短編 | ナノ



自転車で、坂を駆け下りる。

ビュンビュンと顔に叩きつけるような向かい風が前髪を散らして、後から後からこめかみをつたう汗を冷やした。

スピードを落とすのもほどほどに校門をくぐりぬけ、駐輪場のラックにぶつかるようにブレーキをかけながら飛び下りて、荒い手つきで鍵をかける。

一段飛ばしで階段を駆け上がり、人気のない廊下を走る。面倒だからとかかとを踏んでスリッパ履きした上履きが、一歩踏み出すたびにバタバタとやかましい音をたてた。

目当ての教室に辿りつき、引き戸をがらりと開ける。視界の先、教壇の上には──まだ、担任の姿はない。


「……間に合った!」
「いや、遅刻だけど」


窓際。前の席の男が文庫本を読みながら淡々かつ冷静にそう言うのに構わず椅子を引いてどっかと座り込むと、スクールバッグからタオルを取り出し顔にばさりとかけ、天井を仰いだ。

つかれた。酷使しすぎた太ももの筋肉がひくひくと収縮を起こしていて、もう限界だと訴えている。だらりと足を投げ出して、息を整える。真っ白な薄っぺらい白いカーテンの奥からそよそよと吹きこむ風が心地よい。


「こら、足。閉じなさい」


顔を声の聞こえる方へと向けると、ふぁさりとタオルが顔から滑り落ちていった。汗ばんで束になった前髪がだらりと落ちてくる。

ずいぶんとだらしのない顔と恰好をしているであろう名前とは対照的に、朝練で汗をかいた後だろうに今日も身なりをきっちりと整えた、涼しげな顔をした男。


「おはよう、赤葦」
「おはよう。……いいから、足」
「赤葦ってお母さんみたい」
「俺の娘はそんなはしたないことしない」
「え?赤葦いつ子供産んだの?」
「木兎さんみたいなこと言うのやめてくれる?」
「冗談じゃん、そんな冷たい顔しなくても」


木兎さんの相手は部活の時だけで十分……。ぶつくさぶつくさ。どこか遠くを見ているような空っぽな目をして、赤葦はすっかり自分の世界に入ってしまった。

木兎先輩のことだいすきなくせに、素直じゃないなぁ。……まあ、木兎先輩にめためたに振り回されているのも、事実なんだろうけど。

足を閉じて、年中机の中に突っ込みっぱなしの表面がしわしわのうちわを引っ張りだした。仰いでも仰いでも顔に当たるのはないよりはマシ、程度の生ぬるい風。

暑い、無理。ヒートテックだかヒートアイランドだかなんだか知らないけれど、夏の東京は暑すぎると思う。陽射しが照り返して、肌をじりじりと焼く。

コンクリートジャングルとは上手いこと言ったもんだと高層ビルだらけの外の風景を眺めながら、プチプチとブラウスのボタンをひとつふたつとはずし、うちわで中にばさばさと風を送る。あ、これでちょっとマシ──とふっと和んだところで、手首を、掴まれた。赤葦だ。


「なに?」
「やめなさい」
「でも、暑っついし……」
「はしたないからやめなさい」
「えー」
「……俺だって、男だよ」


ばいこうちゃ。

赤葦がそう呟いて、くるりと背を向けた。制汗剤のさわやかなにおいが鼻をかすめる。ばいこうちゃ?紅茶?お茶?何のこっちゃと首を傾げるものの、言われた意味は頭に入ってこない。

どういう意味よと後ろから赤葦の椅子の座面の底を蹴ってみるが無視され、仕方なくスマホで「ばいこうちゃ」と検索してみる。

くすんだ金色のような、少し緑がかった黄土色というのか、なんとも言えない色が検索画面に表示された。茶みを含んだ淡い萌黄色のことです。歌舞伎役者の初代尾上菊五郎(俳名:梅幸)の好みの色であったとか。……なるほど、わからん。

担任ががらりとドアを開け、悪い、遅れた!と頭を下げながら入ってきた。ホームルームが始まる。号令をかける日直の声に合わせて、スマホを机の中に投げ入れた。







視線の先には、ボールを自在に操る男。手首のあたりだったり、指先だったり。ボールを掴むわけでも投げるわけでもなくその手でほんの一瞬触れるだけで、自分の思うところに綺麗にボールを飛ばす。器用なもんだな、と思った。


「ねぇ、セッターって何するポジションだっけ」
「え?トスあげるんでしょ、スパイカーに」
「赤葦めっちゃバシバシ打ってるね?」
「そりゃ、それだけってわけじゃないでしょ、全国常連の高校のセッターなんだし、なんでもできるんじゃない?」


