短編 | ナノ



ただの、同じ高校のクラスメイトだった日向翔陽という存在をきちんと認識したのは、男子バレー部が春高に出場したときだった。

それまでの日向翔陽という人物のイメージは、明るすぎる髪色、いつもなんだか騒がしくて、部活ばかりを優先して学業を疎かにしよく補習受けているひと、それくらいの印象でしかなかった。

1月のその日、私は散らつく雪のなかを歩いていた。肌を突き刺すような、冷たく吹きすさぶ風のなかをPコート一枚で、ぐるぐると幾重にも巻いた長いマフラーに冷たくなった鼻をうずめて。

たまたま。本当にたまたま視界に入った商店街の大きなテレビ画面に、不意に目を奪われた。ディスプレイのなかで自由に駆け回り、高く高く飛ぶ、黒と橙。

膝より少し上のスカートの下からのぞく、薄いストッキングとハイソックスだけを装備した足が寒さで真っ赤になるのもかまわなくなるくらい、私はずっとその画面に釘付けになっていた。バレーボールを楽しむ、日向に。

こんな風に跳べたら、どんなに楽しいだろう。こんな風に走れたら、どんなにいいだろう。こんな風に、何かに夢中になれたら、打ち込めたのなら。

気づけば、ぽろぽろと涙が頬を伝っていた。スポーツの試合を見て泣いたのなんて、初めてのことだった。

それから、何度か試合を観に行ったり、席も隣になったりして、日向とはそれなりに話をするようになった。気づけば3年間、クラスは同じだったけれど、バレーボールにいつまでも夢中の日向と、一歩が踏み出せない臆病者の私には特に進展もなく。

そして、迎えた卒業式。

まだ校舎に残っていた私がふと外に目を向けると、目立つオレンジの髪が校門の方へ向かっていた。バレー部のひとたちとこれから集まるのだろう。

弱虫な私は、彼の背を黙って見送るつもりだった。背中。そういえば、私が見ていたのはいつも彼の背中だけだった気がするなとぼんやり考えた。

振り向かせたい、あの笑顔が見たい。それは、衝動だった。ひんやり冷たいサッシに手をかけて、ガラリと窓を開け放つ。大きく、息を吸い込んだ。


「日向ー!」
「ぅおっ。え!?俺!?どこ!?」


きょろきょろと周りを見渡す日向の目が、3階にいた私をとらえる。


「苗字さん!?」


驚きで、大きく見開かれる目。そうだよね、いきなりこんなことされたらびっくりするよね。だけど、最後だから、ちょっとだけ付き合ってね。


「3年間、ありがとー!これからもがんばれー!」


きょとん。本当にそんな言葉が似合う表情を浮かべたあと一転、ぐっと拳を突き出してにかっと彼は笑う。


「……おー!がんばる!ありがとー!」


日向はきっと、私の想像なんて及ばないような遠くに行ってしまうだろう。

ただのクラスメイトである私にもわかるくらいにとても真っ直ぐなひとだから、自分の目指すところへと、どんどん走り出していってしまうのだろう。振り返ることなどせずに。

もう、きっと会うことはできないんだろうなと思う。次にもし会うことができたとしたら、きっと彼はテレビの画面のなかにいるのだろう。

ちょっぴり淋しいけれど、ああでもそんな未来は楽しみすぎるなぁと想像して笑って、またねと彼に手を振った。







──なんてことがあったのは、もう4年も前のこと。

社会人になったら忙しくなるだろうからその前に、と開かれた高校の同窓会。

みんな、すっかり大人びていた。綺麗に染められた髪はくるくると巻かれていて、爪は鮮やかな色に塗られていて、校則違反にならない程度にこっそりされていたメイクはみんな今じゃ板についていて、ドレス姿をきらきらときれいに飾りつけている。

あの頃コーラやスポーツドリンクを持っていた手にはシャンパンやビールが握られていて、電子タバコをくわえるひともいた。もうすっかり大人になってしまったんだなぁと実感する。……なんて、社会人にもまだなっていない扶養の対象ではあるけれど。

