愛は純たれる

オレンジの西日が射し込む木曜日、午後17時10分。紙とインクの匂いと、それから微かに聴こえるシャープペンシルが走る音。時折ページを捲る音も耳に柔らかく、障り良く響く。
私は、この時間、この空間がとても好き。

まるでここだけが切り取られたように静まり返る図書室の窓際、取り分け陽当たりが良く暖かい席に座る一人の生徒。机の上には参考書が数冊広げられ、腕捲りをしたごつごつした手がノートに向かって黙々とペンを走らせている。目を引く透き通るような白銀の髪が、西日を浴びて燦々と煌めいて見えた。
彼は、3年生の不死川先輩。臙脂色のネクタイは最高学年の証だ。話したことなんて無い私が、どうして名前を知っているかって、それは私が図書委員の一人だからだ。貸し出し参考書の一番最後のページに差し込まれたカード。さらりと流れるような達筆で書かれた「不死川」の文字に、数ヶ月前の私はひどく心を揺さぶられた。切れ長の三白眼と気怠そうな雰囲気とは似ても似つかない、とても丁寧で心優しい文字に一気に惹き込まれ、私は不死川先輩という人のことを知りたくてたまらなくなった。
そうは言っても結局のところ勇気は出ないまま、今日もこうして少し離れた位置でこっそりと先輩を盗み見る。それだけでも充分すぎるほど幸せだなんて、我ながら女々しいとは思うけれど、だってこうして誰かに、それも話したことすらない人に、形容しがたい淡い想いを抱くのはこれが初めてなのだ。古びたカウンターからの、15メートル―――これが、私と先輩の距離。

手元に積み重なった返却図書のカードを裏表紙の見返しに差し込み終えて、五冊ほどの本を抱えカウンターを立つ。集中している先輩の邪魔にならないように、踏み出す足音にも細心の注意を払いながら。そうして膨大な量の本が所狭しと並ぶ棚を順に巡って、抱えた本を一冊ずつ丁寧に所定の位置に戻していく。一見地味な作業だけれど、私はこの作業が実に好きだった。この本たちは一体どんな人に借りられて、一体どんな世界を見せてきたのだろう。そんなことを考えながら没頭する作業は、放課後の楽しみのひとつだった。退屈だと欠伸を噛み締める他の委員には、きっと到底理解してもらえないだろう。

「これで最後、と…」

自分の背丈よりも遥かに高い本棚に、つま先立ちで手を伸ばす。ぎりぎり届くか届かないかの位置にある、一冊分の空いたスペースまであとほんのわずかというところで、指先から背表紙が離れ、ぐらりとバランスを失う本。まずいと思った時には飛び出した分厚い本がすぐ頭上まで迫っていた。脚立を持ってくる手間を惜しんだのがそもそも間違っていただなんて、そんなまるで今更な後悔とともに、次に来るであろう痛みに固く瞳を瞑る。

――けれどいくら待っても痛みは訪れず、代わりに降ってきたのは、低く落ち着いた、それでいて僅かにぶっきらぼうな声だった。

「っぶねェな…、大丈夫だったかァ?」
「あ、…え?」

聞き覚えのない、でもすとんと胸に落ちてくるような、そんな耳障りの良い声にそうっと目を開けば、寸でのところで落下してきた本を受け止めたらしい逞しい腕が目に飛び込んできた。そこからさらに顔を上げて、頭ひとつ分上にある藤色の瞳と視線が絡み合った瞬間、まるで時が止まったかのように、ともすれば石像にでもなってしまったかのように、呼吸すら忘れて、目の前の人物から目を逸らせなくなっていた。

「…せん、ぱい……」

無意識のうちに唇から零れ落ちた音が、空気をちいさく震わせる。途端に藤色の瞳が僅かにおおきく開かれた。澄んだ宝石のようなそれに映る自分の顔はひどく呆けていて、慌ててぽかんと開いていた唇を引き結ぶ。きっと、とてつもなく間抜け面だったに違いない。先輩はふっと空気を漏らすように微かに笑って、それから先ほど受け止めた手元の本に視線を落とした。
しげしげと表紙を眺める伏せられた瞳。縁取る睫毛が長くて、思わずそれに見蕩れていれば、先輩がふいに瞼を上げるから、再び視線がぶつかり合ってしまう。つい見蕩れていたことに気が付かれたのかと思いきや、先輩は唐突に薄く形の良い唇を開いた。

「これ、面白ェのかァ?」
「えっ…?」

あまりにも突然で、あまりにも脈略がない問いかけに、一瞬思考がぴたりと停止する。ものの数秒の後フル稼働し始めた頭の中で、先輩が発した言葉を繰り返して、一語一句噛み砕いて、そうして私は漸くこくりと頷いた。

