「あっ!実弥お兄ちゃん〜!」
「……人違いでは?」
「えぇっ!?ひどい、なんでそんなこと言うの!幼馴染の名前だよ?昨日会ったばっかりなのに忘れちゃったの!?」
電話口から響くきゃんきゃんと吠えるような声に、眉間に深く皺が寄るのがわかった。耳にスマホを当てたまま、指でサイドボタンを押し受話音量を最小まで下げる。
「ハァ……。何の用だァ…?」
「あのね、今実弥お兄ちゃんのマンションにいるんだけど、部屋番号がわからなくて!」
「……は?」
「実弥お兄ちゃんのお母さんから住所は聞いたんだけど、うっかりしてて部屋番号聞くの忘れちゃったの」
「あァ!?」
お袋、何勝手に住所なんざ教えてやがる…!つーかこいつ、今マンションにいるって言ったか!?聞き間違いかと耳を疑ったが、本物の馬鹿な名前のことだから有り得てしまうのが恐ろしい。ふと壁に掛けてある時計を見れば、短針は10を指していた。勿論、朝ではなく夜の、だ。
「お前なァ、何時だと思ってやがる…!」
「うーん、22時過ぎ?」
「ガキのくせして危ねぇだろォが!」
「またそうやって子供扱いする…!もう二十歳だもん!」
「そういうとこがガキだっつってんだよ!それ以前に女が夜中にひとりで出歩いてんじゃねェ!何かあってからじゃ遅ぇんだぞこの馬鹿!」
「……う、うん…ごめんなさい…」
突然しゅんと大袈裟なほどに落胆した声を出す名前に面食らって、まだ濡れたまんまの髪をがりがりと掻く。どうしたもんか、このままひとりで帰すのもそれはそれで危険だろうし、かと言って家に上げでもすればすぐ調子に乗りそうだ。面倒だが仕方ない、車を出すか。
「…送ってくから前で待ってろォ」
「えっ?…あ、うん…!」
返事が聞こえてすぐに電話を切り、今日何度目かになる溜息を吐き出しながら適当にクローゼットから引っ張り出したTシャツとジーンズに着替える。クソ、髪乾かす暇もねぇじゃねぇか。ぶつくさとひとり文句を垂れつつ車のキーを引っつかんで、部屋を後にした。
***
「ごめんね、実弥お兄ちゃん」
「悪ィと思ってんなら、その締まりのねぇ顔やめろォ」
何が嬉しいのかにこにこと頬を緩ませる名前に呆れた視線を投げつけても、まるで微塵も気にする様子なく、えへへと照れたように笑いを浮かべるので、もう構わず運転に集中することにした。
名前は正真正銘、昔からの幼馴染だ。といっても歳が5つも離れているので、俺が中学に上がった頃からは自然とお互い関わらなくなり、かれこれ10年以上顔を見てすらいなかった。俺は就職を機に地元を離れたから、もうこの先も名前と会うことはないだろうと思っていたのだが。それがどうしてだろうか、昨日職場の同僚に無理矢理連れられた合コンで、何の因果か名前とばったり再会を果たしてしまったのだ。良い歳した社会人が女子大生と合コンなんてしてんじゃねぇよと、同僚にはほとほと呆れて物も言えなかった。こいつはこいつで、俺を見るなり大声で「え〜!?実弥お兄ちゃん!?!?」だとか叫ぶものだから、周りからの好奇の視線もそれはもう物凄かった。居た堪れなくなって名前を引き摺るように外に連れ出し、一通り説教を垂れてから俺だけ合コンを抜け出し帰った。で、最悪なことに同僚が勝手に俺の番号やらメッセージアプリのIDやらを名前に横流ししやがったらしく、ひっきりなしに意味もないメッセージが送られてくるようになったわけだ。挙句お袋に住所まで聞いて来るとは、一体何の嫌がらせだと苦虫を噛み潰す。
「実弥お兄ちゃん、来週の土曜日って空いてる?」
「空いてねェ」
「えっ、即答!?」
「大学生なんだから俺に構ってねぇで遊んでろよ」
「…実弥お兄ちゃんがいいのに」
ぼそぼそと呟かれたその言葉は、聞こえなかった振りをした。ライトで照らされる夜道をただ真っ直ぐ見据える。好意を寄せられていることは名前の態度からわかっていた。けれど応える気は更々ない。土曜だって別に予定なんて入っていなかった。
