門出を祝う桔梗の香

「よく来てくれたね、名前さん」

鬼殺隊九十七代目当主――産屋敷耀哉の穏やかで心地の良い声が、枯山水を模した厳かな庭園に響き渡った。桔梗の花の香が辺りを漂う昼日中のことだ。

雲一つない澄んだ空色の下、過日亭主となった実弥の横で深く頭を垂れる名前は、その何とも言い表し難い沖融ちゅうゆうたる声音に指の一本すら動かせずにいる。一方で実弥は固まる伴侶を横目でちらりと見遣りながら、まるで違う事を考えていた。
確かに耀哉の声音は常人のそれとは全くもって異質で、脳裏に木霊するような、心の臓にすとんと収まるような不可思議な波長に間違いはないのだが、実弥にとっては名前の声音も同様であるのだ。彼女の声音は実弥の耳に驚くほど障りが良く、何時も荒んだ心を落ち着かせてくれる。上質な真綿でまるごと包まれているような、そんな感覚を覚えずにはいられない。
積年の恋草を経て漸く夫婦となり得たからだろうか。どうにも浮き足立つ心を宥めすかして、実弥は名前に代わり至極懇切に口を開いた。

「お館様、この度はお目見えの機会をいただき切に感謝申し上げます。祝言の後の御挨拶となりましたことをお許し下さい。」
「構わないよ、実弥。…名前さん、そう畏まらずとも顔を上げてくれるかい。」
「は、はい…!」

耀哉の一声に勢いよく顔を上げた名前がその場で居住まいを正す。ふぅと小さく息を吐き出した小さな口から綴られたのは、凛とした声音だった。

「産屋敷様、この度不死川の姓を頂きました名前と申します。御挨拶が遅れた非礼をお許し下さい。」

流石は新造といえども元遊女か。つい先程まで頭を垂れ惚けていた人物だとは思えない様子に、実弥は分かっていながらも僅かばかり驚嘆し、片や耀哉はにこりと笑みを浮かべた。

「気にすることは何ひとつないよ。此方こそ急に呼び立ててしまってすまなかったね。」
「いえ、このような機会を頂きまして大変光栄にございます。」
「…うん、貴女のような女性が実弥の傍に居てくれて心から嬉しい。実弥も名前さんも辛く険しい過去があっただろうけれど、ふたりが共に歩むのならばこの先何も心配はいるまい。」

耀哉の言葉に目を見開いたのは名前だった。耀哉が実弥をよく知るのは勿論のこと、加えて名前のことまで知ったような口ぶりであるから驚くのも当然である。実弥が名前の重苦しい過去をあれこれと勝手に吹聴している訳がないので、単に耀哉の並々ならぬ人心掌握術に起因するものなのだが、そうなれば最早末恐ろしいまででもあった。けれども彼から紡がれる言葉は慈愛に満ちており、まるで我が子を憂う親心のようなものすら浮かんでいる。

「実弥。」
「はい。」
「本当に良い女性に巡り会えたね。大切にするんだよ。」
「…御意。必ず、お約束いたします。」

慎ましく芯のある返事とは裏腹に、実弥の表情は穏やかに綻んでいた。名前は危うく目頭が熱くなって、慌てて堪えるように表情を引き締める。改めてこのしあわせを噛み締めるには、実弥の表情も声色も充分すぎるほどだった。
我が事のように笑みを深めた耀哉にふたり揃ってその身を案じる言葉を口にした後、耀哉は妻のあまねに支えられながら屋敷の奥へと姿を消した。途端にほう、と息を吐いたのは名前だった。

