短編 | ナノ



蝉が、ひっきりなしに鳴いていた。うっそうとしげった木々が少しやわらげてくれてはいるが、燦々と差す日差しはじりじりと肌を焼く。目をつむると、近くを流れる小川の水の音が聞こえた。

月島家では、毎年盆になると父の実家に帰省するのが常となっていた。自分の住んでいる土地に比べるとずいぶんと山奥の、田舎という言葉がよく似合う土地。

周囲にはぽつぽつと建物があるものの、車での移動が基本となるため、道を歩く人はほとんどいない。

到着してすぐその日に墓参りは終えてしまったから、あとの数日はのんびりと過ごすだけでよかった。


(まあ、だけっていっても、って感じだけど……)


一本しか電波の立っていないスマホの画面を眺めて、溜め息をつく。もちろん、Wi-Fi環境があるわけでもない。

ネットはほとんど使えないに等しい、せいぜい音楽プレーヤーとして活躍するくらいしかないそれを畳の上に放って、縁側に腰掛け、ぶらぶらと足を投げ出した蛍はぼんやりと空を見上げた。大きな入道雲が、漂っている。

根っからの現代っ子に、ネット環境がない空間は退屈としか言いようがない。要領のいい蛍は、宿題を夏休みに入ってすぐに山口と図書館に通い詰め、すっかり片付けてしまっていた。──さて、あと数日、一体何をしようか。


「蛍ちゃん、西瓜食べるかね?」
「あ、はい」


すっかり腰の折れ曲がった祖母が、ひょいと柱の陰から顔を出した。手には西瓜の乗った皿と、塩の入った瓶が握られている。ありがたくそれを受け取って、かぶりついた。

きんきんに冷やされたそれは、咀嚼したとたんじゅわりとみずみずしい甘い果汁を口のなかに広げた。喉を通って腹まで、冷えたそれが落ちていくのを感じる。


「どうしたの?迷子?」
「にいちゃんと、はぐれて、」



毎年、ここにくると彼女のことを思い出す。小さな頃、何も目印のないだだっ広い道で兄とはぐれて帰り道がわからなくなり、しゃがみこんで泣いていた蛍に、声をかけてくれた存在。

さっき放り投げたばかりのスマホを手に取る。日は、まだしばらく暮れないだろう。


(……どうせ、することもないし)


彼女は、まだあそこにいるのだろうか。甘ったるい汁のついた指先をぺろりと舐めて、のそりと立ち上がる。スマホと財布を片手に居間に入ると、兄の明光が蛍と同じように西瓜にかぶりついていた。傍らに置かれた麦茶の入ったグラスには、びっしりと水滴が付いている。

きょろきょろと家の中を見回すが、目当ての人物はいないようだった。


「父さんと母さんは?」
「ん?夕飯の買い出しに行ったぞ」
「そう。ちょっと、出かけてくるから」
「どこ行くんだ?」
「散歩」
「! 俺も一緒に、」
「来ないで」
「…………はい」


蛍の即答に、兄はしゅんとした様子で再び西瓜に手を伸ばした。そんなふたりの様子を見た祖母が、「仲良しやねぇ」とけたけた笑う。肩をすくめて、玄関へと向かうとスニーカーを履く。

がらがらと引き戸を開けながらトントンと爪先で床を小突いていると、後ろから「蛍、」と兄が呼ぶので、振り返る。麦茶を片手に見送りに来た兄は、にや、といたずらっぽい笑顔を浮かべていた。


「なに?」
「迷子になるんじゃねーぞ」
「……」


ピシャン。

蛍は無言でドアを閉めた。中から兄が「ばあちゃん、蛍が冷たい!」と訴えているのが、聞こえた。

周囲に田んぼ以外何もない、舗装もされていない畦道を歩く。ぽつんぽつんと途中立つ電柱に、「夏祭り」とでかでかと書かれたチラシが貼ってあった。今日は屋台が出て神輿が練り歩き、明日には花火があがるらしい。

しばらく道なりを行くと、草原のなかに、ぽつんと古い木の鳥居が立っていた。社もそこへ上るための石畳の階段もなにもなく、ただ、風雨にさらされすっかりボロボロになってしまった、傾きかけた鳥居だけ。昔はここに神社があったのだという。

