あまねく実る初恋に

"別れよう"

たったひと言。絵文字も、なんなら句点のひとつすらもない無機質な四文字がメッセージアプリに届いたのは、つい十分ほど前のことだった。目に痛いネオンが光る繁華街から一本外れた、小洒落たバーやレストランが立ち並ぶ通り。その片隅で呆然と立ち竦む私は、この風景にはひどくそぐわないんだろう。
彼氏――正しくは"元彼"だけれど――とはもう一年の付き合いだった。その正に一年を祝う記念日当日に、私は振られたらしい。一時間の待ちぼうけの後にこんな仕打ちはあんまりだ。

――記念日は、少し贅沢をしようか。

そんな言葉を鵜呑みにしておろしたレース素材のワンピースとピンヒールパンプスも、何の役にも立たず無駄になってしまった。こんなにお洒落するんじゃなかった。恥ずかしいし、なんだか馬鹿みたい。
漠然とだけれど、彼とはこのまま結婚するんだと思っていた。なにも胸がときめくような出逢いでもなければ、身を焦がすような恋愛だったわけでもない。言ってしまえば、可もなく不可もなくの付き合いだったけれど、特段の不満はなくそれなりに安定はしていたと思う。私自身あと三年もすれば三十路という年齢もあって、きっとこのままこの人と結婚するんだろうな、なんて、そんな風に思い込んでいたのに。

「…やっぱり、あんまりだよ」

ぽつりと零れた小さな呟きは、繁華街の大通りほどではない雑音に呑まれて消えた。
けれどあんまりなのは、きっと私も一緒だ。約束していた記念日当日、一時間も音沙汰なく待たされた挙句に、一方的に突き付けられた別れ。それなのに涙のひとつも出なければ、大してショックも受けていないのだから。仮にも一年という月日を恋人として過ごしておきながら、あるのは先行きが見えない不安だけだなんて、私はなんて薄情なんだろう。
見上げた先で目に付いた、僅かに色褪せたバーの看板。なんだかこのまま帰る気にはなれなくて、吸い寄せられるようにふらりと足を踏み出した瞬間、誰かが私の手首を掴んだ。

「お姉さん、ひとり?」
「…は、い?」
「ずっとそこでぼーっとしてたよねぇ。暇なら飲みに行こうよ、良い店知ってるからさ」

呼気に含まれる噎せ返るようなアルコールの匂いと、掴まれた手首に伝わる高い体温。明らかに深酒しているだろう赤い顔の男性が、にやにやと笑みを浮かべながら距離を詰めてきた。咄嗟に一歩後ずさるけれど、すぐに背中が壁を擦り逃げ場を失ってしまう。

「は、離して下さい、急いでるので…!」
「えぇ?つれないこと言わないでよ。奢るから、ね?」
「やだっ、はなして…っ!」

それなりに人の往来があるのに、面倒事に巻き込まれたくないのか、はたまた無関心なのか、通行人は見て見ぬふりで誰ひとりとして助けてくれない。酔っ払いといえど強く掴まれた手首は振り解けないし、その上膝頭を割り込ませるように身体を近付けてくる男性に、咄嗟に顔を逸らしてぎゅうと目を瞑った瞬間のことだった。

「俺の連れになんか用かァ」

鼓膜を撫ぜた怒りを孕んだような低い声は、聞き覚えなんてないはずなのに、何故だかひどく懐かしかった。掴まれていた手首も漸く解放され、それと同時に男性の痛々しい悲鳴が辺りに木霊する。閉じていた瞼をそっと上げて飛び込んできた光景に、私は口をあんぐりと開けて固まってしまった。

「…っえ、」

店先のライトや街頭に照らされて幾色にも輝く白銀の髪と、右頬から鼻筋を横断する大きな傷痕。鋭い三白眼は男性を睨めつけているし、軽々と手首を捻り上げる腕はがっしりと逞しい。
そこにいたのは、昔の面影が残りつつも驚くほど端正な顔つきに成長した元同級生、実弥くんだった。