「はぁ…、緊張しました…」
「ふ、ちゃァんと出来てたぜェ。過去に妬いちまいくらいには、なァ」
「過去、ですか?」

合点がいかない様子で首を傾げた名前の小さな頭に、剣だこだらけの大きな手を乗せた実弥が僅かに眉尻を下げ笑う。

「ときと屋でお前と見え逢った日を思い出した」
「わ、なんだか懐かしいですね!そんなに前のことじゃないのに…」
「日頃充実してっからなァ」

穏やかに微笑む実弥が、名前を正面から映して続ける。その大きな右手は大層愛おしげに、心妻こころづまである名前の円やかな頬を包み込むように撫ぜて。

「こうしてやっと添えたってのに欲が沸いて限がねェ。」
「欲?」
「俺の知らねえ廓での歳月があんのが腹立つっつったら…、笑うかァ?」
「えっ…」

ぽかんと固まる名前の頬を、実弥のごつごつとした親指が優しく擽った。自嘲を含んだ笑みと底無しの愛を含んだ滅紫色の瞳が、実弥の深い寵愛度合いを窺わせる。そんなものを一身に受けてしまえば、名前はぼんと音が出るほど顔を赤らめてぱちぱちと瞬きを繰り返すしかなかった。

「っふ、すげえ顔してんぞォ」
「さ、実弥さんが急にそんなことを仰るから…!でも、」
「うん?」
「…私も一緒です。"お兄ちゃん"と実弥さんの間のこと、本当は知りたいです」
「おに…、」

あまりにも久方ぶりに聞いたその呼び名に、今度は実弥が三白眼をおおきく見開いて固まる番だった。
名前もまったくもって同じ心持ちであったのは確かなのだ。父親の墓前で幼い実弥と別れ、廓に入り記憶を無くしてしまってから再び巡り逢うまでのことを、実弥の身に起こった物哀しく辛い出来事さえ全部ひっくるめて知りたいのが本音だ。けれども実弥は誰よりも優しい人だから、強くあらなければならないと自らに課している人だから、それならばこの先は、さめざめと降る雨に傘を差すかの如く誰よりも傍で実弥を支えようと、名前はつよくつよく心に決めたのだ。

「実弥さんと再びお逢いできるまでの私は、空っぽの傀儡くぐつでした。勿論私を育ててくれたお内儀さんや楼主、姐さん方には感謝していますが、こうして日頃のちいさな出来事に一喜一憂することなんてありませんでしたから。だからきっと、お話したところで欠伸がでるほど退屈だと思いますよ!」

見蕩れるほど楚々と微笑んだ名前を目の前に、それでも知りたいのだと強欲な言葉は終ぞ出なかった。代わりに実弥はずいと顔を間近まで寄せ、愛おしげな表情はそのままに僅かに語気を強めて囁く。

「こっから先は誰にも譲らねェ。常世とこよであろうがなァ」

――それから、俺の後生も全部お前のもんだ。

口角を上げ妖艶さを感じさせる笑みを浮かべた実弥が、思わず息を呑んだ名前のちいさな顔に己のそれを寄せる。けれども桜色のふっくらとした唇と薄く形の良い唇同士が触れるまで後僅かのところで、庭園に響き渡ったのは聞き慣れた凄まじい声量の大声。名前は大袈裟なまでにびくりと肩を跳ねさせ、対して実弥は蟀谷こめかみに青筋を浮き上がらせ盛大に舌を打った。

「お天道様の下でよくもまあド派手に乳繰り合ってんじゃねえの」

揶揄い混じりの声主は、名前もよく知る音柱、宇髄天元だった。その背後からは他の柱達が各々此方へ向かって来る姿も見える。
名前は慌てて距離を空け居住まいを正し、片や実弥は些か不満げな表情を浮かべつつ立ち上がると頭ひとつ高い位置にある宇髄の眼を睨め付けた。

「ちっとは空気読めやァ…」
「おいおい、こっちの台詞だわ。お前が言ったんだろーが、お館様との接見後に俺らにも嫁さん見せてぇって」
「あ゙ァ!?ンな言い方してねェ!見せてえわけあるか!!」

憤慨し眉根に深く皺を寄せる実弥に、宇髄は飄々としながら筋骨隆々な肩を竦め、「名前ちゃん固まってるぜ」などとうそぶいた。
名前としては確かに口を半開きにして固まっているものの、実弥の怒声に驚いただとかそういった理由ではなく、つい今しがたの羞恥に呆けているだけである。実弥は腹の底から深く長い溜め息を吐き出し、石畳に膝をついたままの名前へ左手を差し出した。