戦争の時の空襲で社も狛犬もなにもかも全て焼けてしまったが、唯一鳥居だけが残ったのだと、とうに亡くなった祖父が一升瓶を片手に酔っ払って小さな月島兄弟に語ってくれたのを思い出した。


「いらっしゃい」


その、鳥居をくぐると、目線を下にやる。鳥居の柱の裏に、体育座りをしている浴衣姿の女がいた。笑ってこちらを見上げる女は長い黒髪を少し時代遅れな三つ編みのおさげにしていて、化粧っ気のない顔をしているが、それがよく似合っている。


「……久しぶり、名前さん」
「久しぶり、蛍くん」


また背が伸びた?眩しそうに、彼女は蛍を見上げる。そう言った彼女の背丈は、蛍が初めて会った頃と変わらない。──服装も、顔立ちも、髪型も、何もかも。


「名前さんは、まだ成仏できないの?」
「蛍くんが毎年会いにきてくれるのが楽しみでねー、ちっとも成仏できないの」
「僕のせいにしないでよ」


えへへ、と誤魔化すように笑う彼女の隣に、腰掛ける。

彼女がいわゆる幽霊というものだったことに気づいたのは、迷子の幼い蛍が家に着いて、兄に抱きついて「あのおねえちゃんがつれてきてくれた」と指を指したときだった。蛍にはしっかり見えていたこちらに手を振る名前の姿は、兄には見えなかった。

別れもろくに告げぬまま、礼もろくに言えぬまま、顔を真っ青にした兄が蛍を抱えて家の中へ駆け込んだのを、よく覚えている。彼女には足がきちんとあったし、触れることもできた。ひどく、冷たい手だった。

「ごめんね、」と眉を下げて申し訳なさそうにしていた彼女に、蛍は「きょうはあついから、つめたくてきもちいいよ」と笑ったことも、覚えている。幽霊だなんて、露ほども思わなかった。ちっともこわくなくて、彼女は只々やさしかった。


「蛍くん、いくつになったの」
「誕生日がきたら16歳。高校に入ったよ」
「ええ、もう高校生?早いねぇ」
「ちなみにこの会話、去年もやった」
「あはは、ごめんね」


なんだか、年々記憶がなくなってちゃうのよねぇ。

頬に手を当て、笑いながら大したことないように語られたその言葉に何と返すのがいいのかわからなくて、蛍は口をつぐむ。

彼女が気づいているかどうかは知らないが、記憶がなくなっていくという彼女に会える日も、会える時間も、年々少なくなっていた。しっかりと色と形を保っていたその身体は年々薄くなり、うすぼんやりと透明になっていく。

いつ消えてしまってもおかしくないような、儚い存在。今こうして話をしている間にも、ゆらりと陽炎にまぎれて、彼女は消えてしまいそうだった。きっと消えてしまうとしたら、それは成仏という形ではないのだろうと思う。

彼女は一体いつから、ここにいるのだろう。どうして、死んでしまったのだろう。蛍を家に連れ帰ってくれたように、彼女はどこにでも行くことができるはずなのに、どうしてずっとここにいるのだろう。

昔小さな蛍が矢継ぎ早に質問した答えが、返ってきたことはない。もうずうっと前のことだから、あんまり覚えてないの、といつも彼女は悲しそうに笑うだけだった。


「蛍くんが来る季節っていうことは、もうすぐ夏祭り?」
「うん。明日からだって」
「そう。今年は行くの?」


人混みがすきじゃないから、行かない。そうぶっきらぼうに答えようとして、蛍はふと考えを改めた。脳裏にちらつく、電柱に貼ってあったチラシにでかでかと書かれた文字。こんなの、ガラじゃない。ガラじゃない、けど悪くはない考えだと思う。


「名前さん、花火、すき?」
「うん?すきだけど。突然どうしたの?」
「明日、やるんだって。一緒に見に行こう」


名前が、驚いた顔をして、それからとても綺麗に、嬉しそうに笑った。


「……うん、行きたい」



***



夕涼みの頃。遠くで、にぎやかな祭囃子の音が聞こえた。蛍と同じく里帰りをした子供たちだろうか、外ではわいわいとはしゃぐような声も聞こえてくる。

蛍は昨日と同じく、スマホと携帯だけを片手に兄に声をかけた。


「出かけてくる」
「え?今日祭りだぞ?」
「うん。花火見てくる」
「ええ!?蛍が!?あの人混み大っ嫌いな蛍が!?」


大袈裟に兄が騒ぐのに、蛍は眉をひそめた。言いたいことは、よくわかる。何なら、自分でも信じられない。幽霊と花火を見にいくということに朝からずっとそわそわとして、日が暮れるのを今か今かと待っている浮かれた自分のことなんて。