俺が何のために離れたと思ってやがる。これじゃあ離れた意味がまるでない。警戒心の欠片もない膝上丈のスカートから覗く細く白い太腿に、腹の奥底から仄暗い感情が沸き出して奥歯をぎしりと噛み締めた。
***
私の他愛もない話に適当な相槌を打つ実弥お兄ちゃんをちらりと盗み見る。ルート表示されるカーナビをちらちらと見る綺麗な横顔も、器用にハンドルを操作する右手も、信号で止まる度にシフトレバーを引く左手も、全部全部格好良いからずるい。昔からずっとずっと、実弥お兄ちゃんを一筋に思い続けてきたのだ。昨日合コンで再会できたのは確かに偶然だったけれど、就職して地元を離れてしまった実弥お兄ちゃんを追いかけて大学を選んだのは事実だ。同じ街に住んでいればいつかどこかで出会えるんじゃないかと、そう期待していた。十数年振りに会う実弥お兄ちゃんは、驚くほど格好良い大人の男になっていたので目を見張ってしまった。昨日は途中で勝手に帰ってしまったけれど、実際合コンに参加していた友人たちはもれなく全員、実弥お兄ちゃんに見蕩れていた。
再会できたことが嬉しくて思わずこうしてマンションに押しかけてしまったけれど、よくよく考えれば彼女さんと一緒に過ごしていたっておかしくなかったのだ。今更になって後悔が押し寄せる。後先考えずに突っ走ってしまうから、実弥お兄ちゃんに子供っぽいと言われてしまうのだ。うぐぐ、と押し黙って俯いていれば、訝しげな視線を感じる。
「…急に大人しくなりやがって。一丁前に反省してんのかァ?」
「う…だって…。迷惑だったよね…」
「わかってんじゃねぇか」
「……久しぶりに会えたのに、昨日はあんまり話せなかったから…」
「だからって押し掛けて来んのは違ぇだろ」
「…ごめんなさい」
はぁ、と大きな溜息が聞こえてきてびくりと肩が跳ねた。実弥お兄ちゃんの言葉はもっともで、ぐうの音も出ない。いつの間にかカーナビは私のアパート近くを指していて、この時間の終わりが刻一刻と差し迫ってきていた。また困らせるとわかっていても、これを逃したらまた実弥お兄ちゃんとは会えなくなる気がして。アパートの前に車が止まったと同時に、大きく息を吸って、吐いて、膝の上に置いた手をぐっと握り締めて口を開いた。
「あ、あのねっ!来週の土曜日、た、誕生日なの…!10分でも、なんなら5分でもいいから、実弥お兄ちゃんに会いたい…。ダメ…?」
どきどきしながら、実弥お兄ちゃんをちらりと窺う。どうしてか実弥お兄ちゃんは私をじっと見つめていて、今日初めてちゃんと目が合った。何を考えているのか表情からは読み取れなくて、けれどぬっと伸びてきた左手にわしゃわしゃと髪を撫でられた。撫でられたというよりは、乱されたと言ったほうが正しいかもしれない。ぱちぱちと瞬きを繰り返していれば、実弥お兄ちゃんは眉を下げてほんの少し口角を上げた。
「午後からでよけりゃ付き合ってやらァ」
「っほ、ほんと!?」
「遅刻しやがったら問答無用で帰るからなァ」
「し、しない!絶対しない!」
「ふは、必死かよ」
くつくつ笑う顔は、昔と何ひとつ変わっていなかった。胸がきゅうんと音を立てて、やっぱりどうしようもなくこの人が好きだと改めて思ってしまう。私は嬉しさでぶんぶん頷いて、車を降りてからもぶんぶん手を振った。恥ずかしいからやめろと呆れる顔すら格好良くて、部屋に戻ってからもどきどきと心臓が高鳴って暫く眠ることができなかった。
***
約束をしていた土曜日、映画が見たいと言い出した名前とは駅で待ち合わせをすることにした。この一週間、夜になると必ず今日は何があっただとか、この店の料理が美味しかっただとか、取りとめも無くくだらないメッセージが頻繁に届いていたのだが、気が付けばいつの間にかそれを待っている自分が居て、名前に絆されかけている事実に妙に焦燥感を覚えたりもした。堪え性のない自分に苛立つが、誕生日だと言っていた名前にちゃっかり午前中のうちにプレゼントまで用意してしまったのだからもうこれはいよいよだ。幼馴染に誕生日の贈り物をするくらい普通だよなと言い聞かせ、それをボディバッグに乱雑に突っ込んで駅前の噴水に向かう。