「立てるかァ?」
「えっ、あ、はい!」

実弥は重ねられた細く小さな手をぎゅうと握って名前を立たせ、横目で宇髄をぎろりと睨む。

「あとよォ、宇髄。その呼び方やめろォ」
「ん?……っふ、はは!あーはいはい、仰せのままに」

ぴくりと眉を動かし思案した宇髄ではあったが、瞬時に実弥の言わんとしていることを理解すると伴に豪快に吹き出し、目尻に笑い涙を浮かべながら頷く。宇髄のその心内は、普段可愛げのひとつもない同僚が見せる飾らない姿に対する可笑しさと、ほんの少しの嬉しさで溢れていた。
そうしている間にも柱の面々が続々と庭園の石畳を跨ぎ、桔梗の香が漂う庭先は次第に喧騒に包まれた。


***


産屋敷様がいらっしゃった時とは打って変わって、枯山水の庭園には和やかな空気が流れていた。実弥さんは僅かに離れた場所で、煉獄様や初めてお見掛けする蛇を連れた方と何やら和気藹々と言葉を交わしている。

「名前さん、お元気そうでなによりです」

私といる時よりもずっと砕けた様子の実弥さんに人知れず目を奪われている最中、背後から柔和な声が掛けられた。振り向けば相も変わらず穏やかな笑みを湛えた胡蝶様がいらっしゃって、私まで釣られて口元が綻ぶ。

「胡蝶様!ご無沙汰しています……、あ、えぇっと…?」
「どうかなさいまし……、はぁ、気配を消して背後に立つのはやめてください、冨岡さん」

突如胡蝶様の背後からぬっと現れた、濡れ羽色の髪を後ろでひとつに束ねた男性に目を瞬かせてしまう。"冨岡さん"と呼ばれたその方は、胡蝶様の言葉に耳を貸す様子もなく一歩足を踏み出したかと思えば、じいっと私を見下ろした。それも穴が開いてしまうのではと不安になるほど、じいっと。

「お、お初にお目にかかります。不死川名前と申します!……あ、あの…?」
「…あぁ、冨岡義勇だ。一時は重篤だったんだろう。快復したようで良かった」
「えっ?じゅ、重篤…?」

能面のような無表情で淡々と紡ぎ出された冨岡様の言葉に、思わずぎょっと目をひん剥いてしまった。果たして重篤とは一体全体なんのことだろう。近頃生死を彷徨うようなことなんてあったかしら。

「冨岡さん、縁起でもないことを言わないで下さい。名前さんは風病を患っただけです。その物言いで不死川さんに摘み出されたことをお忘れですか?」
「そうだったか…?悪かった、名前」

空気を揺らした感情の読み取れない声音。あまりにも自然に呼ばれた下の名にぴたりと固まる私の傍ら、冨岡様の隣に立つ胡蝶様は呆れたように眉根を下げた。

「冨岡さん、あなたはもう少し距離感を弁えて…、」
「…っわわ、!?」

刹那視界が暗く閉ざされた。目元にはじんわりと温かい熱を感じ、その上ふわりと鼻腔をついたのは愛おしい人の香り。けれども後頭部の上から降ってきたのは、相当に棘のある硬い声音だった。

「冨岡ァ、見んな呼ぶな近付くなァ…!」

喉奥から唸るような低音を絞り出した実弥さんにぐっと引き寄せられ、広く厚い胸板に背中から凭れ掛かってしまったけれど、逞しい体躯は微動だにしなかった。

「さ、実弥さん…?」
「不死川、何をそう怒っている?」
「あ…?テメェが人の嫁じろじろ見てるからだろォが」
「見るも何もその為に連れて来たんじゃないのか?」
「ンだとォ…?間違ってもテメェに見せる為に連れてきたわけじゃねえわクソがァ!」