「実弥、くん…?」
「ん、待たせたなァ。んで、こいつにまだ用でもあんのか、あァ?」

待たせたも何も実弥くんとは約束なんてしていないのだけど、どうやら助けてくれる心積りらしい彼は、眼前の男性に向けてうんとドスの効いた声を放った。ともすれば人でも殺めそうなくらいの鋭い眼光を浴びた男性は、声にならない悲鳴を上げてぶんぶんと首を振ると、赤く鬱血した手首を撫で擦りながら一目散に通りの向こうへと逃げ消えた。

「ったく治安悪ィなァ…。大丈夫だったかァ?名前」

心底呆れたような溜め息を吐き出しながら、私へと向き直った実弥くんが片眉を上げて尋ねる。思わずこくりと頷いてしまったけれど、およそ十数年ぶりに会ったとは思えないくらい自然に紡がれた名前に、心臓が僅かに大きく脈打った。じわじわと胸の中に広がっていく、淡く懐かしい追憶。それが確かな輪郭を縁取る前に、私はワンピースの生地をきゅうっと握り締めた。
「そうか」と安堵したように呟いた実弥くんの、妙に開けられた胸元は直視しないように、その端正な顔を見上げる。ヒールを履いて漸く目線が実弥くんの口元辺りだから、素足だと頭ひとつ分は優に違うだろう身長差。昔はそこまで変わらなかったのに、いつの間にこんなに身長が伸びたんだろう。なんだかまるで、知らない人みたい。

「実弥くん、その、助けてくれてありがと…。仕事帰り?」
「まあなァ。ついでに見回りだ」
「見回り、って?」
「クソガキどもが非行に走ってねえか、なァ」
「え、それって、」
「兎に角こんなとこで喋っててもしゃあねーだろォ。続きは送りがてらな。家はァ」

歩き出した実弥くんが、首だけで振り返って問う。私は未だその場に立ち止まったまま、握り込んだ掌に再びきゅうっと力を込めた。確かに実弥くんの言う通り、こんな通りの往来で立ち話するのもおかしい。けれど、実弥くんに送って貰うのはもっとおかしな話だと思う。それに、今はまだ。

「……実弥くんは、もう帰るだけ…?」
「あ?おまえを送り届けたらなァ」
「じゃあ――、」

――奢るから、一杯だけ付き合ってくれないかな。

握り締めたままだったワンピースは、レース生地がくしゃりと歪に皺を寄せていた。


***


「実弥くんが先生…」
「ンだよ、似合わねえとか思ってんだろォ」
「うん、ちょっとだけ」
「は、余計な世話だわァ」

ロックグラスを手にした実弥くんが、私の軽口を鼻で笑いながら、こなれた手つきでグラスを回す。アイスボールがグラスに当たる音が店内に流れるゆったりとしたジャズに混じって、耳に心地良い。
年季が入ったバーの店内には、金曜の夜だと言うのに私たち以外の客はいない。僅か五席だけのカウンターの隅で、実弥くんは長い足を弄ぶように組んで、ちらりと私を見遣った。

「お前はァ?」
「うん?ふつうの事務職だけど」
「普通じゃねえ事務ってなんだよ」
「え、えーっと……なんだろ?」
「っふ…、変わってねえなァ」

くつくつと喉奥で笑う実弥くんに思わず見蕩れてしまって、慌てて手にしたカクテルグラスに口をつけてぐいと傾ける。動揺を悟られまいと「それって褒めてる…?」なんて可愛げの無い言葉が零れてしまったけれど、実弥くんは「さあなァ」と意地悪く笑うだけだった。
嫌にどきどきと高鳴る胸に、もう知らない振りも出来そうにない。ついさっき振られたばかりでどうかとは思うけれど、でもやっぱり、こうして実弥くんが隣にいるだけで懐かしい記憶が蘇ってきてしまうのだ。小学校から中学卒業まで彼にひっそりと抱いていた、淡い初恋の記憶が。

