薫風吹く先で

風柱邸の庭先には、ふたりぶんの呼吸音と竹刀がぶつかり軋む音が響き渡っていた。ひとつは風柱、不死川実弥のもの。そしてもうひとつは彼の継子、名前のものである。ふたりは使う呼吸も同じ風の呼吸なので、必然と互いの手の内は両者共に手に取るようにわかる。けれども流石は師範。名前が肆ノ型から咄嗟に切り替えた壱ノ型を、不死川も瞬時に陸ノ型から参ノ型に切り替え正面から受け流した。その折に名前の竹刀は根元からぽっきりと折れ、からんと音を立てて地面に転がった。

「はぁ、っはぁ…」
「型の切り替えが全部遅ェ、まるわかりなんだよ」

息を切らす名前を厳しい眼差しで見下ろす不死川には、汗のひとつすら浮かんでいない。名前が不死川の継子となって二年の歳月が経とうとしていたが、彼女は一度たりとも不死川から一本取れていなかった。悔しそうに顔を歪ませる名前は、不死川がここ最近手を抜いていないことに気付いていない。それほどまでに名前の成長速度には目を見張るものがあり、師範である不死川も一目置いている。その分、不死川から課せられる日課や扱きの内容も日に日に熾烈を極めるものになってきているのだが、名前は例え血反吐を吐いたとしても泣き言は漏らさなかった。勿論口では「師範は厳しすぎる」だとか、「師範の鬼!」など文句は垂れながらも、決して逃げ出したり投げ出したりすることはない。名前は心の底から不死川を尊敬しているし、さらに言えば心の底から不死川に惚れ込んでいるのだ。

「ごめんくださーい」
「あ?」

門戸の向こうから聞こえてきた訪問者の声に、ふたりは顔を見合わせる。それが聞き覚えのない女性の声であったから、名前の顔はみるみるうちに訝しげなものに変わる。

「師範、またですか…?」
「あァ?知らねぇよ」
「いいです、私が出ます!」
「揉め事は起こすんじゃねぇぞ」

すたすたと庭から出ていく名前を、呆れたように不死川が見送る。名前が門戸をそぉっと開けば、そこに立っていたのは小奇麗な身なりの町娘だった。ほらやっぱり!!と庭にいる不死川を睨み付けるが、当の本人はどこ吹く風で折れた竹刀を片付けている。

「あの、不死川様という方はこちらにいらっしゃいますか?」
「…ご用件は?」
「先日危ないところを助けていただいたのです。お礼をお伝えしたくて…」

もじもじと顔を赤らめながら猫撫で声を出す娘に、名前はにっこりと笑顔を浮かべつつこめかみに青筋を浮き立てた。お礼を伝えたいと言いながら、きっとそれが娘の目的でないことは一目瞭然だった。

「私が代わって伝えておきますね」
「いえ、直接お伝えしなければ気がすみません!」
「お気になさらなくて大丈夫です!」
「気にします!なんなんですか、あなた!」
「私は師範の可愛い継子、兼将来の伴侶です!」
「誰が伴侶だコラ、あァ??」

買い言葉に売り言葉。勿論名前としては冗談でもなんでもなく、本当に将来の伴侶になる気でいるのでここぞとばかりに大声を張り上げた途端、ぬっと伸びてきた不死川の手にがしっと頭を掴まれた。容赦なく指先に力を込められて、痛い痛いと悲痛な叫び声を上げながら名前は悶える。娘は突然現れた意中の不死川を前にして、これでもかと顔を赤らめた。

「不死川様!せ、先日は危ないところを助けていただき、ありがとうございました!」
「……助けた?」
「えっ…?あの、麓の町はずれで鬼から助けていただいたのですが、この髪飾りにも見覚えはございませんか?」

娘が髪を束ねている蒲公英色の髪飾りをふわりと揺らして見せる。が、不死川はまったく思い当たる節がないようで、というより興味すらないようで未だにぐりぐりと名前の頭を掴み、ひんひん泣いて痛がる名前を愉悦を含んだ表情で見下ろしている。その反応に娘はかぁっと顔を上気させ、涙をいっぱいに溜めて震え出す。

「覚えていないんですね…。弄ぶなんてひどいお人ですね!」
「はァ?あ、おい…!」

そう言い捨てて脱兎のごとく走り去ってしまった娘に、不死川はぽかんと固まった。そうして頭を締め付けていた手の力が緩まったことで、漸く名前は痛みから解放された。次いでじとっと軽蔑を含んだ目で不死川を見上げる。

「弄んだんですか」
「するか阿呆がァ!」
「私という可愛い伴侶がいながら!」
「俺がいつテメェを伴侶にしたァ…?」
「ぁいたっ!ひどい、今本気のでこぴんしましたよね!?」