怒りのあまり拘束は解かれて、漸く視界に光が戻る。陽光で眩む中、般若の形相で声を荒げる実弥さんに対して、冨岡さんは訳もわからないといった様子で首を傾げているし、何故かまったくもって折が合わないらしいふたりに私は狼狽えるばかりで。
ふと着物の袖をくんと引かれる感覚に其方を向けば、胡蝶様が立てた人差し指を唇に当てて片目を瞑って見せた。着いてこいと言わんばかりに腕を引かれ、兎にも角にも従って後を追う。青々と茂る松の木の下で足を止めた胡蝶様は、呆れ顔でひとつ息を吐き出した。

「まったく…騒々しくてかないませんねぇ」
「だ、大丈夫なんでしょうか…?」
「心配はいりませんよ、いつものことですから」

些か含みを持たせてにこりと笑う胡蝶様に首を傾げながらも、柱を務める実弥さんのことを私以上に知っている胡蝶様が言うのであればそうなのだろう。ちらりと実弥さん達のほうへ視線を流せば、いつの間にか宇髄様が間を取り持つように其処に居て、――というよりは面白がっているようにしか見えないのだけれど、剣呑とした空気は幾分か和らいでいた。

「ほら、大丈夫だったでしょう?」
「すごい!流石胡蝶様です…!」
「ここにいる面々はもう慣れっこですよ。それにしても愛妻はしづまの名前さんに心配をかけるとは、不死川さんもまだまだですねぇ」

にこにこと人好きのする微笑みを浮かべる胡蝶様ではあるけれど、その口をついて出る言葉はどこか毒付いているものだから、私は乾いた笑いを零すしか無かった。

「しのぶちゃーん!わ、わたしも不死川さんのお嫁さんとお話したいわ…!」
「甘露寺さん、こちらへどうぞ」

私や胡蝶様より随分上背のある女性が、幾分か離れた場所からぶんぶんと大きく手を振って此方へと駆けてくる。桜色と萌黄色の髪を三つ編みに束ね、頬を赤らめたとっても可愛らしいお方。まるで剣豪とは思えないほど可憐な様に玉響たまゆら見蕩れてしまっていれば、甘露寺様と呼ばれたその方ははにかんだように目尻を下げて笑った。

「恋柱の甘露寺蜜璃です。よ、宜しくね!」
「あっ、不死川名前と申します…!甘露寺様、こちらこそ宜しくお願いします!」

慌てて深く頭を垂れると、甘露寺様は「きゃあ!」と鈴の音のように高い声を漏らした。

「…か、可愛いわ…っ!なんて可愛らしいの!ねぇ、しのぶちゃん!」
「ふふ、そうですね。本当に、不死川さんには勿体無いくらいに」
「えっ…!?」

顔を上げた先、甘露寺様は頬を両手で包み込むようにして赤くなっているし、胡蝶様は揶揄い混じりにそんなことを言うものだから、果たしてどう反応したものか頭を抱えてしまう。
それに、真逆なのだ。実弥さんは私には勿体無いくらいの人で、未だに何故私を娶って下さったのか分からないくらいなのだから。

「でも不死川さんの傍に貴女が居てくれて、本当に良かったと思っていますよ」
「うん、そうね!不死川さんのあんなに幸せそうな顔、見たことないもの!」

満面の笑みを湛え口を揃えるおふたりの言葉に、嘘や偽りは微塵も感じ取れなかった。実弥さんのしあわせそうな顔と言われてもすぐにはぴんと来ないのだけれど、廓で逢い見えた頃より随分と喜怒哀楽がはっきりしたように思う。私が由縁だとは思えないなりに、それでも本来の実弥さん――鬼狩りとしてではない、ひとりの人間としての実弥さんがそこに見えるようで、堪らなく嬉しいのは事実だった。

「気難しいように見えて実の所単純ですから、彼も。名前さん、どうか不死川さんを宜しくお願いしますね」
「…はい、生涯お傍にいます」
「私たちも安心ね、しのぶちゃん。また改めてゆっくりお茶でもしたいわ!」