久々に集まった友人たちと談笑をしていると、分厚いドアが勢いよく開け放たれた。息を切らす、オレンジ頭が視界に飛び込んでくる。


「ごめん遅れた!時間間違えた!」
「おー!日向!」
「なんだよ日向〜、主役は遅れて登場ってか?」


彼の姿を捉えた途端、心臓が跳ねた。

本物だ。

ぐんと伸びた背、がっしりとした体格。あの、少年らしい幼さを残した日向の姿はもうない。男の人だ、と思った。スーツ姿がよく似合っていた。


「相変わらず賑やかだね〜、日向」
「……そうだね」


日向はそのまま輪の中心となってしまったから、私は遠巻きに彼を眺めて、仲の良かった子たちとまたおしゃべりを再開する。

彼氏いるの?就職決まった?最近バイト先の店長がさー、なんてぺちゃくちゃぺちゃくちゃ、他愛の無いとりとめもない会話。

ちょっとおしゃれなホテルのホールに私たちはいるはずなのに、なんだかあの頃よく放課後たまり場にしていたファーストフード店にいるみたいで、なんだか懐かしくなる。


「あ、私ちょっとトイレ行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい」


化粧ポーチをたずさえて背を向ける彼女の背を見送って、ふう、とひとつ息をつく。久々に、こんなに喋った。最近はずっと卒論にかかりっきりでパソコンか文献か厳つい顔の教授とにらめっこだったからな。今日はずっと笑いっぱなしで頬の筋肉が痛い。

むにむにと引き攣る頬をつまんでいると、がたりと隣の椅子が引かれた。おかえり、と言おうと顔を上げて、隣に座ったのが予想だにしない人物でフリーズする。


「ひなた、」
「久しぶり、苗字さん。あ、隣座ってよかった?」
「あ、うん。どうぞ」


心臓が、急にうるさくなった。隣に座る日向に聞こえてしまうんじゃないと思うくらいに、耳の奥でどくどくと脈打つ音が聞こえる。

落ち着いて、平常心平常心と自分に言い聞かせる一方で、そんなん無理だよ!と心中で叫ぶ自分がいる。

だって、日向がいる。目の前で、あの太陽みたいなきらきらとした顔で、笑っている。

恥ずかしいやら、会えてまた話ができることが嬉しいやらで、ああもういっそこのゆるみきった顔を両手で隠してしまいたい。──日向のことを見ていたいから、そんなことしないけれど。


「元気にしてた?今何やってんの?あ、この間アドラーズとの試合観にきてくれてたよね?俺ちゃんと苗字さんのこと見つけたよ!」


矢継ぎ早に繰り出される質問に、高校生のときの日向の面影があってほっとした。見た目が大人っぽくなっても、案外中身は変わらないものらしい。

一体何を質問されていたっけと記憶をたどり、緊張して渇いた唇をほんの少しぺろりと舐めて湿らせる。今日のためにと新しく買ったティントリップの、なんとも言えない味がした。ああ、私もさっき一緒に化粧直しに行っておけばよかったと少し後悔する。


「ええと……元気。今は大学4年生で卒論に追われてて、春から市役所で働くことが決まったよ。それから、──試合、観に行った。日向、前からすごかったけど、もっともっとすごくなってたね」
「だろ!」
「ていうか、私のこと見つけたって本当?よく見つけたね」
「苗字さん、絶対来てくれると思ったからさ!探した!」
「……そっかぁ」


カッコよかったよー、なんて軽く言えたら良かったなぁと頬を掻く。大人になったつもりだったんだけれど、そういう経験値はあんまり身につけられなかったなぁ、と思わず苦笑をこぼす。

緊張を誤魔化すように口に含んだカシスオレンジは、ほんのちょっぴり苦い。


「そういえばさー、」
「なに?」
「苗字さん、卒業式終わったあと、3階の窓から外にいた俺に3年間ありがとー!これからもがんばれー!って叫んでくれたことあったよね。あれ、俺すっごく覚えてる」


さっき含んだばかりのカシオレを噴き出しかけて、噎せた。


「ちょっと待って、忘れて、今すぐ……!」
「え?なんで?やだよ」
「なんでひとの黒歴史を一言一句覚えてるの!?」
「ええ!?黒歴史なの!?」
「……黒歴史っていうか。自分のキャラじゃないことを、最後の最後でやっちゃったなあって」
「あー、うん。苗字さんっておとなしいイメージがあったから、ああやって大きな声出すの、すっげー意外だった」