「実弥くんは…、変わったよね」
「あァ?どこがァ」
「身長もびっくりするくらい大きくなってるし、筋肉すごいし、」
「おい、ガキん時と比べてんじゃねェ」
「いつの間にか先生になってるし、すっごく格好良くなってるし」
「、……んとに変わってねえなァ…」

ぼそりと呟かれた言葉は、店内に流れるジャズに掻き消されて、私の耳には届かなかった。きょとんと実弥くんを見れば、困ったように下がる眉尻に反して僅かに上がる口角。ついグラスを煽る左手の薬指を見てしまって、そこに光るものがないことにほっとしたのは束の間、慌てて視線を自分の手元に落とした。指輪の有無をチェックしてしまうなんて最低だ。それに先生なんだから、仕事の日は外してる可能性だって大いにあるんだし。

「で?」
「…え?」

カウンターに落とした視線の端に、実弥くんの節くれだった長い指が映る。その指先がとん、とカウンターを叩くから再び顔を上げれば、頬杖をついた実弥くんが真っ直ぐに私を見つめていた。

「ひとりでふらふらしてた理由はァ」
「……言わなきゃだめ?」
「場合によっちゃァ、"生徒指導"しねえとだからなァ?」
「生徒指導って…。ふふっ、"実弥先生"、こわーい」
「おら、さっさと吐けェ」
「えぇ…、もう脅迫…」

軽口を叩き合いながら、さてどう答えたものかと思案する。実弥くんにありのままを伝えるのは、どうにも情けないというか、恥ずかしいというか。けれど事実実弥くんには迷惑をかけてしまったし、こうして付き合わせているのだって私の我儘なのだから、適当にはぐらかすのも憚られる。
ええい、ままよ。そんな気分で重い口を割れば、実弥くんは終始真剣な面持ちで、私の取り留めもない話に耳を傾けてくれたのだった。


「――っていう、お恥ずかしい話、なんだよね…」
「…なるほどなァ」

件の一部始終を掻い摘んで話し終えると、ちらりと伺った実弥くんの横顔は何を考えているのか読み取れない表情だった。つまらない話を聞かせてしまった罪悪感を覚えつつ、互いのグラスの中身がもう少ないことに気付いてクラッチバッグから財布を取り出す。

「えっと…、変な話聞かせてごめんね。でも実弥くんに久しぶりに会えて良かった。仕事終わりなのに付き合ってくれてありがとう。そろそろ帰るから、これ…、っへ?」

財布から取り出した諭吉を一枚、カウンターに置こうと伸ばした手首をぱしりと掴まれる。アルコールが入ったからか、それとも元から体温が高いのか、ごつごつとした大きな手はひどく温かい。酔っ払いに掴まれた時は嫌悪感しかなかったのに、嫌悪感どころかどぎまぎと胸が騒ぐのは、……実弥くんだから?

「いらねェ、仕舞っとけ」
「え、それは困る!だって私が付き合わせたんだし、奢るって約束だったから、」
「にしても多すぎんだろォが」
「タクシー代だと思ってくれれば、」
「いらねえって」

まるで押し問答を繰り返していれば、実弥くんが突然ぱっと手を離して、ジレベストの胸ポケットから取り出した紙をカウンターに置いた。

「付き合わせたなんだっつーんなら、来週末付き合ってくれりゃァ相子だろォ」
「…これって…、」

それは水族館の優待チケットで、見覚えのありすぎる名前に目を見開く。何を隠そうその場所は、元彼のお気に入りのデートスポットだったのだから。そういえば最近は行っていなかったけれど、来週リニューアルオープンするのだと、皮肉なことにそれも元彼から聞いていた。

「同僚から押し付けられたもんだけどなァ。捨てんのも勿体ねえから、空いてんなら付き合え」

リニューアルオープン前に先行入場ができるらしいそのチケットは、実弥くんが言う通り確かに貴重だし捨てるのは勿体ないと思う。けれど元彼に対してそこまで未練が無いとは言え、やっぱりそれなりに思い出はある場所だから、あんなことがあった直後であまり気乗りはしない。それに実弥くんだって、誘う相手が私なんかで本当にいいんだろうか。彼女とか、好きな相手とか、そういう人を誘うべきなんじゃないのかな。
ぐるぐると考え込んでいれば、実弥くんはそれをどう受け取ったのか、乱雑に頭を掻いて些かぶっきらぼうに続ける。