「名作なので、外れはないと、思います…よ…?」
「名作、ねェ…」

先輩の返答からは、尋ねてきた割にそれほどの興味や関心を感じ取れなかった。さらには目の前にずいと差し出された本。戻せという意味に受け取って、先輩からその本を受け取って再び頭上高くにある棚を見上げれば。

「あ?何してんだ、名前書くんだろーが」
「名前?…え、もしかして、借りられます…?」
「…すすめられたんだから借りるに決まってんだろォ」

さも当然のように、眉根を寄せて訝しげな表情を浮かべる先輩。果たして、私はおすすめなんてしただろうか。面白いかと聞かれたので、外れはないですと答えただけであって、それをおすすめと言うには些か無理がある気がする。けれど先輩が借りると言うのなら止める気は微塵もないし、名作というのは嘘ではないのでむしろ是非読んでもらいたい。

「えぇっと…じゃあ、こっちに来てもらえますか?」
「ん」

頷いた先輩が先にカウンターへ向かい、すぐ後を追う。本の見返しからカードを抜き取って、カウンターの上、先輩の前に差し出した。無言でペンを取り、カードへ名前を書き込んでいく先輩の手元を、つい目で追ってしまう。相も変わらず滑らかな達筆に魅入りながら、水性インクが紙にじわりと滲むのがすこし恨めしい。綺麗な文字なのにもったいない、だなんて考えを巡らせていれば、ノックしてペン先を引っ込めた先輩が、律儀にもカードの向きをくるりと私のほうへ変えて差し出してくれた。

「あっ、すみません、ありがとうございます。それじゃあ…返却期限は二週間後なので、それまでに返却をお願いします」
「あァ。んじゃまたなァ」

私よりもずっとおおきな手で、差し出した本を手に取った先輩が窓際の席へ戻っていくのをぼうっと見つめる。壁にかけられた時計をちらりと見遣れば、長針はいつの間にか11のインデックスを指し示していた。ここ図書室は18時までなので、あと5分かと僅かに名残惜しさを感じた刹那、がたりと鳴る椅子の音。つい先ほどまで長机の上に広げられていた参考書やノートは綺麗さっぱり無くなっていて、鞄を肩にかけた先輩はそのまま出口へと足を進める。先輩の手が扉にかけられたと同時に、私ははたと大事なことに気が付いた。

「不死川先輩っ!」

口をついて出たそれは、静かな図書室に存外響き渡ってしまった。突然おおきな声で呼び止められた当の本人である先輩も、目を丸くしてぴたりと立ち止まっている。急激に込み上げてくる気恥ずかしさで、顔が茹蛸のように赤く上気している自覚はもちろんあったけれど、そんなことに構っていられる場合ではないので。

「あの、助けてくださってありがとうございました…!」
「………ふ、」

漏れ聞こえたちいさく空気を揺らす音とともに、私の視線は先輩に釘付けになってしまう。先輩は、まるで別人かと目を疑ってしまうくらいに、あどけなく、そしてひどく優しく、綻ぶように笑ったのだから。

「声でけェわ、馬ァ鹿」

―――それは、決定的な瞬間だった。形容しがたい淡くちいさかった想いが、この身すら飲み込みそうなほどおおきな恋に変わった、そんな瞬間だった。



***



先輩と初めて言葉を交わして、そして恋心を自覚した日から丁度一週間。
本には形があるので、形があるものはやっぱりどうしても痛んだりしてしまうので、装丁の汚れを拭き取り、破れをテープで繕っている最中だった。目の前のカウンターにどさりと僅かに乱雑に置かれた本。見覚えのありすぎるその本から勢いよく視線を上げると、案の定そこに立っていたのは不死川先輩だった。藤色の双眸がまっすぐ私を捉えている。刹那湧き出す緊張や動揺を悟られないよう、カウンターの下で両手を組み、力任せにぎゅうっと握り締めた。効果は、高が知れているけれど。
先輩は、本の表紙を節くれだった長い人差し指でとん、と叩いて口を開く。

「次のはァ」
「…へ?」
「次の"おすすめ"はァ」

おすすめ、だなんて、強面には似つかわしくない随分可愛らしい口ぶりに、ついきょとんと目を丸くする。とにもかくにも色々と意外な面が見えて、無意識のうちにてんで素っ頓狂な言葉が零れ落ちた。

