ここで生まれる愛

「………っえぇ!?」

金木犀の甘く爽やかな香りが漂う秋の昼中。たった今素っ頓狂な声を上げたのは他でもない元遊女、名前だった。目をまあるくしてただ呆然と固まる名前に、隣に立つ不死川は片眉を寄せて怪訝な表情を浮かべる。

「なんだァ、突然でけェ声だして」
「だ、だって、ここ、……えっ?まさかここが不死川様のお屋敷ですか…!?」
「あァ?じゃなきゃ連れてこねぇだろォが…」

眼前にそびえ立つ立派で広大な平屋の日本家屋に、名前は大きな瞳をひん剥いてわなわなと震える。その心中は穏やかではなかった。
名前が不死川に身請けされたのはつい数刻前のことで、ばたばたと身支度をして見世に挨拶を済ませ、吉原の大門を通り抜けてここ風柱邸までやってきた。振袖新造といえども遊女を身請けするほどであるから、不死川はそれなりに裕福なのだろうとは思っていたが、流石にこれほどまでとは名前も想像していなかったのだ。鬼殺隊というのは命を賭しているだけあって稼ぎもいいのだろうかと下世話な推測をしてしまうくらいには、名前は驚愕し物を言えずにいた。そんな名前を不死川は一瞥して、ふっと空気を揺らし目を細めて笑う。

「すげぇ阿呆ヅラしてんなァ?口開いてんぞォ」
「っは!すみません…!あっ、不死川様、お屋敷の方はどれくらいいらっしゃるのでしょう?さっそくですが皆様にご挨拶を…」
「必要ねェ。ここには俺しか住んでねぇからなァ」
「えぇ〜っ!?」

さらりと言ってのけた不死川に、名前は再び大きな瞳を零れ落ちんばかりに見開く。いちいち反応がでけェ、と不死川は彼女の頬をむにっと摘んだ。ほんの少し咎めるためにそうした不死川だったが、名前の頬の柔く絹のような手触りに夢中になってふにふにむにむにと指先を遊ばせる。

「い、いひゃいれふ…」
「大福みてぇだなァ」
「ひどいっ…!」
「ふ、褒めてんだよ。オラ、ぼけっとしてねぇで行くぞォ」
「あっ、はい…!」

摘んでいた頬からぱっと手を離した不死川が穏やかに目を細めて笑い、名前の着物等を包んだ大きな風呂敷を片手に上がり口へと進んでいく。名前は未だに信じられない心持ちでその後を追い、新たに始まる不死川との共同生活に想いを馳せた。

厨や厠、湯殿から縁側等を順に案内される最中、名前は屋敷の立派さに改めて思ったことを口にした。

「不死川様、これだけ広いお屋敷だとお手入れも大変なのでは…?女中の方などは雇われないのですか?」

どうやら襖の建て付けが気になったらしい不死川はがたがたと襖を嵌め直し始める。その逞しい背中に向けて名前が疑問を投げかければ、ふいに振り返った不死川は問いの意図が分からないとばかりに首を傾げた。

「別に大して苦労はしてねェ。それに他人を屋敷に入れんのは好かねぇんだよ」
「え…?」

では自分はどうなるのだろうか。もしかして不死川様は私に気を使って嫌々ここに置いて下さるのだろうか。と持ち前の悲観的な思考で眉を下げた名前に、不死川は苦笑して向かい合い、小さな頭にぽんと手を置いた。不死川とてまた、名前が何を考えているのかなど全てお見通しなのである。

「おまえは他人じゃねぇだろォ」
「え、では…。あ、幼馴染み?…とは違いますし、うーん、妹のようなものでしょうか…?」
「……ハァァ…、」

あまりにも頓珍漢なことを言い出し、うーんと口を尖らせて悩む名前を目の前に、不死川は溜め息を吐き出して痺れを切らし、その尖った唇に己のそれを重ねた。刹那見開かれた大きな瞳は、そのうち零れ落ちてしまいそうだと考えながら。そうして触れるだけの口吸いをして顔を離すと名前は茹で蛸のように真っ赤になって小さく震え出すので、不死川は満足げに口角を上げて彼女の柔い唇を親指ですりすりと撫ぜた。

「恋仲だろうがァ。それともそう思ってんのは俺だけかァ?」
「えっ、あ…」
「おまえが好きだっつっただろ」

慈愛に満ちた双眸で見つめられ、まるで犬猫にするように頭をわしゃわしゃと撫でる不死川に、名前は気恥しさやら嬉しさやらを胸いっぱいに抱えて花が咲くように頬を綻ばせた。