心の底からおおきく頷き、嬉嬉として顔を綻ばせるふたりに見送られながら松の木を背にする。
胡蝶様も甘露寺様も、とってもお優しくて素敵な方だから、私まで胸の奥がぽかぽかと温かい。実弥さんの居場所は陽だまりのように暖かくて、それが嬉しいと同時に、この方々が命を賭さなければならない現世うつしよが物悲しくて堪らない。非力な自分も、無性に悔しくて堪らないのだ。
実弥さんの元へ戻ろうかと敷き詰められた細石を踏み鳴らした刹那、明朗快活な声音が辺りに響いた。

「お下げ少女!」
「は、はいっ!」

特徴的な呼び名に思わず釣られて溌溂と返してしまい、それに些か目を丸くしたのは案の定向日葵色の長髪をたなびかせた煉獄様だった。その傍らには先ほど共に話し込んでいた、白蛇を連れた小柄な男性の姿もある。

「煉獄様、ご無沙汰しています」
「うむ、息災でなによりだ!伊黒、こちらの女性が不死川の伴侶だ」

煉獄様の紹介に預かってしまい、まごつきながらもその方へ頭を下げれば、どこか品定めをするかのような視線が突き刺さるものだから、失礼があっただろうかと内心動揺しつつも背筋をぴんと伸ばした。鋭い眼光はまるで蛇のようで、よく見れば瞳の色が左右で違って不思議な採光を帯びている。

「……伊黒小芭内だ」

伊黒様は名前だけを端的に答え、それっきり口を噤んでしまった。口数が少ない方なのだろうか、それともやっぱり気を悪くさせてしまったのだろうか。そんな不安を胸中に巡らせていれば、煉獄様は物珍しげに顎に手を当てた。

「珍しいな、伊黒が小言のひとつも言わないとは!」
「え?小言…ですか?」
「うむ!伊黒は、」
「煉獄、余計なことは言うな。これだからお前は――」

おおよそ煉獄様が言う小言というものを正に伊黒様が口にしようとした刹那、私たちの横をふらりと通り過ぎた方に思わず目を見開いてしまった。すかさず煉獄様がその方を呼び止めるけれど、ゆるりと振り向いた彼の瞼は半分ほど落ちていて、とてもとても眠そうだ。

「こら時透、何処へ行く!」
「…眠いから少し寝てこようかなって」
「よもや!お下げ少女に挨拶は済んだのか?」
「お下げ…?甘露寺さんのこと?」
「時透、甘露寺を馬鹿にするな…!」

てんで噛み合わない会話に目を回していれば、突如此方に顔を向けた時透様とばっちり視線が交わった。拝見すれば拝見するほど、まだ幼く丸みを帯びた顔つき。私よりも随分歳が下であろうことはすぐさま見て取れたけれど、それにしては纏う雰囲気が只者ではない。こんなに若くして鬼殺隊を背負って立つ方もいらっしゃるのかと、その類まれなる才能を尊敬するとともに、やっぱりこの世に些か恨み言を言いたくなってしまう。
焦点が合っているような合っていないような、冨岡様以上に心情が読み取れない時透様にえも知れぬ緊張感を抱いてしまっていれば、先に口を開いたのは当人だった。

「ああ…、不死川さんの?」
「あっ、はい!名前と申します!」
「どこがお下げ…?」
「え?あ、それは以前の髪型でして…」
「ふうん」

それっきりぱたりと会話は途切れ、時透様は興味を失ったかの如く視線を煉獄様へと戻した。

「不死川さん怖い顔してるからもう行くね」
「む?…はは、よもやよもやだ!」
「あの不死川がひとりの女にこうも執着するとはな」
「え?っえ?」

私を除いたお三方が口々にそんなことを言うので首を回して辺りを見渡せば、実弥さんは池泉ちせんの切石に腰掛け、頬杖をついて僅かながら険しい表情を浮かべていた。けれども目が合えばふいと逸らされる視線。首を傾げる私を余所に、いつの間にやら姿を消していた時透様以外のお二方がやれやれと言わんばかりに肩を竦める。