「先輩、って…本、読むんですね」
「…あァ?馬鹿にしてンのかァ…?」

途端にきゅっと寄せられた眉根に、我ながらあまりにも失礼な物言いだったと省みて、慌てて首を左右にぶんぶんと振る。

「いえ、そうじゃなくてっ!…あんまり、イメージになかったというか…。この本も純愛ものでしたし…」

そう、何を隠そう、先週先輩に貸し出した本は純愛ものの中篇小説だったのだ。主人公とヒロインが、紆余曲折を経てお互いゆるやかに関係を築いていく、プラトニックラブの代名詞のような作品。もちろん世に広く知れ渡っている不変の名作でもあるけれど、どうしても先輩がそんなジャンルを読み込むとは思えなかったのが正直なところだった。私を見下ろす先輩が、心外だとでもいわんばかりに表情を変える。

「別に本読むのは嫌いじゃねェ」
「純愛ものでも、ですか」
「……この男に共感はできなかったけどなァ」

この本の発売当初、"感情移入してしまって涙が止まりません"だとか、"号泣必至です!"だとか、そんなキャッチコピーが印字された帯が、装丁を飾っていた覚えがある。どうやら本当に共感なんて出来なかったようで、けれども最後までしっかり読んでくれたなんて、先輩という人は一体どこまで優しい人なんだろう。

「じゃあ、次は違うジャンルにしてみますか?例えばミステリーとか、それか王道の純文学とか―――」
「苗字が好きなもん貸して寄越せェ」
「……えっ?」

苗字、と突如先輩の唇が紡いだ音は確かに耳に届いていたけれど、まるで初めて聞いた言葉のように、まさかそれが私の名前だなんて夢にも思わなくて、たっぷりの間を空けて首を傾げる。そうすると先輩は、ものすごく怪訝な顔で、「おい、聞いてんのかァ」などと凄んだ。

「今…」
「あ?」
「私の名前、なんで…」
「なんでって、先週おまえが自分で書いてただろォが」

気だるげに、カウンターに片肘を着いた先輩が指差したのは、脇に置いてある一冊のファイルだった。それは貸し出し図書と生徒を管理するリストで、私の中で漸く合点がいく。もはや手癖のように習慣化された一連の流れなので、特に気にしたこともなかったけれど、言われてみれば貸し出しを担当した委員は必ずリストに自分の名前を記入するのだ。そうはいっても、乱雑に書き殴った文字を見られていたとなれば恥ずかしいし、それがとても綺麗な文字を書く意中の先輩相手ともなると、覚える羞恥もひとしおなので。

「わ、忘れてください…」
「はァ…?名前忘れろっつー馬鹿がいるかよォ」
「う…名前は忘れて欲しくない、ですけど…、名前じゃなくって…」

まったくもって的を得ないことをごにょごにょと言い連ねていれば、溜め息をひとつ吐き出した先輩が、やけにはっきりと、そして妙に真面目な表情で言ったのだ。

「忘れるわけねェだろ。わけわかんねえこと言ってンじゃねェ」

そうして、「いいから早く好きなもん持って来い」なんてあっけらかんと続けるので、私はその瞬間に危うく口走ってしまうところだった。私が好きなのは先輩です、と。だから私は、そんな言葉が零れ落ちてしまわないように、つよくつよく唇を引き結んで、ひどく下手くそな笑顔を作って、ただ頷くしかなかった。


先輩が図書室を出て行くまでのおおよそ30分間は、まるですべてが夢だったのではと疑ってしまうほど、先々週までとなんら変わりのない時間だった。先輩はいつもの特等席で黙々とペンを走らせ、そしてやっぱり私も、いつものカウンターでそんな先輩をちらちらと盗み見るだけ。けれど違ったのは、かけられた「またなァ」という一言。そのたった一言で、すべてがどうでもよくなってしまうのだから、恋というものはとても厄介で、それでいてとっても素敵だ。
図書室の鍵を職員室に返却し、帰宅するために昇降口へ向かう。日の入り時で、空にはうっすらと紺が混じり始めている。下駄箱で内履きからローファーへと履き替え、昇降口を出たところで、いるはずのない人が、コンクリートの柱に凭れかかるように立っていた。

「あれ…先輩…?」
「ん、終わったかァ?」
「はい、今から帰るところです。先輩は?どなたか待ってるんですか?」
「……おまえそれ、わざとやってンのかァ?」

心底呆れたような表情と口ぶりで、先輩はおおきな溜め息を吐き出した。先輩が言う"それ"が、一体何を指し示すのかは預かり知らないけれど、どうやら私はこの人の機嫌を損ねてしまったらしい。謝るべきだろうか、でも謝るにしても理由が分からなければ、それはただの口先だけになってしまう。まずはしっかり理由を聞こうと口を開きかけたところで、声が口をついて出るよりも早く、先輩が私の腕をぐっと掴んで歩き出した。それは到底予想だにしていない行動だったので、紺が滲む薄暗い校庭を、先輩に半ば引き摺られるように連れられる。