「実弥お兄ちゃん〜!」
「早ェ、な……」
俺を視界に入れた途端、ベンチから立ち上がってぶんぶんと手を振る名前に思わずぎょっと目を見張る。オフショルダーといっただろうか、肩が丸出しのニットに膝上丈の短いスカート。最近の大学生ってのはこうも露出が激しいのかと眩暈まで起きる。いや、似合っているのだ。似合っているからこそタチが悪い。ちらちらと名前を見る男共の視線になんだか腹が立って、視線を遮るように間に立って溜息を零す。
「えっ、機嫌悪い…?遅刻してないよね…!?」
「別に悪かねぇよ。ほら、行くんだろ」
「う、うん!」
数歩先を歩いて振り向けば、名前は顔を赤くして小走りで横に並んだ。何故か俺を真っ直ぐに見ない名前が気になって顔を覗き込む。
「わわっ!な、なに!?」
「こっちの台詞だっての。なんだよ、お前が付き合えっつったくせに上の空だなァ?」
「…だ、だって…!」
「あ?」
「実弥お兄ちゃんが…、か、格好良すぎて…直視できないのっ…!」
真っ赤な顔でぎゅうっと目を瞑りながら半ば自暴自棄のように言い放たれた言葉に、咄嗟に口元に手を当てた。クソ、なんで可愛いとか思ってんだよ俺はァ…!ふいっと視線を逸らして、緩みかけた口元に気付かれないように歩き出した。
そうしていつになく緊張しているらしい名前が、沈黙に耐えかねてまたくだらない話をし始めるのを適当に流しながら映画館へ辿り着いた瞬間。
「実弥くん…?」
聞き覚えのある声に振り向けば、立っていたのは半年ほど前に別れた元恋人だった。あまりのタイミングの悪さに眉を顰め、けれど反応しないわけにはいかないので、おう、と軽く挨拶を返す。名前のことだからこれは癇癪を起こして拗ねるだろうなと、ご機嫌取りの方法を頭の中で模索する。映画が終わったらこいつの好きなもんでも食わせてやるか、などと考えていたのに、返ってきた名前の反応はまるで予想とは違っていた。
「実弥お兄ちゃん、お手洗いにいってくるね。ゆっくりお話してて」
にっこりと穏やかに笑って、元恋人にぺこりと頭を下げぱたぱたと踵を返して駆け出して行く名前。それを呆然と眺めていた俺は、はたと気付いた。手洗いって言いながら来た道引き返してんじゃねーかあの馬鹿!
「実弥くん、よかったら…」
「悪ィ、もう行くわァ」
「えっ!」
彼女が何かを言いかけたのを遮って、慌てて名前が駆けていった方向に走り出す。あの馬鹿はこのまま帰る気なんだろう。普段はこっちの迷惑も考えずひたすら真っ直ぐぶつかって来るくせに、こういう時だけ空気を読んで大人しく引き下がりやがって。だから放っておけねぇんだよ阿呆が。
息が切れるのも構わずに、存外逃げ足が早い名前を追う。けれど体力も底を尽きたのか徐々にスピードが落ちる名前の腕を掴むのに、そう時間はかからなかった。
「ってめ、待てコラ!」
「は、離してっ!やだやだ、なんで来るのっ!」
「あァ!?てめぇが逃げるからだろォが!」
「よ、用事を思い出したの!大切な用事!」
「もっとマシな嘘つけねぇのか!」
「っ離してよぉ!もう諦めるの、実弥お兄ちゃんのこと…!」
その言葉を聞いた瞬間、ぷつりと自分の中で張り詰めた糸が切れる音がした。抵抗する名前をぐいぐいと引いて、歩いて10分ほどの自宅へ連れ帰り、開けた扉の中に名前を強引に押し込んだ。玄関の扉に押し付けるようにして唇を塞ぐ。見開かれる大きな瞳に加虐心がむくむくと湧き出て、息継ぎの合間に開かれた隙間に舌をぬるりと差し込んだ。
「ふっ、ん、…んんっ!?」
「は、…」