「激昂されても面倒だからな、俺ももう行く。…ああ見えていい奴なんでな。宜しく頼んだぞ」
「伊黒様…。必ず、お約束いたします」
「俺も宇髄に話があったのを忘れていた!お下げ少女、また会おう!」
「はいっ、煉獄様のご息災もお祈りしております」

お二方それぞれと別れの口上を交わし、去りゆく背中を追ってふと視界の端に入った、宇髄様よりも更に上背のあるお方の姿。実弥さんをちらりと見るけれど、何やら胡蝶様と話し込んでいるようだったので、邪魔をしてはならないと声は掛けずに件のお方の元へ足を向ける。
首をぐんと上向きにして、最早白日と重なるどこか荘厳としたお顔を視界に入れてから、ひとたび深く頭を垂れた。

「お初にお目にかかります。不死川の姓を頂戴しました、名前と申します」
「あぁ…、不死川から話は聞いている。岩柱を務める悲鳴嶼行冥だ」

顔を上げた刹那、その眼からほろりと零れた涙にぎょっとして慌てふためく私を、悲鳴嶼様は首を微かに振って宥めすかす。

「不死川は今やこうして粗暴なりにも隊を背負って立つ男として不足は無いが、かつてはひどく荒んでいた時期もあった」

ぽつりぽつりと静かに語り出した悲鳴嶼様は、在りし日の実弥さんを脳裏に思い浮かべているように見えた。口を挟むことは相槌でさえ憚られて、きゅっと唇を引き結んで紡がれる言葉に聴き入る。

「それも鬼に肉親や兄弟を奪われたのだから致し方ない。そういった過去を持つ人間は隊に数多くいるが、不死川のそれは取り分け凄惨だ。たったひとり遺された弟の話は聞いているか?」
「…はい、詳しくはお聞きしていませんが…。実弥さんは弟様のために刀を取ったのでは…?」
「弟の為、か…。それは真理にして、事実そうであったかと問われれば難しいところだろう」

悲鳴嶼様の声は物静かで穏やかながら、心の奥底にすとんと落ちてくるような、そんな摩訶不思議な声音だ。けれどもその言葉の意味をどうにも掴みかねてしまってそっと首を傾げると、何も気にすることはないとばかりに再びかぶりが振られる。

「弟を守る為に刀を取ったのは間違いではない。だが鬼を憎む余り、人の心を捨てかけていたのもまた事実。…見て居られないほどだった」
「悲鳴嶼様……」
「然しながらお館様の深い慈愛もあって、不死川は徐々に心を取り戻した。…それだけでも充分な程だったが、驚いた。不死川は本当に、まるで見違えた」

そこまで言い終えた悲鳴嶼様が、微かに口元に笑みを湛えたと思えば、次の刹那ふわりと頭に乗せられた、実弥さんよりふたまわりほどおおきな温かい掌。歳は十も変わらないはずなのに、その掌に何故だか亡くした父の面影を見て、ぎゅうと胸が締め付けられた。

「君のお陰だ、ありがとう」
「……っそんな、私はなにも、」
「どうか、これからも傍にいてやって欲しい」

言葉も出せずただこくこくと頷く私に、悲鳴嶼様は慈悲深く微笑むと、頭に乗せていた手を引っ込めて踵を返した。
悲鳴嶼様のおおきな背中が遠ざかって行く。私はふと、自分の広げた掌へと視線を落とした。この手では不相応だとわかっていながら、今すぐに実弥さんを抱き締めたい。そんなことをすれば、お返しと言わんばかりに苦しいくらい抱き竦められてしまうのだろうけれど、それでもどうしてか無性に、実弥さんを抱き締めたくて堪らない。

「名前」

刹那背後からかけられたのは、愛おしくて大切で、夫婦になって尚恋い焦がれて仕方のない、大好きな実弥さんの声。ゆっくりと振り向いた私に、実弥さんはきょとんと目をまるくした。