「おい、どっちだァ」
「ぅ、わわ…!」

校門を抜けて通りまで出たところで、突然ぴたりと立ち止まって振り返った先輩。それと同時に掴まれていた腕もぱっと離されたものだから、案の定、それなりの勢いで引き摺られていた身体は前のめりに傾く。そうして、気が付けば私は、先輩の厚い胸板に凭れかかるように抱き留められていた。

「…っ!?」
「ハァ……。ったく、危なっかしい奴だなおまえはァ…。怪我はねえかァ?」

頬に当たる固い感触と、腰に回された逞しい筋肉質な腕。ふわりと鼻腔をついたフレグランスの爽やかな香りに、途端に高熱にでも浮かされたように身体中が熱くなって、ともすれば血液という血液がすべて沸騰してしまったのではと錯覚するほどで。先輩の問いかけすら満足に理解できないまま、とにかく必死にこくこくと頷く。喉が焼けて張り付いたように、声が出てくれないのだから仕方が無い。

「ならいいけど、気ィつけろよォ。…で?」

呆れかそれとも心配か、どちらとも取れるような声色が頭上から降って、同時に漸く先輩の胸元から解放された。そこでやっと、自分が呼吸すら止めていたことに気付く。息苦しさに大きく息を吐き出して、両手で胸元を押さえてみる。あまりにも突然の接触に、今も心臓はばくばくととてつもない音を立てているし、顔の燃えるような熱さだってちっとも冷めてはくれない。けれど先輩はまるで何事も無かったかのように私を見下ろして、ほんの少し首を傾げ回答を促した。

「え、…?えっと、…ごめんなさい、何の話でしたっけ…」
「あァ?家どっちだって聞いてンだよ」
「家、ですか?こっちですけど…」

何故家の場所を尋ねられたのか合点がいかないまま、自宅方向を指で指し示せば、先輩はそのまま颯爽と歩き出してしまう。ぽかんと固まる私を首だけで振り返った先輩は、見蕩れるような流し目を寄越して、こう言ったのだった。

「危ねえから送ってく。おら、早く来い」

少しぶっきらぼうで、けれど耳を擽る低くて優しい声に、胸がぎゅうぎゅうと締め付けられる。
やっぱり私は、ちょっぴり不器用なあたたかさを心の内に宿す、ひどくやさしいこの人に、どうしようもなく恋をしている。



***



教師が黒板にチョークを走らせる、かつかつとした音が静かな教室に響いている。
季節は移り変わり、校庭の木々はすっかり葉を落とし、木枯らしがその葉を巻き上げて寒空に吹き抜ける初冬に差し掛かっていた。窓際の特等席でふと校庭を見下ろせば、体育の授業を受ける生徒たちが、寒そうに身体を縮めている様子が映る。そうしてすぐに、私の視線はあるひとりの生徒に釘付けになってしまった。一際目立つ白銀の髪が、風に揺られている。見間違いようもなく、それは意中の不死川先輩で、気だるそうに両手をポケットに突っ込んでいるものだから、なんだかあまりにも先輩らしくてつい頬が緩んだ。
板書もそっちのけで夢中でその姿を目で追っていると、ふいに白銀が靡いて、先輩が見上げるように振り向いた。刹那ばちりと絡み合った視線。先輩は驚いたように藤色をおおきく開いて、その途端私は、動揺のあまり持っていたペンを机の下に落としてしまった。静かな教室に存外響き渡ったカツンという落下音。

「苗字、どうした?大丈夫か?」
「あっ、すみません…!」

教師だけではなくクラス中の視線が一身に集まって、慌てて頭を下げ落ちたペンを拾い上げた。頷いた教師が再び黒板に向き直れば、すぐに集まった視線は解け、教室内は平常を取り戻す。
思わず深い溜め息が零れた。そうしてはたと気付き窓から校庭を見下ろせば、堪えるように肩を揺らして笑う先輩の姿。どうやら先輩は、慌てる私も、ぺこぺこと頭を下げる私も、すべて見ていたらしい。かあっと顔に熱が集まって、ここに穴があるのならばすぐさま入り込んでしまいたくなる。
けれども先輩があまりに可笑しそうに、屈託なく笑うから、そんな笑顔を見せてもらえるのならば、羞恥心だとかそんなものはどうでもよくなるので。熱くなった頬を両手で抑えながら下手な照れ笑いを浮かべると、ふいに先輩が形の良い唇を開いた。その唇がゆっくりと音の形を作るのを、見逃さないように見つめて、頭の中で反芻していく。

