの話に合わせるためにドラマを見て、こんなシチュエーションどきどきするよねー、なんて話をすることもあったが、身近な人物のドラマに対しては、特に何も湧き上がる感情はなかった。

無である。ていうか、無になりたい。そろそろ本当に帰ろう。及川はそう決意をして、ただひたすら残りのバーガーを胃に詰め込むことに集中をしはじめた。なんなのこれ。名前と視線を絡ませていた飛雄が、及川の方に目を向けた。


「あ、及川さん、どうも(俺の)名前がお世話になりました」
「ありがとうございました!及川先輩も、早く彼女できるといいですね!」


かっっわいくねぇ……!

瞬時に額に青筋を浮かべた及川は、バーガーを口に詰め込んだまま、特に勝負をしたわけでもないが、負け犬のごとく吠えた。


「もう二度とお前らの連絡には応えないからな!」
「大丈夫です、しないんで」
「ていうか飛雄、及川さんの連絡先知ってる?」
「知らねぇ」


そう言って、ふたりは仲良く手を繋ぎながら店を出て行った。

嵐は、過ぎ去った。

たった数分のできごとだったというのに、どっと疲れた身体に、甘いシェイクがしみわたる。一体なんだというのだろう、この敗北感は。カレー。そう、今日の全てはカレーから始まった。


「……さみしい」


失恋したばかりの心に、ふたりの惚気た様子はよく効いた。なんだか、ひとりでいたくない気分だった。ブレザーのポケットに投げ入れていたスマホを手に取ると、自分のことをよく知る相棒にメッセージを入れる。なんならこれから遊んでもらおう。


『岩ちゃん聞いてよ、 』
『カレーに負けた』



瞬時に既読がつくあたりに、もしかして岩泉も自分に連絡をくれようとしていたんじゃないかとさえ錯覚してしまいそうだった。なにをしようか。ファミレスで愚痴を言いながらやけ食いして、カラオケ行って、それから及川家か岩泉家でバレーのDVDでも観ようか。

ぴろん。返事が来た。


『よくわかんねぇけど、及川とカレーならカレーの圧勝』
『うんこと及川でも、うんこの圧勝』


ゆっくりと、及川の感情が顔から落ちていく。錯覚は、錯覚以外の何物でもなかった。幼なじみの冷たい言葉に、及川は無言でスマホの画面を消した。どっかり背もたれによしかかって、ひとりごちる。


「……カレーになりたい」


目の前にあった、自分と同じく置き去りにされたポテトをひとつ手に取る。味気のないしんなりとした、もさもさとした食感が口の中で広がった。



(20200819)
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