ばちんと重い音が響いて、名前に訪れたのはじんじんとした痛みだった。せっかく一度は引っ込んだ涙がまたじわりと浮かぶが、不死川は冷ややかな視線で一瞥すると、自業自得だとばかりに屋敷の中に入っていってしまった。
むう、と頬を膨らませてその後ろ姿を見つめる。不死川に助けられたという女性が屋敷を訪れるのは度々あることであった。不死川にはまったくその気はないのだが、強面に反して女子供には優しい性分なので、至るところで無意識のうちに名前の恋敵を作ってくるのだ。そんな存外優しいところも好きなのだが、名前としてはいつか不死川が盗られてしまうのではないかと気が気ではなかった。だからこうして率先して自分が出迎えては、追い払い続けているのだ。なんとも前途多難な恋路だと、名前は深い溜め息を吐き出して不死川の後を追った。


***


「ごめんくださーい」

八つ時に縁側で並んでおはぎを頬張っていると、再び今度は上がり口のほうから客人の声が響いた。またしてもきょとんと顔を見合わせるふたりだが、今回ばかりは名前の顔が歪むことはなかった。何故なら響いた声が男性のものだったからである。

「なんだァ?今日はやけに来客が多いな…」
「師範はここに居て下さい。私が出迎えます」
「何度も言うが、」
「揉め事は起こすな、ですね!わかってますよ!」
「信用ならねぇんだよテメェはァ…」

苦虫を噛み潰したように顔を顰める不死川に、名前はへらりと笑ってどんと胸を叩いて見せた。そういうところが余計に不死川の懐疑心を煽っていることを、彼女は知らないのだ。
名前が廊下からひょっこりと顔を出せば、立っていたのは見知った隠だった。

「後藤さん!」
「あぁ、名前。風柱様はご在宅か?」
「いますよ、呼びましょうか?」
「ん…、いや、あんたでもいいか。縫製の前田の代わりに、風柱様の隊服を届けに来たんだ」
「あ、そういえば、裾がほつれてましたね」
「前田がぶつくさ文句を言ってたけどな。ほら、これ、渡しといてくれ」
「はーい」

後藤が風呂敷に包まれた隊服を差し出し、名前がそれを受け取ろうと手を伸ばした刹那。名前は上がり口と廊下の間にある段差を踏み外し、ぐらりと身体が前のめりに傾く。

「う、わわっ!」
「あ、おいっ、馬鹿!」

次に来るであろう衝撃に身を固くしぎゅうっと目を瞑った名前だったが、いくらまってもその衝撃は訪れず、代わりに感じたのは人肌の温もり。咄嗟に風呂敷を放り出して、寸でのところで後藤が名前を抱き留めたのだ。

「っぶねぇな!気をつけろよ…」
「あ、う、うん…後藤さん、ありが、…ぎゃっ!?」

ばくばくと嫌に早鐘を打つ心臓を落ち着けながら、受け止めてくれた後藤に礼を述べようと口を開いた途端、首根っこをむんずと掴まれてふわりと浮く名前の身体。隊服の襟で首がきゅっと絞まって、蛙が潰れたような声が出た。そしてその首根っこを掴んだ人物は、他の誰でもなくいつの間にやら傍に来ていた不死川だった。

「ひっ!!」
「テメェらァ……人の屋敷の上がり口で何してやがる……?」

羽交い絞めにされている名前には不死川の表情は見えない。けれども吐き出された声は、まるで地獄の底から這い出てきた鬼かなにかのようで肝が冷えた。その一方で背後から抱き締められているような体勢に、内心ときめきを感じてしまったりもしているのだから、名前は相当なつわものだろう。後藤はといえば、不死川の人を殺めんとしそうな凶悪な人相に冷や汗をだらだらと垂らしながら、がくがくと足を震わせている。後藤としてはただ転びかけた名前を助けてやっただけだというのに、とんだとばっちりである。

「すっ、すすす、すみませんでした!!」
「あ、後藤さん!?」

そのままずりずりと後ずさって、詫びの言葉を叫びながら一目散に逃げ帰っていった後藤に、今度改めて謝ろうと名前は心に決めたのだった。

「師範、今のは決して浮気じゃないですからね!」
「あ゛ァ…?」

恐れ知らずにもほどがあるとはまさにこの事で、名前は未だにぎりぎりと自分を羽交い締めにしている不死川に向かってそんなことを言ってのける。不死川のこめかみにびきりと新たな青筋が浮くのにも気付かず。

「テメェは本物の馬鹿かァ…?」
「あ、おはぎ!まだ残ってますよね?食べましょう!」
「ハァァ〜〜〜………」

もはや怒るのすら馬鹿馬鹿しくなって、不死川は深く長く大きな溜め息を零した。名前はまったく気付いていないのだが、後藤と名前が事故とはいえ抱き合うところを目にした不死川は、それはそれは恐ろしい顔をしていたし、その瞳は嫉妬に塗れていた。結局のところ不死川もこの馬鹿で煩い継子に大概絆されているし、可愛いとすら思っているのだ。けれどもまだ暫くは言ってやるものかと、縁側に駆けていく名前を見つめながらひとり意地悪く口角を上げた。

「しはーん!早く来ないと師範の分も食べちゃいますからね!」
「太っても知らねぇぞ」
「むっ、師範には"でりかしい"ってものがないんですか!」
「でりかしい?なんだそりゃァ」

───こうして今日も風柱邸には、賑やかな薫風が吹きわたるのであった。ふたりが結ばれる日が果たして来るのかは、神のみぞ知ることだ。

2020.10.24
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