「……別にいいデショ、たまには」
「俺も一緒に、」
「あ、行かないでーす」


ピシャン。

とびきりの笑顔で、蛍は扉を閉めた。

彼女は、いつもの通り、鳥居の裏でしゃがみこんでいた。浴衣と化粧気のない顔はいつも通りながら、おさげ髪はほどかれゆるやかなウェーブが背中で波打っている。──髪型、変えられたのか。

ぼんやり空虚を眺めて、蛍が来たことにも気づいた様子のない名前のその顔の前で、蛍はひらひらと手を振る。名前はびくりと驚いたように肩を跳ねさせ、焦点の合った目でこちらを見上げると、へらりと笑った。


「迎えに来たよ」
「なんだ。蛍くん、浴衣じゃないの」


残念そうに言うのに、蛍は露骨に顔をしかめた。


「あのね、名前さんのこと、僕にしか見えてないんデショ。はたから見れば男ひとりで浴衣着て花火、なんて浮かれ野郎もいいとこじゃん」
「あはは、そうね。でも、きっと似合うのになぁ」
「もういいから。……ほら、立って」


しゃがみこむ彼女に、手を差し出す。じぃっとその手を彼女は少しの間見つめて、おずおずと蛍の手を取った。今日も、ひどくその手は冷たい。引っ張り上げるように彼女を立たせると、名前は眉を八の字に下げた。


「ごめんね、冷たいでしょう」
「……今日は暑いから、冷たくて気持ちいいよ」


初めて会ったときにも、同じ会話をしたのを彼女は覚えているだろうか。

さあ行こうと彼女の手を引き歩こうとするが、彼女の足は止まったまま。どうかしたのかと蛍が長い髪に隠されたその顔をのぞきこむと、いつも青白い顔をした名前のその頬に、うっすら紅が差していた。

もう血なんてとうにないのに、幽霊も赤くなるんだなと不謹慎なことを考える蛍に、「いやだわ、」と彼女がぽつりとこぼした。


「なにが?」
「なんだか、どきどきする」
「……何言ってんの」


こっちのセリフなんですけど。秘めた想いは口に出さぬまま、ただその手をぎゅうっと握った。幽霊相手に、何年も何年も片想い。誰にもいうことのできない、ちっとも笑えない話だった。

祭は、賑わいを見せていた。この街にこんなにたくさんの人が住んでいたのだろうかと驚くほどの、人、人、人。うわあ、と思わず内心を表情に出した蛍に、 名前はけらけらと蛍にしか聞こえない、鈴のような声で笑った。

水風船すくいと金魚すくいと射的を冷やかし、スーパーボールすくいを見て、何これ!すごく跳ねる!と目をきらきらとさせた名前にひとつ取ってやった。たこ焼きやらやきそばには目もくれず、自分用には、いちご飴とかき氷を買う。

ひと気のない石段を見つけて、ふたり並んで座る。名前は蛍にとってもらったばかりのスーパーボールを鞠のように手で弾ませて遊んでいた。楽しそうだ、と横目でたっぷりのいちごシロップと練乳のかかったかき氷を口に運びながら蛍はそれを眺めていると、咎めるような目がこちらを見遣った。


「ちょっと、食べざかりの男の子が、それだけ?」
「いいデショ、すきなんだから」
「だめ。もっと食べて大きくなりなさいよ」
「もうだいぶ名前さんより大きくなってるんですけど」


