※ちょっとだけホラー
夢のなかにいた。
ふわふわとした意識のなか、謙也はただそれを認識した。なんてことはない、いつも流行りの歌を口ずさみながら自転車を走らせている、見慣れた通学路にただ自分がひとりぽつんと立っているという夢だった。学ランを着て、肩にはラケットバッグだってかかっている。謙也はどこに向かうでもなく様子を伺うようにゆっくりと歩き出す。
いつもであれば時間を気にしながらせかせかと歩くサラリーマンやOL、スマホを弄りながらだるそうに歩く学生、友達と競い合うようにパタパタと駆けていく小学生で賑わうその道。
そこが自分以外には誰もいないことに加えて、遠目に見える炎が燃えているみたいな真っ赤な夕焼けが不安を誘う。電線に止まっているカラスがやたら多くて気持ちが悪いなと思った。びっしりと線を埋め尽くすように並んでいる。
アホー、なんて鳴いてくれたらどんなにか和むことだろうか。残念ながらこれだけの数がいるのに、その様子はない。大勢のカラスがただ静かに、謙也を見下ろしている。それがまた不気味だった。
いやいや、と謙也はひとり首を横に振った。夢のなかなのだから、何が起きようが不思議なことではないし、なにか嫌な夢だと感じたのならば無理矢理にでもまぶたを開けて起きればいいだけの話だ。
そう。夢なのだから。
それだけで、いいはずなのだ。なのに。
(あかんあかんあかんあかんってほんま、あかんやろこれはないわーマジないわー)
閉じ込められた。どうしてそう思ったのかはわからない。勘。自分のそれがよく当たる方だとは正直とても思わないが、今回に限ってはこの勘は正しいと間違いなく確信でき、そしてこの事態は非常にまずいと脳内で警鐘がガンガンと鳴っている。歩む足がだんだんと早くなり、ついには嫌な胸騒ぎに耐えられず謙也は駆け出した。
どうしたらここを抜け出せるのかだなんて、わからない。ただ、この場にずっといてはいけないというのはなんとなくわかった。逃げろと、アレに捕まってはいけないと脳内の警鐘は更に激しさを増す。そこで、ふと気づく。
(………“アレ”って、何や?)
足音が、ふたつ。突然、自分のものの他にもうひとつ後ろから聞こえてきた。パタパタと軽いその足音は、自分の自慢の脚で精一杯走っているというのに、ぴったりと一定の距離をおいて追いついてくる。
(あーもうなんやねん!堪忍してや!)
振り返ったらあかん。声を出してもあかん。息が切れそうになるがそれを吐き出すのをぐっとこらえた。肩からずり落ちたラケットバッグをそのまま投げ出す。走れ。転ぶな。もっともっと速くと急く心がグッと足に力を入れる。絶対に捕まるな。
……と、自分に言い聞かせた矢先に。
綺麗につまづいて、すっ転んだ。
「〜〜痛っ!……くそ!俺のアホ!ドアホ!」
おまけに、声も出してしまった。
足音は止まっていた。ひたひたと、さっきまでの勢いはどうしたのかと思うくらいにゆっくりとそれは謙也に近づく。見てはいけないと、ぎゅっと目をつぶる。起きろ。夢だ。これは、夢なんだからさっさと起きてしまえ。
ふっと、影が落ちたのを感じた。見てはいけないとわかっていても、薄目を開け思わず顔を上げずにはいられなかった。
“それ”は、三日月みたいににんまりと笑って、鋭い牙の並ぶ大口を開けていた。
「誰、か、助け、」
がこんっ。
「……え」
“それ”の口に、金属バットがハマっている。噛み砕こうと閉まる口、みしりみしりといびつな音を立てながら易々と曲がっていく金属バット。自分があれに噛みつかれていたらと一瞬想像して、ぞっとした。“それ”と目が合う。次はお前だと笑っている。
チリン。
軽やかな、鈴の音。それが聞こえたと同時、折れかけたバットを喉の奥へと押し込むように、数珠のついた華奢な拳が、ガッ──と叩き込まれた。
さらりと長い黒髪が揺れる。真っ赤なリボンスカーフが、紺のセーラー服の上ではためいてた。横顔だけがちらと見えたその少女は、口角を上げゆるりと目を細め。
『去ね』
白く光が満ちて、それから。
───
「謙也!おまっ平気か!?」
「……白石?あれ?俺……」
「寝とったと思ったらいきなり真っ青な顔して椅子から落ちたから肝冷やしたっちゅーねん……。はー。ほんっまビビったわあ」
「……夢?いや、夢やった、けど。あれ。なんで俺、」
真昼の教室。横向きになったクラスメイトがザワついていた。冷たく硬い床の感触と、ずきずきと痛む頭と肩にああ自分は倒れたのかと理解する。心配そうな目から好奇の目、何があったのかと訝る目、様々な視線が自分に集まっていた。のそりと起き上がる。ぶつけたからなのか寝起きだからなのか、頭がボーッとしていた。
