執行官隔離区画──執行官宿舎、103。
その部屋の、インターホンが鳴った。
「おい!出てけっつったろ!」
佐々山光留は酒瓶を振りかぶり、ドア目掛けて思い切り投げつける。ガシャンとなにかが割れた音がした。
「……あ?」
その、狡噛にしては高く、普段のその声の持ち主にしてはえらく低いドスの効いた声に、佐々山が訪問者を早とちりしたと気づいた時には、すでに瓶は割れていた。割れた破片が、床に散らばっている。
かわそうとしたのだが、両手に持っていた荷物のこともあり間に合わなかったのだろう、自身を守るために彼女は咄嗟に顔だけ背けたらしい。その、伏せられていた顔が、ゆっくりと佐々山に向けられる。
──めっちゃくちゃ、キレてらぁ。ひくりと佐々山の頬が引きつった。
「……わり、間違った」
「は?なに?間違えた?」
「狡噛がさっきまで来ててよ。それで、そのー……まあ、なんだ。許せ」
そのお美しいお顔に怪我はなかった?へらりと笑って誤魔化そうとするが、女の表情が柔らかくなることはない。むしろ、眉をつり上げ佐々山をその開ききった瞳孔で睨みつけている。
「監視官に瓶を投げつけようとしたの?」
「しつけーなと思って、つい」
「つい、ですむ話じゃないわよ。下手すりゃ即処分──狡噛くんはやらないか」
納得はしていないようだが、これ以上追及する気もないらしい。女──夜鳥郁監視官──はひとつため息をついて、佐々山の転がっているソファーの横に、抱えていた小さな段ボールを降ろした。それから小さな声でただ一言、終わったわよ、と。その横顔は長い前髪に隠されていて、彼女の表情は伺えなかった。
「……悪かったな」
「ううん」
「遅かったな」
「そっちは霜村さんのお小言のせい」
悪かった、と佐々山はもう一度呟いて、郁が持ってきた段ボールの中身を覗いた。
遺書。
か細い文字で書かれたそれが一番に目に入り、佐々山は思わず目を逸らした。そこに書かれている内容は、知っている。
妹の、マリが死んだ。
その知らせをメールで寄越したのは郁だった。自分一人では葬式に行くこともできない執行官という立場である佐々山に外出許可を取ろうか、と提案までしてくれたが断った。ただ、自分の代わりに葬式に行ってくれないかとだけ頼み、郁からはわかったと、その一言だけ返事が来た。
今月頭におこった衆院議員殺害事件が広域重要指定事件になり、今朝第二の被害者として身元不明の少女が発見されたばかりだ。三係総員での捜査会議もあったなか、今日という休みをもぎ取るために、郁が上司である霜村に昨日・今日とどれほど嫌味と小言をもらったかは想像に難くない。
おそらくそれを埋めるために徹夜で捜査をしてから葬儀へ向かったのだろう。赤く充血した目をこすっている郁には申し訳ないが、佐々山は箱の中をろくに見ることもできず、捨ててくれと吐き捨てるように頼んだ。
「彼女の部屋、とても綺麗だったわ」
会話が噛み合わない。目をこすりながら郁は続ける。佐々山の顔は、見ない。
「部屋には段ボールがひとつだけ。これ以外は洋服も、身の回りの生活用品も、冷蔵庫の中身も、何もかもなかった」
「そうか」
「自殺をすると決めた彼女がどうしても捨てられなかったものよ。あなたに遺したもの。だから、私はやらない。捨てたきゃ自分でやりなさい」
それができたら、狡噛が来る前に慌ててソファーの隙間に大量の写真を隠すことなどなかっただろう。捜査会議にもきちんと参加していたはずだ。
「……わかったよ」
この女は、きっとそんな自分の状況を知った上で言うのだろう。そういう、女だ。佐々山が折れるしかない。いつ、それができるかはわからないが。郁が帰ったら、ソファー下に隠した写真はとりあえずこの箱の中へ放り込もうと佐々山は決める。
「今日、ここで寝ていい?」
「おー」
郁が、真っ黒なジャケットを脱ぐのをぼんやりと眺めながら、生返事を返す。
ふわりと、線香の移り香が佐々山の鼻をかすめた。帰らないのか。それはいい。酒はさすがに飲みすぎたから、他に気を紛らわせることができるのは都合がいい。
▽
「佐々山くん、髪湿ってる」
佐々山のスウェットに身をくるんだ郁がシャワールームから出てくるのを見て、佐々山はソファーからベッドへと移動した。ベッドの隣にもぐりこんでくる郁からは、佐々山がいつも頭も身体も一緒くたに洗っている石鹸とは違う匂いがする。自分で持ち込んだらしい。
……最初から泊まるつもりだったのかと、佐々山は思わず煙草をくわえた唇の端を上げた。わざわざそれを指摘するような野暮なマネはしないが。
郁がいつまでも返答せずにやにやしている佐々山に怪訝な顔を向けたので、佐々山はさっと顔を引き締めた。
「さっき洗った」
「ちゃんと拭きなさいよ。……確かに何とかは風邪をひかないとは言うけれど」
「うるせーなぁ」
ほんのすこし湿る佐々山の髪に触れていたその手首を掴んで、覆いかぶさるように身体を起こして、小言をつむぐ唇を塞ぐ。脱がしてくれと言わんばかりの簡単な作りのスウェットに手をかけ、彼女の白く柔い肌に乱暴に触れ、舌を這わせた。
大切なものは、自分の手元には置かない。
それが、佐々山光留の流儀だ。
幼児期に買ってもらったが羽根を折ってしまった飛行機のおもちゃしかり、触りすぎてストレスで死なせてしまった子猫しかり、──妹のマリも。
佐々山と郁は、別に恋人同士ではない。監視官と執行官という立場こそ違えど、同時期に入局したただの仲の良い同僚だ。この行為で、それさえも壊してしまうのではないか──失ってしまうのではないか。躊躇する自分の揺らいだ表情が、郁の瞳に映った。
「光留、」
やわらかな声で、名前を呼ばれた。
大丈夫だから、おいでとそっと頬に手を添えられて、ためらうそこを誘導するように、彼女のそこに宛てがわれる。
以前に彼女に名前を呼ばれたときを思い出す。あの時は、ミツルと呼ばれたものの、自分ではない男の名前だった。──だが、今日は佐々山のことを呼んでいるのだと、郁の微笑みが語っている。その顔にひどく安心して、佐々山はぐっと腰を進め圧し潰すように覆いかぶさった。
生温かい感触に、息を吐く。赤ん坊をあやすみたいに、ゆっくりと頭を撫でられた。その手をとって、どこかに離れて行ってしまうのを恐れる子供のようにしっかりと指先を絡めて、噛み付くようにキスをする。
ただ、ひたすら。足りないものを埋めるように、どこにも行かないよう確かめるように、何度も何度も抱き合った。
(20200714)