「あー…、無理にとは言わねェ。どっちにしろ金はいらねえけどなァ」
「…えっと…、実弥くんは、私でいいの?」
「あァ?じゃなきゃ誘わねえだろォが」

何を今更とばかりにあっけらかんと即答され、二の句が継げずぽかんと呆けてしまう。実弥くんって、昔からこんな感じだったかな。頭の中の記憶を引っ張り出してみるけれど、中学卒業で進路を違えてからの十数年を思えば、考え方も身の振り方も変わっていたってなんらおかしいことはないかと思い直す。でも他意はないと分かっていても、直球な言葉にどぎまぎして、ちょっとだけ期待してしまう私は、実弥くんの言う通り"変わっていない"のかもしれない。
気が付けば元彼との思い出がどうだとか、そんなことはどうだってよくなっていて、寧ろ綺麗さっぱり忘れ去るには絶好の機会のようにも思えた私は、こくりと首を縦に振っていた。

「……行く」
「…おー。なら来週の土曜、なァ」

ほんの少し柔らかく笑った実弥くんが、私の頭にぽんと手を置く。その瞬間また心臓がどきりと大きく跳ねたけれど、実弥くんには弟や妹が沢山いることを思い出して、それはあくまでも癖のようなものなのだと言い聞かせて視線を逸らした。顔に熱が集まるのも、きっとアルコールのせい。

「名前」
「…へっ、?」
「何してんだァ、帰るんだろ」
「あ、うん…?まって、お会計、」
「とっくに済んでるってのォ」
「えっ?」

ご馳走様、とマスターに一言告げて颯爽と店を出て行ってしまう実弥くんを慌てて追いかけながら、騒ぐ胸はやっぱり暫く落ち着いてくれそうになかった。
結局タクシーを拾った実弥くんが私を家まで送り届けてくれて、そのタクシー代すら払わせてもらえず、挙句土曜日に家まで迎えに来ると言い残した実弥くんは、そのまま有無を言わさずタクシーで帰ってしまった。

「そういうところ、ほんとずるいよ…」

タクシーのテールランプが曲がり角に消えていくのをぼうっと見つめて吐いた独り言は、静かな住宅街に吸い込まれて程なくして消えた。


***


――着いた。

飾り気のない一言のメッセージが届いて急いでマンションを飛び出れば、脇に止められた一台のSUVから片手をあげて見せる実弥くん。視線で促されるままに助手席を開けて、お邪魔しますと小さく声を掛けながらぎこちなくシートに座ると、ふっと空気を揺らして実弥くんが笑った。

「借りてきた猫かよォ」
「だってなんか、緊張する…」
「ンだそれ、可愛いなァ」
「か、わ……?」
「おい、シートベルトしろォ」
「あっ、う、うん」

空耳だったのかと思ってしまうほどさらりと言われた言葉に耳を疑う暇もなく、実弥くんに促されシートベルトをつけ終えるとすぐに車は走り出した。
さっき、可愛いって言った?いやまさか、やっぱり空耳だよね。実弥くんが私に可愛いだなんて、そんなこと言うはずがないし…。そんなことをうだうだと考えていれば、目の前に差し出されたのは某有名コーヒーチェーン店のキャラメルマキアート。

「え、これ…?」
「これ好きだっただろォ」
「好き、だけど…。えっ?来る前にわざわざ買ってきてくれたの!?」
「わざわざっつーほどでもねえけどなァ。いらねえならやらねェ」
「い、いるっ…!嬉しい、ありがとう、実弥くん」
「っふ、コーヒーひとつで大袈裟だわ」

