短編 | ナノ



※年齢操作



普段なら鼻から入ってくるはずの酸素は入ってこなくて、代わりに何故か水が入ってきた。苦しい。そう脳が認識した途端、もがくように水面から突き出した手が、運良く浴槽の縁を掴む。

力の入らない身体でやっとのことで水から顔を出して酸素を取り込めば、反対に身体は入ってきた水を排出しようとでもしているかのように噎せて、咳が出た。生憎、水は出てこなかったが。

すっかり冷めきってぬるくなったお湯の水滴が、髪を伝って浴槽に張られた湯にポタポタと落ちていって水紋をつくった。まだ少し酸素がうまくまわっていない頭はぼんやりとしていて、いまいち状況を把握しきれていない。

ようやく咳が一段落したところで外でがさがさと音がしたと思えばドアが開き、ひょこっと京治が顔だけを出した。


「名前?大丈夫?」
「うん。……溺れかけたけど、まあ平気」
「溺れかけたって……まさか寝てたんじゃないよね」
「え?ええと、……やだなぁ、京治くんたら」


じっと疑うような目つきに逃れるかのように目をそらすと、深い溜め息。

あなたってひとは、本当に全くどうしようもない。

京治が私がしていた行動をずばり的中させてしまったのと同様に、私も京治が溜め息に込められた無言のメッセージをきっちり読み取ることができるようになったことに、付き合いの長さを感じた。

高校を卒業する直前に告白したのをきっかけに付き合いはじめたひとつ年下の恋人は、とてもしっかりしている。とはいっても年下らしさを感じるのは、ごくたまに先輩後輩だった頃の名残りの残る敬語混じりの会話だけで、それ以外は──うん。どっちが年上だかわからないほどだ。

浴びせられる呆れたような視線は笑顔で誤魔化し、へらりと受け流す。木兎を見るときと同じ目だなぁ……あそこまで豪快な感じではないと思うんだけど。


「どれくらい入ってた?私」
「2時間くらい」
「えええ。さすがにちょっとくらい心配して様子見に来てよ。死んでたかも」
「この間あまりの長風呂に心配してそうしたら、のぞきだのえっちだのとふざけたこと言って俺を変態扱いしたのは誰だっけ?」


ふむ、と腕組みをして記憶を辿る。そんなこと言ったっけ?……ああ、言ったかもしれない。この間べろんべろんに酔っ払っていて、京治が心配して止めたにも関わらずその制止を振り切って風呂に入ったときだ。

当然ながら酔いが余計に回って、逆上せて大変だった。その節は赤葦さんに大変ご迷惑をおかけした気がする。気がするというか、おかけしすぎて翌日の朝、二日酔いのなか散々お説教をくらったのは記憶に新しい。

酒飲んだあとに風呂に入ってはいけないという昔からの教訓は、京治の「本当に心配したんだから」という優しい言葉と一緒に、よく身にしみた。まあそれはともかく。


「あれはかわいいかわいい名前さんのジョークじゃない」
「ああ、もうそれでいいんじゃないですか」
「京治ちゃん、つめたい!」
「ちゃんて言うな。……ていうかそろそろ風呂出てよ、俺も風呂入りたい」
「あー……じゃあお詫びに一緒に風呂に入る?」


パチャパチャと気怠く水面を叩きながらそう言えば、途端京治の額にはビシッと青筋が浮いた。はあ?何でそれがお詫びになると思ってるんですか?馬鹿なんですか?