「私も、不死川様が大好きです」
「ッ、ハァ〜〜…、鍛錬が足りねぇみてーだなァ…」
「へ?」
「いや、こっちの話だァ」

僅かに困惑を含んで笑う不死川に、名前はその意味に気付くこともなく首を傾げる。不死川がいう鍛錬とは精神面でのものであって、名前の愛くるしさに気を抜けばすぐにでも手を出したくなってしまう己への戒めでもあった。当の本人は、無意識のうちに不死川の欲を煽っていることなど露知らずであるから余計タチが悪い。そうなれば不死川が理性を総動員させて耐え忍ぶしかなくなるというわけである。
あの泣く子も黙る風柱が一介の元遊女に振り回されている様は、柱の面々が見れば笑い者になるか酒の肴にされそうなものだ。けれども不死川本人はさして気にした様子もなく、さらにいうと満更でもなさそうなので、名前への深い愛情や庇護欲が窺い知れる。まあ彼としてもそんな顔を同僚達に見せればどうなるか嫌という程わかっているので、名前の前以外では外行きの般若の面を顔に貼り付けているのだが。
そうこうしているうちに辿り着いた和室の襖を開け放ち、不死川が親指で室内を指し示す。

「ここがおまえの部屋だ、好きに使え」
「わぁ、一室使わせて頂けるなんて…。ありがとうございます、不死川様」
「俺の部屋は隣、な。布団は全部俺の部屋にある。夜は俺の部屋で寝りゃァいい」
「………?いま、なんと…?」

とんでもない言葉が耳に飛び込んできた名前は耳を疑い、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。不死川は不死川で、その反応に合点がいかず腕を組んで怪訝な表情を浮かべている。

「だから、俺の部屋で一緒に寝りゃァいいだろって」
「えぇ!?いやです絶対だめです!」
「あ゛…?」

首が千切れそうなほどぶんぶんとかぶりを振って断固拒否の姿勢を崩さない名前に、びきりと青筋を浮き上がらせて不死川は腹の底から唸るような低い怒声を発した。たった今しがた改めて気持ちを確かめあったばかりだというのに拒否するとはどういう了見だァ?とありありと顔に書いてある。

「おい、なにが不満だ、あァ?」
「か、勘弁して下さいっ!だめなものはだめなんです!」
「あ、てめ、待てコラ!」

名前は脱兎のごとく与えられたばかりの部屋に逃げ込んだがそれを不死川がみすみす逃してやるはずもなく、漆喰壁に追い詰め顔の横に両腕をつく形で名前の逃げ場を塞いだ。まるで獰猛な獣に睨まれた小動物のように震える名前に顔を近付け、鋭い双眸で彼女の大きな瞳を射抜く。

「廓で散々同衾したじゃねぇか。今更恥ずかしいだとか言わねぇよなァ?」
「ぅ……」
「オラ、言え。言わなきゃこのまんま腰抜かすまで口吸いすんぞォ」

果たしてそれは罰になるのだろうかとふと考えてしまう名前だったが、不死川のことだから本気で腰が砕け立てなくなるまでやりかねないと危機感を覚え、おずおずと口を開いた。

「寂しく、なりそうだから、です…」
「あ?寂しい?」
「はい…。夜半、不死川様が鬼狩りに出られた際に…、残り香があると、寂しくなりそうだから…。不死川様は命を賭してお仕事をされているのに、寂しいだなんてそんな身勝手な思いを抱きたくないのです…」

俯いてかろうじて聴き取れる小さな声で呟く名前に、不死川は微かに顔を赤らめて口元を手で覆った。そうでもしなければ緩んだ口元を隠せなかったからだ。
ハァ??なんだそれ、クソ可愛いな!!俺の匂いだけじゃ足りねぇってことか?は???クッッッソ可愛いなオイ!!!と心うちで悶えのたうち回り、そして最後の言葉は意に反して口から出てしまった。怒りながらクソ可愛いなどと半ば叫んだ不死川に、ぎょっと目をまん丸くして固まる名前。そんな彼女を今すぐに組み敷いて全身に自分の証を刻み付けたくなるのを必死に手繰り寄せた理性で抑え、不死川はふう、と呼吸を整えた。

「わかった、なら寝床は別で構わねェ。"当分は"、な」
「う、すみません…我が儘を言ってしまって…。……え、当分は?」
「どうせそのうち自分の部屋に帰る気力も体力もなくなるだろうしなァ」
「え?」

きょとんと首を傾げる名前を他所に、不死川の口元はにやりと意地悪く弧を描いた。そのまま彼女の耳元に顔を寄せて、薄い耳朶をかぷりと食む。

「ッひぁ!?」
「そのうちわからせてやらァ」
「な、ななっ、なん、…えぇっ!?」

ぼそりとあまく低く意味深な言葉を吹き込まれ、顔を真っ赤に染めて慌てふためく名前を、不死川はくつくつと笑いながら心底愛おしそうに見つめる。

こうしてときと屋の元遊女、名前はめでたく風柱邸に身を置く運びとなった。名前が不死川の言葉の本当の意味を身をもって理解することになるのは、それからおおよそ一月後の話。

2020.10.18
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