くつくつと笑う実弥くんが、陽の光のせいかやけに眩しく見える。コーヒーひとつでなんて言うけれど、わざわざこうして買ってきてくれたことや、なにより好きだったものを覚えていてくれたことが嬉しくて仕方ない。前を見る横顔も、シフトレバーに置かれた大きな手も、見蕩れるほど格好良くてずるい。

「……見すぎだろ」
「っあ、ごめん…」
「事故ったらお前のせいだからなァ」
「えぇっ、それは横暴すぎる気が…」
「どこが。運転中じゃなきゃ俺だって見てえってのォ」
「…?ごめん、免許ないから代われないよ…?」
「はァ?……鈍感すぎんだろーがァ…」

実弥くんが溜め息混じりに吐いた言葉の意味がよく分からなくて、けれど聞き返しても「なんでもねェ」と言ったきり他愛もない会話を振られてしまう。結局目的地に着くまでの車内で、私がその意味を知ることはなかった。
週末ということもあってか、高速を使っても片道一時間弱かけて漸く辿り着いた水族館。実弥くんによれば、優待チケットは極わずかな枚数しか配られていないらしく、その言葉通り私が知る限りでは初めてと言っても過言ではないほど、エントランスからがらりと空いていた。先に車から降りた実弥くんが、至極自然な流れで助手席のドアを開けてくれる。エスコートまでばっちりで、まったく厭らしくないのだから、これは実弥くんの天賦の才なのかもしれない。だとしたらやっぱり女の子も放っておかないよね、なんて邪推はふるふると頭を振って隅に追いやった。
車から降りて隣に立つ実弥くんを見上げれば、僅かに目を丸くして私を見下ろす深紫の瞳と目が合う。

「…うん?」
「この間より小さくねえかァ…?」
「なっ……、今日はヒール履いてないもん…!」

思わず失礼なと口を尖らせれば、実弥くんは納得したような表情で「あァ…」なんて呟いた。この間はうんと御粧ししていたし、高いヒールを履いていたから今よりかなり身長も盛っていたけれど、今日は歩き回るだろうからとスニーカーを選んだし仕方ないでしょ、とかなんとかぶつぶつ独り言ちる。そりゃあ今は目線も実弥くんの胸板辺りだし、顔を見上げるのに首を動かさなきゃいけないくらいだし…。いやそれにしても、実弥くんだってスニーカーなのに、このスタイルの差ってどういうこと?

「拗ねんなァ、可愛いっつってんだろォが」
「…っ、かわ、…っえ、!?」
「おら、ぼけっとしてたら日ィ暮れんぞォ」
「え、あのっ、実弥くん…!」

再び耳を疑うような台詞にぎょっと目をひん剥いていれば、実弥くんは突然私の右手を左手で取って、ぎゅうと握り締めて歩き出してしまう。けれど繋がれた手に痛みなんてなければ、先を歩く歩幅も私に合わせられているから、心臓が飛び出てしまいそうなほど煩いし、身体だって風邪でも引いたかのように熱い。元彼と過ごした時には到底感じ得なかったそれに、私はひどく狼狽える他なかった。

「さ、実弥くん、手…」
「嫌かァ?」

係員にチケットを渡してエントランスを潜ってからも、手を繋がれたまま一歩先を歩く実弥くんの広い背中に声を掛ければ、振り返らずに投げかけられた問い。そんな聞き方、やっぱりずるい。確かに恥ずかしいし手を繋ぐ意味だって分からないけれど、嫌だなんて微塵も思わないのだから、実弥くんは本当にずるい。

「…ううん、」
「なら今日はこのまんま、なァ。迷子防止」
「迷子なんてならないよ…!?」

ちらりと振り返った実弥くんが、にやりと口角を上げて意地悪く笑う。咄嗟に可愛げのない言葉を返してしまったけれど、そんな表情にさえきゅうっと胸が締め付けられたのはきっと、気のせいなんかじゃない。人も疎らで静かな館内では、どきどきと早鐘を打つ心臓の音まで聞こえてしまいそう。誤魔化すように実弥くんを追い越して、今度は私が繋がれた大きな手を引っ張った。

