03
先生と付き合い始めて、三ヶ月の月日が流れた。誰にも公言できない秘め事のような付き合いだけれど、そんなものは百年という前世から続く執念のような想いに比べれば本当に些細なものだった。私にとっては、先生とまた一緒にいられることが何より大切で幸せなことなのだ。
けれど、ひとつだけ不満があるとすれば、それはあまりにもプラトニックすぎるこの関係のこと。愛されていないわけではないし、むしろ前世と変わらないくらい、もしくはそれ以上に愛されていると思う。それは先生の態度や表情から伝わってくるから間違いない、はずだ。もしかすると、だからこそそういった事に敢えて及ばないのかもしれないけれど、身も心も結ばれたいと思ってしまうのははしたないことなのだろうか。
「……はぁ」
「あ?俺の前で溜め息とはいい度胸だなァ?」
向かいに座る先生が、ぴくりと眉を動かして凄む。それに応えることなく、先生が作ってくれたシチューをスプーンで掬って口に運んだ。お店でも出す気なのかと思ってしまうのほど美味しいのが悔しい。
この三ヶ月間は、毎週金曜日にこうして先生のマンションにお邪魔させてもらって、翌日の夕方に自宅へ帰るというのが恒例となっていた。先生のお手製のご飯を食べて、お風呂を借りて、それから同じベッドで寝るのだ。それなのに先生は一度も私に手を出さない。キスはたくさんしてくれても、その続きはしてくれない。昔はそうじゃなかったのになぁ。いや、昔と今ではそもそもの状況が違うか。それこそ実弥さんは生死をかけて日々鬼を斬っていたし、私も看護役と言えど危険がゼロではなかったから、時間があればそういう事をしていた気がする。そこには人間の繁殖本能のようなものも含まれていたのかもしれない。今はそんなご時世ではないから、必要にかられてすることもないんだろうけれど…。でも、やっぱり考えてしまうのだ。女として見られていないんじゃないか、私には魅力がないんじゃないか、と。
「先生」
「おい、シカトしてんじゃねェ」
「先生、どうしてえっちしてくれないんですか」
「っ、ぐ、…っげほ、ごほっ……なんつったァ!?」
「えっちしてくれないの、どうしてですか」
盛大に噎せる先生におしぼりを差し出しながらもう一度ゆっくり言葉を並べれば、先生はこれでもかと眉間に深い皺を寄せて私を凝視した。なに言ってんだこいつ、と顔に書いてある。
「先生とえっちしたいです」
「っな、なん、……熱でもあんのかァ?」
「ないです。私が、生徒だからだめなんですか」
「おい落ち着け馬鹿…」
「魅力がないからですか」
「聞いてんのか、苗字!」
「先生の彼女だっておもってるの、私だけですか……?」
こんなこと、本当は言うつもりなんてなかった。ただでさえ歳の差もあるし、教師と生徒だし、子供が駄々を捏ねているだけのようなみっともない姿を先生に見せたくなかった。でも我慢の限界だった。性行為がしたいんじゃない。先生を、実弥さんをもっと近くで感じたいんだ。離れていた時間があまりにも長すぎて、キスなんかじゃちっとも足りない。先生はなんにも覚えてないかもしれないけれど、だって私は、百年前に死に別れた時から、ずっとずっとあなたに会いたかったんだよ。
「ハァ………」
「せんせ…っ、」
深く重い溜め息とともに立ち上がった先生が私の腕を掴んで、その拍子に私の手の中からスプーンが滑り落ちた。それを拾うこともせず、私を無理矢理立たせてずんずんと歩き出した先生に為す術もなく連れられた先はお風呂場だった。乱暴にスライド式のガラス戸を開けて、次の瞬間には私は中に押し込まれていた。
「ちっとは頭冷やせェ」
「!?まって、先生…!」
私を冷ややかな目で見下ろしてそう言い放つと、ぴしゃりと閉められる扉。ひんやりした床に崩れ落ちるように座り込んで、呆然とその扉を見つめる。
どうしよう、怒らせた。いつもとは纏う空気すら違う、本気のそれ。子供っぽいと呆れられただろうか。面倒だと軽蔑された?でも、私がどれだけ先生のことが好きか、わかっているくせに。ずるい、ずるいです、先生は。最初からわかっていたことだけれど、想いの大きさが違いすぎたのだ。その証拠に、私は先生を忘れなかったのに、先生は私を忘れた。そしてこの百年の間に、私は想いの伝え方を忘れてしまっていた。
洋服も脱がずにシャワーのコックを捻る。給湯ボタンも押していないシャワーヘッドからは、冷水が雨のように降り注いだ。暫く頭からそれを浴びていれば、大きな足音とともに乱暴に開かれるガラス戸。
「ってめぇ、なにしてやがるこの馬鹿がァ!!」
「先生……」
鬼のような形相で浴室に入ってきた先生は、自分の洋服が濡れるのも厭わずにコックを捻って水を止めると、バスタオルで私の身体を包み込んだ。
「ほんとに冷水浴びる馬鹿がどこにいんだよ!風邪引くだろうがァ!」
「…せんせ、…先生……っごめんなさい…私、」
ぼろぼろと涙が零れて止め方がわからないまま、壊れたように先生に謝る。けれど先生はなにも言わずにぺたりと座り込んだ私の膝裏に腕を差し込んで、ぐっと力を入れて持ち上げた。ふわりと特有の浮遊感に襲われ、思わず先生の首に手を回してしがみつく。そのまま運ばれた先は寝室だった。ゆっくりとベッドへ下ろされ、濡れた身体をバスタオルで拭われる。
「先生、なんで……私、嫌われたんじゃ…」
「いつ俺がそんなこと言った」
「だって、先生を怒らせて……馬鹿なことして……」
「あァそうだなァ。てめぇがここまで馬鹿だとは思ってなかった」
ああ、今度こそ本当に捨てられてしまう。せっかく私を見てくれたのに、それを自分で台無しにした。先生が傍にいてくれるだけでいいなんて言いながら、あれもこれもとどんどん強欲になってしまったから。本当に、なんて馬鹿なんだろう。
俯いて涙を堪えていれば、先生のおおきな手が顎に触れて上を向かされた。
「それでも俺は、そんなおまえが可愛くてしょうがねェ」
「……え?」
「抱きてぇに決まってんだろォ。どんだけ俺が煽られて、その度にどんだけ耐えてきたかわかんねぇだろうなァ」
「な、なんで、それならなんで…」
「大事だからだ、苗字が。言っただろ、俺はどうなってもいいが、おまえは違う。一度抱いたら、歯止めなんざ効かなくなる。俺の汚ねえ欲でおまえの人生を棒に振らせるわけにゃいかねぇんだよ」
真剣で愛おしさが込められた双眸がじっと私を見つめる。ほっとして、嬉しくて、切なくて、耐えきれなかった涙が一筋頬を伝った。勝手に不安になって勝手に先生に当たるような幼稚で未熟な私のことを、先生はずっと誰よりも考えてくれていた。私以上に私のことを考えて、自分のことはそっちのけで考えまくって、そうやって全部まるっと抱えて、私を身に余るほどのおおきな愛で包んでくれるのだ。先生が、実弥さんが、どうしようもなく好きで愛おしくて、どうにかなってしまいそうだ。
「けどな、そうやって暴走されたんじゃかなわねぇし、おまえはまた無意識に俺を煽りやがるから、」
ぐ、と強く抱き締められて、耳元に寄せられた唇は空気を震わせた。
いまから苗字を、死ぬほど滅茶苦茶に可愛がってやるよォ。
先生は、確かにそう言ったのだった。