その言葉に、彼女が蛍を見上げる。ゆるりと細められた目。


「……本当に、大きくなったね」


名前が手を伸ばして、蛍のやわらかい髪を撫でる。


「蛍くんは、これからどんな大人になるのかな……」


学校を卒業して、大人になって、働いて、すてきなひとをお嫁さんにもらって。彼女の口から語られる蛍の未来予想図に、名前の存在はない。

ドン、と大きな音がして、空が急に明るくなった。花火の打ち上げが、始まった。

赤、青、緑、金色、銀色。様々な色が夜空を彩る。


「綺麗ね、」
「うん……綺麗だ」


空に咲く大輪の花を見上げる彼女の横顔を、蛍は眺めていた。花火なんてそっちのけで、ただ彼女だけを見ていた。

すきだ、と小さく心のなかで呟く。すきだ。言葉を紡がない口のかわりに、繋がれていた手に力を込めると、冷たい手のひらが蛍の手を弱々しく握り返す。

花火を眺めていた名前の目が空から逸れて、蛍を映す。どちらからともなく、何かに誘われるように目を閉じて、口づけた。

冷たいけれど、柔らかな感触。しばし重ねるだけのその行為に甘んじていると、触れたまま名前が「蛍くん、」と小さく名前を呼んだ。「なに、」と蛍も触れたまま言葉を囁き返す。


「ありがとうね」


離れた唇とその言葉と共に、目を開ける。そこに、名前の姿はなかった。彼女の居た場所に、枝垂れ柳のようにゆっくりと金色の火花が宙に落ちていくのが、見えるだけだった。


「名前さん?」


霞のように突然姿を消した彼女の名前を呼ぶが、返事はない。ただひとりきょろきょろと辺りを見回す蛍と、彼女が鞠遊びに使っていたスーパーボールだけが、そこには取り残された。別れの言葉さえ、伝えられぬまま。

──きっと、あの鳥居の裏にももう彼女が現れることはない。なんとなく、蛍は理解をしていた。彼女は、消えてしまった。成仏という形だったのかも、わからなかった。


「……帰ろう、」


いつのまにか、花火は終わっていた。ふたり、手を繋いで歩いてきた道をひとり歩く。喪失感のためにぼんやりとした蛍を出迎えてくれた祖母は、ひとり縁側で縫い物をしていた。

父と母と兄は、祭りへ行って、まだ帰ってきていないらしい。祖母は歩くのがしんどいから行かないと、でもりんご飴と綿あめの土産を頼んだとのことだった。甘党なのは家系のようだ。

隣に腰掛け、空を見上げる。大量の煙の漂う、花火が終わったあと独特の空。火薬のにおいが、まだ宙を漂っていた。


「昔、ばあちゃんの友達に名前ちゃんて子がいてねぇ、」


唐突に、祖母がぽつりと呟いた。さっきまで隣にいた彼女の名前が出てきたものだから、思わず勢いよく祖母を振り返り、じっと息を呑んで言葉の続きを待つ。


「ちょうど蛍ちゃんと同じくらいの年になった頃かねぇ。できたばかりの恋人と花火を見に行く約束をしてたんだが、途中でタチの悪い酔っ払いに絡まれて、逃げようとしたところで誤って階段から落ちて死んじまった。頭の打ちどころが悪くてねぇ。ありゃあちょうど、蛍ちゃんが小さいころに迷子になって泣いとった鳥居の前だったなぁ」


ぽつんと佇む、鳥居。その上の神社で、ふたりは待ち合わせをしていたのだという。

そうか、彼女の未練は。──ずっと、待っていたのか。


「ありがとうねぇ、蛍ちゃん。名前ちゃんと一緒に、花火見てくれて」
「……え?」


祖母に、名前の話をしたことはなかった。


「昨日夢に出てきたんよ。明日はかわいいお孫さんをお借りするからよろしくねって、あの頃と変わらんかわいい顔して笑っとったよ。まるで、」


祖母が、しわくちゃの顔で微笑む。


「まるで、恋人に会いに行く前にはしゃぐ娘みてぇに」
「…………そう、」


目を閉じる。まぶたの裏に、焼き付けておいた彼女の横顔が浮かんだ。夜空によく映えた白い肌を。長い睫毛の下の、吸い込まれそうな大きな丸い瞳に映った花火が、とても綺麗だったことを。冷たくも、やわらかな、あの一夜の夢のようなやさしい口づけを。

指先から力が抜けて、手に握ったままだったスーパーボールがころりと縁側に転がる。中に無数に入ったラメが、月明かりに反射してきらきらと輝いていた。

鈴虫が、鳴いている。夏の終わりを告げるような、少し冷たい風がうなじを撫でた。



野辺に咲く夢



(20200819)
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