"馬ァ鹿。集中しろォ。また放課後なァ"

読み取った言葉はあまりにも都合が良く、目を疑うものだった。けれど先輩は満足げに口角をあげて笑うと、ひらりと手を一度振って背を向ける。
私は、締まりなく緩んだ顔を隠すように、机に突っ伏すだけで精一杯だった―――。



***


これほどまでに放課後までの時間が、途方もなく長く感じたのは初めてだった。図書室へ足早に駆け込むと、先輩が珍しく先に、いつもの特等席に腰掛けていた。傍にそっと近づいた私に気付くと、先輩はノートに落としていた視線を上げて、片眉を浮かせ僅かに意地悪く笑ってみせた。

「よォ、災難だったなァ?」
「…もう、誰のせいですか…」
「ふ、おまえが勝手にビビったんだろォが」
「う…、だって、まさか先輩が振り向くなんて思わないから…」
「誰かさんが熱い視線を送ってくっからなァ」
「なっ、!そ、そんなのじゃありません!」

まさに図星をつかれてしまって、幼稚だとは思いつつムキになって首を振ると、先輩はまたくつくつと喉を鳴らして笑う。こうして軽口を叩き合うくらいには、私と先輩の距離も僅かながら縮まったのだけれど、ひとつ叶えばどんどん欲深くなる自分が恨めしい。もしも叶うのならば、私に恋をしてだなんてそんなことは言わないから、先輩の心の中に少しでも私の居場所が欲しい。肩書きなんて拘らないから、少しでも先輩の特別になりたい。
そんなおこがましい心内が先輩に伝わってしまったんだろうか。

「…ん?どうしたァ?」

急に黙り込んだ私を、頬杖をついた先輩が見上げる。藤色がいつもよりやさしく灯るように見えて、心臓がきゅうと切なく音を立てた。少しくらいは、ほんの少しくらいなら、望んでもいいんだろうか。このさみしい冬があけて、木々が桃色に色づく頃には、この校舎から去ってしまう先輩に、本当に少しだけ、望んでもいい――?

「先輩…」
「うん?」
「あの、もし迷惑じゃなかったら…、連絡先、を、聞いても、いいですか…?」

連絡なんてくれなくてもいい。きっと私のことだから、臆してしまって自分から連絡もしないだろう。けれど、先輩の名前が手元に映るだけで、それだけで堪らなくうれしくなって、たくさんの勇気をもらえるだろうから。
祈るような思いで震える言葉を紡いだら、先輩は目をまるくして、次の瞬間にはふっと小さく息を漏らして瞼を伏せた。

「…ンなもん、―――」
「あっ、実弥やっぱりここにいたぁ!」

先輩の言葉を遮るように響いた声に、びくりと肩が跳ねた。親しげに名前を呼んで駆け寄ってきた女の先輩が、私を押し退けるように、先輩の前へ両腕をつく。甘くて女の子らしいフレグランスの香りがふわりと漂って、胸のまんなかが、ぎしりと嫌な音を立てた。感じたのは息苦しさと居心地の悪さだった。いてもたってもいられず、静かにふたりの元を離れ、カウンターの中へ逃げ込む。

「うるせえよ、騒ぐんじゃねェ」
「そんなことどうだっていいから、今日こそ遊びに行こうよぉ」
「あァ?行かねえわ」
「なんでよぉ…。ねぇ、どうせ暇なんでしょ?だって実弥、木曜日だけここ来てるって聞いたよ?いつもは即行帰るくせに。ね、暇潰しならここじゃなくてもいいじゃん」
「っ、!チッ……。ハァ…、わかったから、出たとこで待っとけェ…」
「やったぁ!」

先輩の返答を受けて歓喜の声を上げたその人は、うきうきと弾むような足取りで図書室を出て行った。途端に静まり返る室内で聞こえてきたのは、広げていたノートを片付ける物音。
胸が、ひどく痛んだ。ちくちくと刺すような痛みは、次第にずきずきと深くおおきな痛みに変わる。耐えられずに左胸をぎゅうっと苦しいくらいに押さえて、カウンターに視線を落とした。
行ってしまうんだ、そうか、そうだよね。そんなことを、心の中で繰り返す。先週までは心底好きでたまらなかったこの空間が、今はどうしようもなく、苦痛だった。