興味なさそうにそう言う友人の言葉にそんなもんかと納得し、視線を赤葦に戻す。

普段休み時間の間は片手におにぎり、もう一方の手には本という器用なスタイルを過ごしている彼は、大っぴらに他の男子たちとばか騒ぎをするタイプではない。

だけれど、自分よりも頭ひとつ、もしかしたらふたつくらい違うかもしれないくらいに高いすらりとした背、走るのが速かったり、ジャンプ力がすごくあったり反射神経も良かったり、半袖短パンからのぞくしっかりとついた筋肉を見ると、ちゃんとスポーツマンなんだなと思う。

顔だって、周囲の女子に「悪くはないけれどちょっと地味」と称されるように決して華やかな容姿をしているわけではないけれど、ああやって点が決まるたびに無邪気に喜んで笑っている顔は、なんかいいなと思う。──ふと、赤葦がこちらを見た。目が合って、にやりと笑う。


「なに見てんの」


声を出さずに口の形だけで、そう言われた気がした。読唇術なんて持っているわけではないから、実際言われたのは「腹減ったね」とかそんなんかもしれなかったけど。

見てねーですとあからさまにそっぽを向いた私に、赤葦が鼻で笑ったところで終了を告げるホイッスルが鳴った。ネットとボールの片付けをして、だらだらと整列し礼をしたところでチャイムが鳴って、ぞろぞろと男女別に分かれた更衣室へとぐだぐだおしゃべりをしながら入っていく。

汗と、いろんな制汗剤の混じり合ったもわんとした空間は決して快適とは言えなくて、とっとと出たい早く出たいと中に女しかいないことをいいことに、名前は身体を隠そうともせず大っぴらにジャージの下を脱ぐと、スカートを身につけた。


「……ねぇ、赤葦ってさぁ、」
「また赤葦の話?名前、あんたって本当赤葦のこと好きだよね」
「え?なにそれ。……いや、確かになんか最近かっこよく見えたりするしついつい目で追っちゃったりするけど、」
「はいはい、大好きだねー」


そんなんじゃないってば。そう続けようとして、白いTシャツを脱ぐ手が止まる。服をめくろうと交差された腕の下にのぞく、ふたつのやわらかな膨らみを包む、布。

どこか、見覚えのある色だった。


「ああああ!!」
「なに!?名前、うるさい!」
「お嫁に行けない!」
「あんた本当なに言ってんの」


朝机の中に投げ入れたスマホの画面いっぱいに広がった色が、フラッシュバックした。







放課後。真昼の空に月が浮かんでいた。ぎらぎらと照り返す太陽はなりを潜めて、随分と涼しくなった。目の前の男も、一段と涼しい顔をしている。


「赤葦のすけべ」
「え。突然何?言いがかりにも程があるだろ」
「…………梅幸茶」


本日何個めかわからないおにぎりをもしゃもしゃと咀嚼しながら赤葦は小首を傾げて、「……ああ、」と言った。悪びれた様子も、照れる様子もなく、淡々と。


「ていうか今気付いたの」
「体育終わって着替えてた時に気づいた」
「なるほど」
「……見たの」
「心外だな、見せてきたのは苗字だろ」
「そんなつもりじゃ、」
「言っておくけど、谷間までくっきり見えてたよ。ごちそうさま」
「赤葦のばか!変態!むっつり!」


はああ。

赤葦が深く溜め息をついて、カーテンを引っ張る。なんだなんだと思う間に、赤葦は周囲から隠れるようにすっぽりと自分と名前を覆った。薄っぺらいカーテンは幅が短くて、自然と距離が近くなる。


「え、ちょっと、なに、赤葦近い……」
「だから、言っただろ」


じっと、赤葦が名前を見つめる。低い声が、心地いいなと思った。


「俺だって、男だよ」
「……知ってる、よ」


語尾が乱れる。心臓がどぎまぎとしていて、まともに赤葦の顔を見れない。


「そんな反応すると、俺の勘違いじゃないんだなって、都合のいいようにとらえるけど」


自覚した途端にあふれだす自分の下心になんだか後ろめたくなって、つい視線を外すと、赤葦は名前の顎をついとその指先でとらえて、視線を合わせ直した。悪戯っけを含んだ目をした意地の悪い顔が、近づいてくる。

視界の端に、真っ白なジャージの肩にある黒と梅幸茶のラインが見えた。



真昼の月に愛を紡ぐ



(20200725)
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