「パノラマ大水槽、新しくなったんだよね?行こ!」
「急いで転けんなよォ」
「転けませんー!」
「は、どうだかなァ」

呆れ混じりに笑いながらも、それでも実弥くんは嫌な顔ひとつせずに、私に引かれるまま後ろを着いてきてくれる。雰囲気が見違えた館内を進んでメインとなるパノラマ大水槽まで来れば、その圧巻の光景に思わず感嘆の声が漏れた。

「わ、すごい…!ね、実弥くんみてみて?あそこのちっちゃい魚が、……あれ?」

水槽の前にかけられた鉄製の手摺に、前のめりになって硝子の向こう側を覗き込む。小さな魚が岩陰からちらちらと此方を窺っているような素振りを見せるのが可愛くて、隣にいるはずの実弥くんに興奮気味に声を掛けたけれど、隣には誰もいなかった。代わりに手摺に着いた私の両手を挟むように置かれた大きな手と、ふわりと背後に感じる温もりと実弥くんのフレグランスの香り。

「っ、!?」
「あー、あの隠れてる奴かァ?」
「えっ、?う、うん?」

予想だにしていなかった急接近に、とてもじゃないけれど正常な思考は働いてくれない。ともすれば心臓やら内臓やらが口から溢れ出てしまうんじゃないかと不安になるほど、息だって上手く出来ないしばくばくと脈打つ鼓動が脳裏に響く。後頭部に柔く当たるそれは胸板で、実弥くんの息遣いが僅かに髪を揺らすほどの至近距離に、寧ろどうすれば普通にしていられるのか教えて欲しいくらいだ。

「……ふ、耳まで赤ェ」
「っん…、!」

やけに低く甘ったるい声が、吐息混じりに耳元に吹き込まれた。ぞわりと肌がそばだって、鼻からおかしな声が漏れたのを揶揄うように笑われてしまう。鏡なんて見なくても自分の顔が茹で蛸のように赤いことなんてわかっていて、慌てて実弥くんから顔を逸らした。

「も、心臓に悪い…っ」
「名前がいちいち可愛い反応すっからなァ」
「っか、揶揄わないでよぉ…!」
「揶揄ってねえっつったら?」
「へ…?」

耳に吹き込まれた最後の言葉は、ひどく真剣味を帯びていて、それまでの声音とはまったく違うものだった。弾かれたように実弥くんを振り向けば、そこにあったのは声音と変わらず、湛えていた笑みを消した至極真面目な顔。どう答えるべきか迷いに迷って、たっぷりの間を開けて漸く口を開きかけた瞬間、嬉々とした子供の声が静寂を切り裂いた。同時に実弥くんはいつもの表情に戻って、私の頭をくしゃりとひと混ぜすると、再び私の手を取って歩き出してしまう。ふと振り返ったパノラマ大水槽に駆け寄る子供と、その姿を穏やかに見守るご両親の姿が、どうしてかやけに印象的だった。


***


「ふふ、可愛い」
「どんだけ気に入ってんだよ」
「すっごく!だってこのオットセイ、ちょっと実弥くんっぽいもん」
「あァ?どこがァ」

景色が流れる車内で、ボールチェーン部分を指先で摘んで、ゆらゆらと揺れるオットセイのぬいぐるみを見つめる。実弥くんは心外だとでも言うようにちらりとオットセイを見て、それを指でぴんと弾いた。どこがって言われたら困るけれど、少しだけ目付きが悪いところとか、あとは、雰囲気とか。とにかく土産売場で、見た瞬間に一目惚れしてしまったんだから仕方ない。

「ほんとに、楽しかったなぁ。あっという間だった」
「そりゃァよかった」
「今日はありがとう、実弥くん」
「早ェわ、遠足は家に帰るまでが遠足っつーだろォ」
「遠足だったんだ…!」