「苗字、騒いで悪かったなァ」

大好きな先輩の声と、視線を落とした先に差し出された一冊の本。先週、私が先輩におすすめしたそれ。

「…いえ、大丈夫です」

毎週のように繰り返した、返却手続の時間。けれど違ったのは、そこに必要以上の会話なんて無かったことだ。それはまるで、先輩に出会った最初の頃のようだった。それから先輩が図書室を出て行くまでの間、私はちゃんと、笑えていたのだろうか。
この気持ちの置きどころがわからなくて、もう何を考えるのも億劫で。手癖のように本を開いたところで、紙切れがひらりとカウンターに落ちた。拾い上げて裏返して、そこに書かれていたものを見た刹那、目頭がじんと熱くなる。

「……連絡なんて、できるわけないよ…」

書き殴られた電話番号が、零れた涙でじわりと滲んだ―――。



***



「――え?今日?ちょっと待ってね…。うん、平気だよ!」
「本当?ごめんね、ありがとう」

にっこりと笑って、「任せてよ」と頷く友人に何度目かのお礼を伝えて、慣れない雰囲気の教室を出る。
結局先輩に連絡なんてできるわけもなく、早くも一週間の時が流れてしまった。心の整理なんてひとつもついていない私は、たった今しがた他のクラスの図書委員に、今日の当番を代わってもらったのだった。いつまでもこんなことは続けていられないし、そもそも先輩が今日も図書室へ行くとは限らないけれど、今はあの空間に、どうしても足を踏み入れたくなかった。甘いフレグランスの香りと、"実弥"と親しげに呼ぶ声。先輩だって面倒そうな態度を取っていたものの、それがかえって仲の良さを示しているようだったし、事実先輩はあの後、あの綺麗な先輩とふたりで出掛けたのだ。このかなしくて、さみしくて、つらい感情を昇華するには時間も足りなければ、先輩への想いがあまりにもおおきすぎた。
手渡された電話番号の意味は、わからないまま。

「苗字さん!」

自分の教室へと重い足取りで引き返す途中、背後からかけられた聞き覚えのない声。立ち止まって振り返れば、そこにいたのは、先ほどまでいたクラスの男子生徒ふたり。かろうじて顔はわかるものの、話したこともなければ、呼び止められる理由もわからない。

「うん…?」
「あの、さ…」

私を呼び止めたひとりが口を開くけれど、言い淀んでなかなか続かない言葉。彼の少し後ろに立つ友人と思しきもうひとりが、痺れを切らして彼を肘で小突いた。意を決したように、少し赤みがさした顔で続けられた言葉は、予想だにしないものだった。

「あのさ、俺、好きなんだ。…苗字さんが」
「………え?」

言うなればそれは、私にとって青天の霹靂だった。真っ直ぐに私を見据える瞳は真剣そのもので、そこに他意なんて微塵も含まれていない。

「いきなりすぎるとは思うけど、俺と、付き合ってくれないかな」
「……、」
「だめ、かな…」

この人の気持ちが、痛いほどわかる。好きな人の特別になりたい、そんな気持ちが痛いほどわかるから。だからこそ、私も彼を真っ直ぐに見つめて、静かに首を振ったのだった―――。



***



放課後の教室でひとり、私は何度目かになる溜め息を吐き出した。窓から見下ろす校庭には、帰路を急ぐ生徒や、友人と楽しげに笑い合う生徒、ランニングをする陸上部の生徒たちが見える。随分と日暮れも早くなって、まだ時刻は17時を少し過ぎたところだというのに、空には紺色が混じり始めていた。本当であれば、今頃は図書委員として図書室にいるはずなのだけれど。
机に広げた数学の課題は、ほとんど手についていない。再びおおきな溜め息が零れると同時に、シャープペンシルを置いて机に突っ伏した。

"簡単に、諦めたくないんだ。"

芯の通った声が、頭の中に響く。告白を断った私に、彼は僅かに悲しそうに笑いながら、そう言い切った。友達からでいいから、と食い下がった彼を拒絶できなかったのは、諦めないと言い切れる強さが羨ましかったからかもしれない。だって私は、先輩に気持ちを伝えることもせずに諦めてしまったから。傷付くことが怖くて、先輩から逃げてしまったから。

"部活が終わったら迎えに行くから、一緒に帰ろう"

存外強引に取り付けられた約束が脳裏に浮かぶ。言い様のないもやもやとした感情に蓋をすれば、自然と意識が遠のいていく。そうして私はいつの間にか、机に突っ伏したまま眠りこけてしまったのだった。