でも、と日向は続ける。


「なんか……あの時の苗字さんの笑顔が、忘れらんなくって。リオに行ってしんどいなって思ったときに、がんばれって言ってくれたの思い出してさ、がんばろうって思えたんだよね。すっげーうれしかったんだよ、俺」


言葉に詰まる私の両手を、日向が手に取った。少し高い体温。じっと彼の目が、私の視線を絡め取って、目が離せない。


「だから、今日、会えて良かった」


あの頃と変わらない顔で、笑う。


「ずっとずっと俺のこと応援してくれてありがとう、って言いたかったんだ」


ずるい。

なにそれ、ずるい。

つんと喉の奥から何かが込み上げてきて、じんわりと視界が滲んだ。ぽたぽたと落ちていく雫に、サーッと日向の顔が青ざめていく。握られた手をそのままに、祈るみたいに額に押し付ける。

なんだそれ、ほんと、ずるい。うれしい。ちゃんと、届いてた。届いてたんだ。


「……ひなた、」
「ちょっと待って、今ハンカチ探してるから!あああ、ごめんだめだ、ぐっしゃぐしゃ……!」
「あのね、日向、ありがとう。本当に、ありがとう」
「え!?俺、なんにもしてないよ!?むしろなんかよくわからないけど泣かせてしまって大変申し訳ない所存ですというか、」


そんなことないよと小さく呟いて、ふるふると首を横に振る。


「真っ直ぐに進んでいく日向を見てるとね、どんなにくよくよしてても、落ち込んだりしてても、もうちょっと頑張ろうかなって思うんだよ。日向はなんにもしてないつもりだったかもしれなかったけど、私は日向のそんな姿にいっぱいいっぱい助けてもらったの。高校生の頃からずっとずっと、日向の太陽みたいな笑顔を見るたびに私もがんばろうって思ってたんだよ」
「……そう、なの?」
「そうなの」
「…………そっ、かぁー」


日向は、私から視線をはずして頬を指で掻いた。照れているのかもしれない。そんな様子に思わず笑みがこぼれた。ごしごしとおろしたてのドレスの袖で涙でぐちゃぐちゃの顔をぬぐって、顔を上げて笑う。


「だから、ありがとう、日向」


きっとこれからも、日向は変わらず前を、上を向いて進んでいくのだろう。バレーは常に上を向くスポーツなんだと、コーチの受け売りのその言葉を誇らしげに話していた日向のことを思い出す。

私も。私も、もう日向の背中を見送るだけの私ではない。きちんと日向の顔を見て、悠然と背筋を伸ばして、笑って、伝えたいことを伝えられる。


「これからも、ずっとずっと応援してるから。試合も観に行くね」


そう言うと、日向はちょっと眉を下げて複雑そうな顔をして、言いにくそうにあーだの、うーだのと頭を抱えて唸った。え。もしかして、何か気に障ることを言ってしまっただろうかと不安が勢いよく脳内を駆けめぐっていく私にかまわず、ひとしきり呻いた日向はやがてなにかを決意したようにパッと顔を上げて、「あの、それなんだけどさ、」と切り出した。


「あのー……なんていうか、そのー……今度はもうちょっと、近いところで応援してほしい……です、なんて……」


できれば、俺の隣とか。

顔を真っ赤にしながら日向が、小さくそう付け足した。俺の、隣。言われたその言葉のニュアンスがわからないほど、私はもう幼くなれなくて、戸惑う。顔がだんだんと火照ってきた気がするのは、決してぐるぐると回ってきたアルコールのせいではないと、よく理解をしている。

本当に、今日は夢みたいだ。日向に会えて、話せて、泣いて笑って、こんなにも嬉しい言葉をもらって。幸せすぎて不安になるっていう言葉は、きっとこんな時に使うのだろうと思った。

いいの?

蚊の泣きそうなほどの小さなぐずぐずの声でそう聞くと、バッと日向がこちらに勢いよく顔を向ける。それから、とてもとても嬉しそうに、でもほんのちょっと照れくさそうにはにかんだ笑みを浮かべた。



最果ての未来へ



(20200720)
ありがとう、ハイキュー。出会えてとっても幸せでした。たくさん元気をもらって、たくさん感動して、たくさん泣いて。とっても救われました。本当にありがとう、日向。
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