高校教師というよりは寧ろ、小学生に言い聞かせるような物言いに思わずくすくすと笑いが込み上げる。
本当に、楽しい時間はあっという間だった。名物のイルカのショーを見て、フードコートでご飯を食べて、トンネル型の水槽に年甲斐もなくはしゃいで。結局お昼ご飯も、このオットセイのキーホルダーすらも、実弥くんは一銭たりとも私に払わせてはくれなかったから、これで良かったのかと思わざるを得ないところだけれど。でも実弥くんも楽しそうだったし、やっぱり来てよかったなんて、改めて一日を振り返りながら車窓を流れる夕陽に染まる街並みを眺めているうちに、いつの間にかうとうとと微睡みに引きずり込まれていた。


「――名前、」
「…ん、」
「おい、起きねえとこいつがどうなっても知らねえからなァ?」
「…っえ!?あーっ!」

飛び込んできた物騒な言葉に意識が急浮上して目を開ければ、実弥くんの手の中にはオットセイのキーホルダー。慌てて手を伸ばしたけれど、いつの間にかシートが倒されていたから起き上がった反動が存外大きくて、運転席の実弥くんに突っ込みかけたところを抱き留められる。

「っぶねえな…!」
「わ、ご、ごめ…っ」
「ったくよォ…、もうちっと気ィつけろォ」
「う、うん……?あの、実弥くん?」

抱き留められたまま、腰に回された腕は何故か緩まない。中途半端に運転席に乗り出したような体勢のままで、実弥くんの足の横に着いた手はぷるぷると震えるし、何より実弥くんの首筋に鼻先が触れているしで、兎に角色々と辛いものがあるからどうにかしたいのだけれど。

「ね、実弥く、」
「なァ」
「う、ん…?」

ぼそりと、まるで独り言のように呟かれたその呼び掛けは、静かに空気を震わせた。そういえばもう家に着いたんだ、なんて、帳が落ちた見慣れた風景に、あまりにも場違いなことを考えてしまう。

「最初に渋った理由、前の男だったんだろォ」
「…え、」

想像もしていなかった問いに、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。けれど実弥くんは尚も静かに続けた。

「行くんじゃなかったって、後悔してるかァ?」
「……実弥、くん?」
「俺は滅茶苦茶楽しかったけどよォ…、やっぱそいつのが良かったかァ?」

――どんだけ年取ろうが忘れられなかった好きな奴と、また会えて浮かれてたのは俺だけかァ?

実弥くんの手から、キーホルダーがぽとりと落ちる。それが運転席の足元に転がった瞬間、走馬灯のように褪せた記憶が蘇った。

――実弥くん、あの、あのね…。
――隣町の高校行くんだろ。
――うん…。実弥くんは、進学校受かったんだよね?
――おう。頑張ろうな、お互い。
――うん、頑張ろうね。…いつか大人になったら、また会えるかな?
――…さあなァ。けど、仕方ねえから探してやる。
――じゃあ私も、実弥くんを探す。
――そん時は言いたいこと言うって、約束するか。
――うん、約束だね。

十数年の月日が経つとともに、薄れていた懐かしい記憶。そっか、実弥くんはあの時の約束を今でもちゃんと覚えていて、"言いたいこと"をちゃんと伝えてくれているんだ。突っ張った腕の痛みすら掻き消すほどに胸が痛くて、挙句目頭までツンとして、じわりと涙が浮かぶ。実弥くんの首筋に顔を埋めたまま振り絞った声は、恥ずかしいくらいに震えていて、ほんの少し鼻声だった。

「元彼のこと、言われるまで忘れてたって言ったら、笑う…?」
「笑いてえとこだけど、んな余裕ねえなァ…」
「ふふ、…でもほんとに、実弥くんと過ごすのが楽しすぎて、今日が終わらなきゃいいのにって思った」
「馬ァ鹿、終わらせねえわ」
「探すの忘れてたけど…それでも?」
「それはおいおい詫びでももらう」
「えっ…」
「ふ、本気にしてんじゃねェ」