誰かに、ひどくやさしく髪を梳かれる感触で、ゆっくりと意識が浮上する。どれくらい寝てしまったんだろう。開ききらない瞼を擦りながら起き上がれば、視界に入ったのは長く節くれだった綺麗な手。

「ここ、間違ってんぞォ」

とん、とノートの回答が指差される。同時に、本当はもう一度聞きたくて仕方のなかった、耳障りの良い低い声が耳に届いた瞬間、私は弾かれたように顔を上げていた。

「っ、せん、ぱい……?」

蛍光灯に照らされた白銀の髪と、切れ長の三白眼。目の前の席に我が物顔で腰掛けるのは、紛れもなく不死川先輩で、混乱のあまりここが夢か現実かわからなくなってしまった。先輩はノートに落としていた視線を上げて、何故か不機嫌そうな表情で口を開く。

「聞きてぇことはみっつだァ」
「え…?」
「今日、なんで来なかった」
「……っ、」
「なんで連絡寄越さねェ」
「そ、れは……」

淡々と紡がれる問いかけに、私は狼狽えるばかりでなにひとつ答えられない。込み上げる気まずさから先輩の目すら見ることができず、今度は私がノートに視線を落とす番だった。

「…ハァ……。なら、昼間話してた男はァ」

いつもよりも低く、溜め息とともに吐き出すように投げかけられた問い。思わず勢いよく顔を上げれば、先輩はまるで射抜くように、私をその双眸で捉えた。藤色に混じる、怒りにも似た昏い色が意味するものはわからないけれど、それに映り込んだ私は、ひどく情けない顔をしていた。
どう答えるべきか、そもそも何故先輩が例の男子生徒とのことを知っているのか、考えても考えても、一向に言葉は音になってくれない。

「…付き合ってンのか」
「え――、」

先輩の声が、あまりにもさみしそうに、あまりにも沈んで聞こえたので、私は否定することすら忘れてぽかんと固まってしまった。だってわからなかったのだ。先輩がどうしてそんなに苦しそうなのか、どうしてそんなに辛そうなのか、わからなかった。
心の中はもうずっと、色々なものでぐちゃぐちゃに絡まりあっていて、伝えたい言葉も伝えなければいけない言葉もなにひとつ纏まってはくれないけれど、ひとつだけ確かなことがあるとしたら、それは―――私は決して、先輩のそんな顔が見たかったわけじゃない。

「せんぱ、」

思うよりも早く口をついて出た呼びかけは、教室の外から聞こえてきた声で不自然に途切れた。その声は聞き覚えのある声で、徐々にここへと近づいてきている。
そうして私は我に返った。そう、そうだ。廊下から聞こえてきているこの声は、今しがた先輩が話題に上げた、例の男子生徒とその友人のもので。例え半ば強引に取り付けられてしまった約束であったとしも、今更それを無碍にするわけにはいかない。つよく後ろ髪を引かれる思いを堪え、私は声を振り絞った。

「先輩、すみません。私、行かなきゃ…」

机の上に広げていたノートや筆記用具を乱雑に鞄に突っ込んで、先輩の顔もまともに見ないまま立ち上がる。先輩の顔を見てしまえば、また気持ちがぐらぐらと揺れてしまう気がした。私は「諦めたくない」と言ったあの彼のことを羨ましいだなんて言いながら、結局は肝心なところで、先輩からも、自分の本心からも逃げてしまう臆病者だ。
声はすぐそこまで近付いて来ている。先輩をその場に残したまま、隣を擦れ違うように、足を踏み出した瞬間だった。

「名前」
「っ、……え?」

泣きたくなるほど大好きな先輩の声が、初めて私の名前を呼んで、同時にぱしりと腕を掴まれた。思わず先輩を見てしまえば、藤色がただ真っ直ぐに私を射抜く。

「行くな」

それはひどく真剣で、けれどどこか希うようにさえ聞こえる、とても短い言葉だった。掴まれた腕はいっそ痛いくらいで、触れた箇所から伝わってくる温度と感触に、頭の中はさらに掻き乱されて、胸が痛くて切なくて苦しくて、心がもうやめてと叫ぶ。
もう期待したくない。もう傷付きたくない。ずるくても、弱くても、積もり積もった先輩への想いは、ひとり抱えて歩くには、あまりにおおきすぎる。
でも、そんな顔をされたら、そんな声で名前を呼ばれたら、私はまた性懲りもなく自惚れてしまいそうになるから。だからやっぱり、私は自分の心に全部蓋をして、情けなく震える声を振り絞った。