「、っや、……んぅぅッ!」
ぐちゅぐちゅと咥内を貪って、舌の表面を擦り、甘噛みし、ぢゅうっと吸い上げる。口端から互いの混ざり合った唾液が零れるのも気に留めず、呼吸すら奪うほど隙間なく唇を合わせて舌を絡ませた。暫くしてがくりと名前が膝から崩れ落ちるのを、立ったまま見下げる。
「っはぁ、…実弥、お兄ちゃん…っ、なんで…」
「黙って聞いてりゃ勝手なことばっか言いやがって…。てめぇ、なんで逃げた?」
「……だ、だから、用事、あったの思い出して…」
「はぐらかしてんじゃねェ。言わなきゃここで啼かせる」
すっと目を細めて名前を見下ろせば、俺が本気だと理解したのか息を詰めて瞳を潤ませた。そんな顔をさせたいわけではないのに、慰めの言葉はひとつも出てこない。焦れているのは俺も同じだったからだ。
「っ、さっきの人、すごく、大人っぽくて綺麗だった…」
「はァ…?」
「私は子供っぽくて、いつも実弥お兄ちゃんに迷惑かけちゃうし、呆れられちゃうし…。並んでるふたりがお似合いだったから……どんなに実弥お兄ちゃんが好きでも、私じゃ敵わないって思って…」
「………救いようのねぇ馬鹿だな、てめぇはァ」
ぐすぐすと泣きながら言葉を紡ぐ名前に、鼓動が速まる。涙でぐちゃぐちゃの顔すら可愛いと思ってしまうのだから、もう腹を括るしかないようだ。名前と目線を合わせるようにその場にしゃがみ込んで、指で涙を拭ってやる。
「俺が好きなら簡単に諦めんな」
「っ、なにそれ、ひどい…!叶わないのに諦めるなって…そんなのひどいよ…!片思いの辛さなんて実弥お兄ちゃんは知らないくせに!」
「…片思いじゃねぇから言ってんだよ馬鹿」
「……え?」
俺が何のために地元を離れたと思う。昔から俺の後を着いて回る年下のガキが死ぬほど可愛くて仕方なくて、でも5つも下のガキに惚れ込んでるなんて認めたくなくて。俺も到底ガキだったし、会わなくなれば自然と忘れられると思っていた。けれど彼女が出来る度、頭に過ぎるのは名前のことで。それだけ拗らせた積年の想いがあったから、名前に会えば今度こそ自分の元から逃がしてやれなくなりそうだったのだ。
「てめぇだけだと思ってんじゃねぇよ。ったく……、せっかく抑えてやったってのによォ…」
「……うそ…」
「嘘じゃねェ。名前、責任とってくれんだよなァ?」
未だにぽろぽろと涙を零す名前を覗き込んで、触れるだけの口付けを落とす。真っ赤になってぷるぷる震える名前は小動物のようで、クソ可愛くて仕方ないので剥き出しの肩にかぷりと噛み付いて歯型を残してやった。
「っいた、いたいよぉ…!」
「俺のものになるって言えよ。言えばやめてやらァ」
十数年もの間持て余していた劣情を、すべて受け入れてくれないと困る。俺は抑えて離れてやってたってのに、こんなところまで俺を追いかけてきたこいつが悪い。だからほら、早く言えよ。がぷがぷと無遠慮に肩を噛み、上目で名前を窺う。
「いたっ、いたいぃ…っ!なる、なるからぁ…!」
「ん、いい子」
にやりと口角が上がって、涙目の名前に噛み付くように唇を重ねた。舌を絡ませてとろんと口付けに夢中になっている間に、バッグを漁ってラッピングされた小袋を取り出す。片手でリボンを解いて、中から取り出したものを名前の首に手を回して着けてやって、ぷちゅっと音を立てて唇を離した。
「っふぁ、…んぅ、?」
「首輪。外すんじゃねぇぞ。もうお前は俺のもんだからなァ」
「えっ、!」
きらりと光るネックレスを指で辿って目を丸くする名前をぎゅうっと抱き締めて、もう離してやれねぇぞと耳元にあまく吹き込んだ。またひんひん泣き始める名前にくつくつと笑って、俺は暫く可愛くて仕方の無い名前を腕の中に閉じ込めていた。
「で、ここで啼くのとベッドで啼くの、どっちがいい?」
「………え?」
「あァ、どっちもか?ふ、欲張りだなァ」
「えぇっ!?」
2020.10.22