ゴゴゴ……と恐ろしいオーラを纏ったように見える京治は、目元に影を作りながらただ一言、誰が入るかさっさと上がれ、と低い低い声でそう言った。

ツレないなぁ。付き合いはじめたばかりの頃は、一緒に入ろうとからかうと「女性がそういうことを軽々しく言わないでください」なんて顔を真っ赤にしつつ、しずしずと服を脱ぐ様子にちゃっかりしていてかわいいなあと思っていたというのに。これがいわゆる倦怠期というやつかしら。

肩をすくめて、これ以上京治を怒らすまいと立ち上がる。すっかり冷えた身体は、熱いシャワーで温めよう。

ぐらり。視界が、揺れた。

長い時間風呂に入っていたせいで感覚が麻痺していたのか、はたまた逆上せていたのか何なのか。水にふやけてしわしわになった手は、今度はなにも掴むことができない。京治が、手を伸ばしている。焦った顔をしていた。


「……この度は、大変申し訳なく思っている所存で……」
「それ、もう聞き飽きた」


おっしゃる通り。倒れるすんでのところでしっかりと私の手を掴んで抱きとめてくれた京治には、もう頭が上がらない。


「平気?」
「うん。……あ、ごめん濡れちゃったね、Tシャツ」
「ああ……まあいいでしょ」


京治は濡れたTシャツに手をかけ手早くそれを脱いだかと思えば、それを洗濯機に放り込んで今度はベルトを外しにかかる。

カチャカチャ、という音に続きごとりとベルトが床に落ちたのを見て、ようやく今がどんな状況であるかを把握した。


「え、何、本当に入るの?」
「一緒に入ろうって言ったのは名前でしょ」
「……や、そう、だけど」
「何?」
「……別に何も」
「そう。じゃあ先に湯船に入ってて、体冷えるよ。ほら、追いだきボタン押しておいたから」


あれやこれやと背を押され、再び湯船に戻る。服を全部脱ぎ終えた京治は、体をシャワーでさっと流すと私の背を抱くように入ってきて、その腕を私の腹に回すと、ふうと顔の横で息を漏らした。

ひとりで入っていたときにはちょうどよかった水位は、立派な体格の成人男性が増えると途端に受け止めきれず、お湯がこぼれて床のタイルを勢いよく濡らす。

水も滴る何とやらとはこのことだ。水に濡れた京治はどことなく色っぽいように思える。倦怠期?京治は感じているのかもしれないけど、私には無縁の言葉だった。今も昔も、彼はかわいらしくて、かっこいい。

バレー部の副部長だという彼が、部長である木兎に用事があって初めてクラスを訪れたとき、「あれ誰!?めっちゃくちゃかっこいいんだけど!紹介してお願い木兎様!なんか奢るから!」と散々拝み倒したときからずっと、私の気持ちは変わらない。

何となく目をそらしていると、京治にくすくすと笑われた。どうやら私が照れくさそうにしているのに気づいて面白がっているらしい。


「名前さんはいつもぐいぐい来るくせに、たまに俺からいくと途端にかわいい反応しますよね」


耳元で囁かれる、意図的に話される敬語。からかわれている。恥ずかしさやら何やらから自然と顔に熱が集まっていくのを感じ、それから八つ当たりに限りなく近い軽い怒りが溢れ出た。


「笑うなばか!生意気!」
「な、ばかはそっちだ、こんなとこで暴れるな!」


ああもう、心臓の鼓動がうるさい。もしかしたら私はそろそろ死ぬんじゃないだろうか。そうなったら死因は何になるんだろう。

京治は、私がばしゃばさと暴れたことにより目元にかかった水を鬱陶しげに拭っていた。両手で少し温まってきたお湯をすくう。ぬぐい終わったところで、それをばしゃりと顔にかけてやった。ぼたぼたと、少し癖のある前髪から水が滴る。


「名前、」
「よ、水も滴るいい男ー」
「……」
「………あ、ごめん。ごめんなさい京治さま」
「もうだめ、絶対許さない」


腹に回されていた腕に力がこめられ、無防備に晒されていたうなじに強く噛みつかれ、次いで甘やかすように耳をねろりと舐められた。京治は、穏やかそうに、動じなさそうに見えて案外短気だ。

そんな一面を知っているのが、私だけであればいいなと思う。もしこのまま京治にときめきすぎてゆるやかに死んでしまって、浴槽がそのまま棺桶になってしまったとしても、案外それも悪くないなと思った。



生ぬるい棺桶



(20100420→20200802 リメイク)
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