目の前に、渡邊がしゃがみこんでいた。チューリップハットの下からのぞく右目が、じいっと様子を伺うように謙也を見ている。
「大丈夫か?」
「あ、はい。平気です」
「そーかぁ。ほな居眠りっちゅーことであとで反省文なー」
「え」
鬼か!教科書をひらひらさせながらすたこらさっさと教卓へ戻っていく渡邊に謙也は心の中でそう叫ぶ。
「いたたたたっ。やっぱ頭が……」
「へったくそな演技始めたところ悪いけどな、押さえとるそこ、頭やなくて腹やで、謙也」
「白石うっさい」
二人のやりとりに、どっとクラスメイトが笑い声をあげる。誤魔化すように同じように笑い声を上げながら、謙也はワイシャツの中に着ていたTシャツの背中が冷や汗でびっしょりと濡れているのを嫌でも感じた。あれは、夢だった。
悪い夢だった。はずだ。
なのに。
「おっちゃん、苺とバナナ包んでぇ。あ、バニラアイスおまけして?」
「あかん、今日という今日はそのかわいらしい顔に誘惑されへんでお嬢」
「……………」
悪夢が、眼前に立っていた。
(……いやいや。助けてくれた恩人に対して悪夢て、それは失礼やろ俺。)
さすがにあんな夢を見た後いつもの道を通る気にはなれず、遠回りしたところ。住宅街にあるクレープ屋の屋台の前に彼女はいた。
忘れもしない艶やかな黒髪、紺のセーラーに赤いリボン、そして手首につけられた鈴のついた数珠に涼やかな目元。ジロジロと不躾に見過ぎたからか、視線に気づいた彼女がすっとこちらを見る。
「そこのひよこのおにーさん、ここのクレープは見ての通り閑古鳥鳴いとる、つまりイマイチやで」
「えええ!いっつも買いに来てくれるやんお嬢!」
「このイマイチさが癖になんねん」
「毎回おまけしとるのにその言い草!」
綺麗に包まれたクレープをぱくりと一口。うん、ビミョーと笑顔で吐かれる毒舌に店主が抗議の声を上げた。……様子を見るに自分のことは覚えていない、のだろうか。そもそも覚えていたとしても、それを確認して自分はどうするつもりだったのか。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「あの、」
「ん?」
「あのっ……あの……なんちゅーか……いきなりこんなこと言われても困るやろうけど……」
「ナンパならお断りやで」
「いえ、違います」
思わず標準語が出た。えらい綺麗にフラれたなぁお嬢、と店主がげらげら笑うのに彼女はやかまし!と怒鳴り返して、膨れっ面。八つ当たりと言わんばかりに機嫌悪そうな顔で人差し指をビシィッと向けられた。
「君のせいでゴリラに怒られたわ」
「え?ゴリラ?」
「ああ、あのいかつい顔したゴリ先生なぁ。でもそれはお嬢が居眠りしとったから悪いんやろ」
「お昼食べたあとに古典なんてやるもんやない。大体あのナリで古典教師っておかしいわ、毎日ジャージやであのゴリラ」
「えーっと……?」
訳の分からないまま会話が進められていく。困惑する俺に、彼女は面倒くさそうに目を細める。
「君は嫌な夢を見とった。そんだけや」
「俺の夢に君がおった理由は?」
「そんなこともあるやろ」
「いや、ないやろ」
「ほな君が悪霊ホイホイで、うちはほんのちょっと霊感があるだけやでーって言ったら、んなアホみたいなこと君は信じるんか?」
「……あ、悪霊、ホイホイ?」
そ。言いつつ、パン!と軽く肩を叩かれると同時に、なんとなく重たかった肩が急に軽くなった。
「君のその常日頃なんかだるいなーっちゅーのは肩凝りとか疲れとるとか、そんなんやないよ。悪霊の仕業や」
真剣な目。ごくりと生唾を飲む。ふと、子供の頃に見た白すぎる足を思い出した。侑士には、それが見えなかった。思えば、医者の家ということもあってか小さな頃からなんとなくそういう心当たりがないでもなかったような──
「……なーんちゃって」
「え」
思考を遮られる。にやりと笑う彼女は、イタズラが成功したみたいな、なんとも悪どい顔をしていた。
「からかいがいあるなぁ君、友達とかに言われん?」
「な、なんやねん!」
けらけらと大げさに腹をかかえて笑う彼女に急に腹が立つ。悪夢や。やっぱりこの女は悪夢で間違いなかった。人が真剣に悩んだんに。店主があーあ、という目で彼女と俺を見ている。テニスバッグを肩にかけ直して、背を向けすたすたと歩き始めた。笑い声は止まらない。
ふと、足を止める。
「おい!」
「んー?」
「助けてくれてどうもおおきにな!」
「……なんのことやら」
ひらりひらりと、名も知らぬ彼女は手を振った。
(20190713)