穏やかな声音でそう言った実弥くんがそっと抱き締めていた腕を解いて、こつんと額を合わせられる。その表情は見たことも無いほど柔らかくて、愛おしげに細められた深紫の瞳に、無性に胸が締め付けられた。あるのはやっぱり、昔と変わらない、実弥くんへの恋い焦がれるような気持ち。けれど十数年越しに交わった想いというものは、自分が思うよりももっと深くて、もっともっとしあわせで溢れているんだと、私は今初めて実感している。

「実弥くん…、好き、好きだよ、大好き」
「ん、俺も、名前が好きで、可愛くて仕方ねェ」

しあわせを実感して零れた涙の跡を、実弥くんの形の良い唇が辿って、瞼に優しく口付けられる。実弥くんがこんなに優しい顔をすることだって、私は今の今まで知らなかったんだ。優しく顔中に触れられる唇が心地よくて、暫くうっとりとそれに酔いしれていたけれど、向かいから来た車のライトの光ではっと我に返る。

「っあ、ま、まって実弥くん、」
「あ?」
「ここ、車…。見られちゃうよ…」
「……悪ィ。今度、家くるかァ?」
「…っう、ん、行く…」
「ん、ならまた今度なァ」

目尻を僅かに下げて小さく笑った実弥くんの大きな手が、頭をぽんぽんと撫でて行く。それから足元に転がったままだったオットセイも手渡され、名残惜しさを堪えてシートベルトを外した。そういえばと倒されていたままのシートを上げるために左手のレバーを探るけれど、なかなかめぼしいものが見つからない。

「あ、れ…?」
「どうしたァ?」
「シート、戻そうと思って…」
「あァ、別にそのままでいい」
「でも、うーん…?」
「…ったく、じっとしてろォ」
「わ、!」

小さく溜め息を吐き出した実弥くんが、私に覆い被さるようにしてシートの横に手を差し込む。お陰で実弥くんの綺麗な横顔が眼前にあるし、フレグランスの良い香りがするしで、やっと落ち着きを取り戻した心臓が再びばくばくと跳ね上がってしまう。本当に、本当に心臓に悪い。急にこういうことをするからいちいちどぎまぎしてしまって、そのうち心臓発作でも起きたらそれは確実に実弥くんのせいに違いない。

「さ、実弥くんっ…まだ、?」
「おい、じっとしてろっつったろォが」
「そんなこと言われても、…っん、む!?」

シートを上げるだけなのにそんなにかかるんだろうか。距離といい体勢といい、なんだか物凄く恥ずかしくて堪らなくて、ぎゅうっと瞼を強く瞑った瞬間に唇に触れた柔らかいもの。咄嗟に目を開ければ、瞳を細めた実弥くんがにやりと笑って、乗り出していた身を引いた。

「え…?」
「いくらなんでも隙ありすぎんだろォ」
「…いま、えっ!?」
「っふ、詫びっつーことにしといてやらァ」

くつくつと愉しそうに笑う実弥くんに、真っ赤であろう顔でむっと口を尖らせる。それすら笑いながら「また連絡する」なんて別れの挨拶までされて、渋々頷いてドアを開けて外へ出たけれど、私はなかなかドアを閉められずにいた。

「名前?」
「……実弥くん」
「うん?」
「初恋は叶わないって、嘘だったね」
「…だなァ」
「前の約束はちゃんと守れなかったから、新しい約束。これからもずっと、実弥くんの一番の味方でいる」
「……」
「大好き、おやすみなさい」
「……おー、おやすみ」

静かに車のドアを閉めて、実弥くんに見送られながらマンションのオートロックを潜る。胸いっぱいのしあわせも、ほんのちょっとの寂しさも。全部愛おしいだなんて、実弥くんと再び出逢わなければ気が付かなかったんだろう。この気持ちを大切に、大切に育んでいこう。十数年越しに叶った初恋を、大切に。


――さねみ?実弥くんっていうの?あまねく実るってこと?それならきっと、実弥くんは沢山の人の味方ってことだね。じゃあ、私は実弥くんの味方になる!

「ふ、……結局忘れてんじゃねえかァ…。何回惚れさせりゃ気ィ済むんだってのォ…」


2021.05.03
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