「離して…、先輩、私、ほんとに――」
「行かせるわけねえだろォが…!」

荒々しくそう吐き捨てた先輩が、掴んでいる腕をぐっと強く引いて、教壇の脇にある避難用の掃き出し窓に私の身体を押し付けた。同時に足元まですっぽり隠れる丈のカーテンで、ふたりぶんの身体を隠すようにぐるりと包み込んだかと思えば、次の瞬間には先輩の形の良い唇が、私のそれを強引に塞いでいた。

「っんん、…!?」

一体なにが起きているのか、本当に訳がわからなかった。重なった唇から伝わってくる熱に、そもそもほとんど機能していなかったなけなしの思考は、跡形もなくどろりと溶かされていく。ただひとつだけわかるのは、先輩のあの綺麗な藤色の瞳が、今も私を至近距離で捉えて離さないこと。見たこともない色が混じるその瞳は、ただただ綺麗で、胸がきゅうっと締め付けられた。
何度も角度を変えて、ぴったりと隙間なく重ねられる唇にされるがままになっていれば、教室の扉が開かれる音が聞こえて、びくりと肩が跳ねた。続いて私の名前を呼ぶ声が聞こえた途端、先輩は人差し指を立てて自分の唇に当てて見せた。静かにしてろ、と先輩の瞳が訴えるので、こくこくと小さく頷くと、笑った後に再び重なった唇。すぐ近くに人がいるのに、カーテンにくるまって、何度も何度もキスをして。諦めたように去っていく足音が聞こえても、先輩が離れる気配はちっともない。

「ふ、……っん、ぅ…〜〜、!」

呼吸の仕方なんてわからないものだから、酸欠の息苦しさで先輩の厚い胸板をとんとんと叩く。そうして漸く解放された唇は、もう数え切れないほど触れ合っていたからか、じんじんと熱を持っていた。
肩で息をする私を尚もきつく抱き締めたままの先輩が、おもむろに肩口に頭を乗せて深い溜め息を吐き出す。

「先輩…?」
「なァ…。俺が毎週毎週、それも木曜だけあそこに居た理由、ほんとにわかんねえのかァ?」
「木曜、だけ…?」

先輩らしくない縋るような声色。思い返せばあの女の先輩も、「どうして木曜日だけ」と聞いていた。足りない頭で思考を巡らせるけれど、思い浮かぶのは例えば先輩自身の都合だとか、そんな取り留めもないものばかりで。でも、もしも。もしもそうじゃないとしたら。ひとつだけ脳裏を過ぎったのは、あまりにも都合の良すぎる考えだった。

「……私、が…いるから…?」
「やっとわかったかよォ。それ以外ねえだろォが」

心底呆れたように吐き出された言葉は、私の胸を苦しくさせるには充分すぎるものだった。辛くて堪らない苦しさとは似ても似つかない、嬉しくて泣き出したくなるような苦しさで胸がいっぱいになって、ずうっと堪えていた涙がとうとう零れてしまった。

「なのに連絡のひとつも寄越さねえわ、今日も待ってりゃ知らねえ奴が来るわ、お前は男に言い寄られてるわ…。ンとに、勘弁しろォ…」
「…っ、でも…先輩はあの綺麗な人と…!」
「あァ?あの後すぐひとりで帰したわァ。お前ンとこ戻る前にお袋に呼ばれちまったけどなァ」

肩口に埋めていた顔を上げた先輩が困ったように笑って、ぼろぼろと零れる涙を親指で拭ってくれる。

「ったく…ンなになる前に甘えろォ。遠慮してンじゃねェ」
「そんな、…だって、私はただの後輩、だから…っ」
「ハァ…。誰も気付かねえこと、やりたくねえこと、そういうモン全部、誰も見てねえとこでクソ真面目にやられちゃ、目ェ離せなくなンだろーがァ」

先輩はひどくやさしく、おだやかに笑って続ける。

「お前が思うよかよっぽど前から、ただの後輩だなんざ思っちゃいねえわ。じゃなきゃ大して興味もねえ場所にわざわざ通ったりしねェ」
「っ、せんぱ…」
「待っててやっただけ有難ェと思え。言っただろォが、純愛もんに共感なんざできねえってなァ」

再びぎゅうぎゅうと苦しいくらいに抱きすくめられ、先輩の温もりを身体中で感じたら、せっかく拭ってもらった頬を、また新たな涙が幾筋も伝っていく。
そうしてしゃくり上げる私をくつくつと喉奥で笑いながら、先輩は蕩けるように甘い声で囁いたのだった。


「覚悟しとけよォ、名前。もう離してやる気なんざねえからなァ」


2021/03/07
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