「うん…?どうしたァ?」

一体全体、私はどんな顔をしているのだろう。ふらりと実弥さんへ近付いて、おおきくて温かい手をそっと握り、未だ怪訝に開かれたまんまの滅紫色の瞳を見つめた。

「実弥さん――、」
「帰るかァ」
「!」

ふわりと笑みを浮かべた実弥さんが、私の続く言葉を遮って優しい音を紡ぐ。本当に、実弥さんには敵わない。私が言おうとしていることなんてきっと全てお見通しで、一歩も二歩も先回りしてまるごと与えてくれるのだから。

「…はい、帰りましょう、お屋敷に」

刹那節くれだった長い指が絡んで、きゅっと強く握り締められる。頷いて歩き出す実弥さんを追って、桔梗の香りが立ち込める庭園を、夫婦ふたり揃って後にした。


***


「ふ、…ん、ぅ……っ、さねみ、さ…くるし、です…ッ」
「…は、……わり、もう少し」

屋敷に戻るや否や自室へと連れ込まれて、あれよあれよという間に実弥さんの胡座の上へ横抱きの体勢で乗せられた私は、どろりと蕩けるように甘い口吸いを一身に受けていた。酸欠で焦点が定まらず、実弥さんの滅紫色だけをぼうっと見つめる。差し込まれた舌が余すことなく咥内を探って出ていく頃には、くたりと力の抜けきった身体を預けてはくはくと肩で息をするだけが精いっぱいで。

「…ハァ……、」
「、さねみさん…?」

ぼやけた視界の先、眉根をぐっと寄せた実弥さんが前髪を掻き上げて、なにかを堪えるように深い溜め息を吐き出した。

「…言い出したのは俺だけどなァ……」
「えっ?」
「会わせなきゃ良かっただなんざ…、クソ、阿呆か俺はァ…」

これは会話のようで、会話ではないらしい。吐露される呟きは消沈気味だし、僅かに苛立ちのような色さえ含んでいる。てんで理由は分からないのだけれど、どうやら落ち込んでいるように見える実弥さんの紫水晶の髪に無意識で手を伸ばしてふわりと撫ぜてみれば。

「…ふ、擽ってェ」
「案外猫っ毛ですよね、実弥さん」
「あァ?そうかァ…?」
「はい、ふわふわで気持ちいいです」

嫌がられるかと思いきやされるがままに撫でられる実弥さんは、時折心地良さげに瞳を細めるから本当に猫のように思えてくる。一頻ひとしきりそのふわふわの感触を堪能して、ここに来て込み上げてきた幸福やら愛おしさやらで緩んだ口元に、実弥さんは再び覆い被さるように触れるだけの口付けを落とした。

「夕餉まで、まだあるよなァ」
「…は、はい…。まだ、日は高い、ので…」

とびきりの甘さを孕んで低く囁かれたその言葉は、いくら疎い私でも瞬時に真意を汲み取れるほど妖艶な誘い文句だった。手鏡を見ずとも私の顔は茹で蛸のように真っ赤だろうけれど、心のままに小さく頷くと実弥さんは嬉しそうに笑うから、そんな些末なことはどうでもよくなってしまう。

「名前、今は俺だけ見てろォ」

欲を奥底に浮かべた滅紫色がゆらりと揺れる。気が付けば影が差して、身体がふわりと温かな熱に包み込まれた。桔梗の移り香が実弥さんの羽織からふわりと香る。
今は、だなんて、実弥さんは本当に。欲が出て限が無いという割に気遣いばかりの、この世でいちばん優しい人。そんな実弥さんだからこそ、今も昔も、これから先も、私はこの人だけに胸が痛むほど恋い焦がれるんだろう。

ちいさなちいさな、取り留めもないしあわせをゆっくりと積み重ねて、この先なにがあっても大切に大切に抱えて生きていけるように、何時か訪れる最期の時に実弥さんがいっぱいのしあわせで満ち溢れているように、私はこの人を守る傘になりたいと希って瞳を閉じた。


2021.04.06
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