02

夜道を走る車内には重苦しい空気が流れていた。
なんとなく助手席に乗せてもらうのは気が引けて後部ドアを開けば、先生は荒々しくドアを閉めて半ば無理矢理助手席に私を詰め込んだ。シートベルト締めろよ、と言ったきりかれこれ十分は沈黙が続いていた。
先生がつけている香水と同じ香りのカーフレグランス。私が大好きな香りだ。けれど今はそれすら胸を苦しくさせるだけだった。ちらりと先生を窺う。片手で器用にハンドルを操作しながら、なにを考えているのか読み取れない表情の先生は、ただ真っ直ぐ前を見ていた。私が感情に任せて踏み込んではいけないところまで踏み込んでしまったから、怒っているか、はたまた呆れられたか、どちらにしても今更取り返しなんてつかない。

「ちょっと待ってろォ」

気が付けばいつの間にか車は止まっていて、先先は私に目もくれずそれだけ言い残して車を降りていってしまった。ああ、コンビニか…。暗い道を走っていたから、コンビニから漏れる照明の人工的な明るさに目が眩む。
今なら車を降りて勝手に居なくなってしまえるな、なんて考えたけれど、すぐにそんな考えは追いやった。先生のことだ、私が居なくなれば必死に探し回ってしまうだろう。だって私は大事な生徒、だから。私はなにも先生に迷惑をかけたいわけではないのだ。
先生が戻ってくる気配もないから、なんとなく車内をぐるりと見渡す。助手席には乗せてもらえないだとか、女物の荷物があるとか、そういうわかりやすいなにかがあれば諦めもついたんだろうか。実際は助手席に詰め込まれるし、綺麗に整えられた車内からは女の影なんてなにひとつ感じないし、運転中の先生はそれはもう格好良いしで、諦めるどころかさらに先生を好きになってしまうのだから酷い話だ。私をもう一度見てくれるわけでもないのに、忘れさせてもくれない、酷い人。
ひとり頬を膨らませて助手席の窓から街灯に集まる夜光虫を見ていれば、ガチャリとドアが開かれる音とともに冷たいものが頬に当たった。

「っひゃ…!」
「オラ、これでも飲んどけ。夜とはいえクソあちぃからな。どうせろくに水分も取ってねぇんだろ」

結露して水滴をぽたぽた垂らすそれを受け取る。ミルクティーという絶妙なチョイスに、ぎゅうと胸が締め付けられた。だってこれは、前世で私が好んで飲んでいたものだったからだ。
その時代は乳製品が市場に出回り始めた頃で、紅茶が手に入る度にそこに牛乳を入れて嗜むのが蝶屋敷内で流行ったことがあった。呼び名はそのまま、紅茶牛乳なんて呼んでいたっけ。私はそれをいたく気に入って、もちろん実弥さんにもすぐにおすすめした。けれど残念ながら彼の口には合わなかったらしく、それからというもの私が紅茶牛乳を飲んでいるところを見かける度、実弥さんは顔を顰めていた記憶がある。
ああもう本当に、この不死川実弥という人は…。私のことなんて綺麗さっぱり忘れているくせに、こうして私の心を雁字搦めにして離してくれないのだ。

「ありがとう、ございます…」
「おー」

手に持ったミルクティーを飲むでもなく見つめる私をちらりと一瞥してから、先生はシフトレバーに手をかけた。再び夜道を走り出した車は徐々にスピードを上げて、またあの静寂がその場を包む。
結局私の家の前につくまで、先生はなにも話さなかった。

ゆっくりとスピードを落とした車が、ぴったり家の門扉の前で止まる。先生の長い指がハザードスイッチを押してシフトをパーキングに入れると同時に、私はすぐさまシートベルトを外した。

「あの、家まで送ってくれてありがとうございました。プリントの残りは明日の朝ちゃんとやるので。それじゃあ、」
「さっきの話のことだけどなァ」

一刻も早くこの密閉空間や気まずい空気から逃れたかった私は、手短にお礼を伝えながらドアに手をかけた。けれど先生がその言葉を途中で遮ってしばらくぶりに話し出したかと思えば、それは一番掘り返してほしくない話題だった。聞かずに車から降りてしまおうかとも思ったけれど、金縛りにあったかのように身体が動いてくれない。壊れかけのロボットのようにぎこちない動きで先生に顔を向ければ、先生は真っ直ぐに私を見つめていた。三白眼の瞳に射抜かれて、吸い込んだ息がひゅっと小さく音を立てた。
嫌だ、聞きたくない。本人から面と向かって、彼女がいるだとか、もしかしたら、それこそ結婚するだとか、そんな話を聞いた暁には多分私はもう立ち直れない。私だけが過去に囚われるハメになっているこの記憶を、死ぬまで恨むかもしれない。やっぱり話なんて聞かずに帰るんだったと後悔している私の耳に飛び込んできた言葉は、まったく想像もしていないものだった。

「根も葉もない噂なんざに一々騙されてんじゃねぇよ」
「……?」

心底忌々しげに吐き出されたそんな言葉に耳を疑う。何度もそれを頭の中で反芻してみるけれど、先生がいう噂というのがどれのことなのか理解ができなかった。ぽかんと固まっていれば、先生は鬱陶しそうに前髪をかき上げて深い溜め息を吐き出した。

「なにを勘違いしてんだか知らねぇけどなァ、彼女なんざいねぇよ」
「は、はい…?そんな見え見えの嘘つかなくても、」
「嘘じゃねェ」
「だってお見合いしたって。それですごく綺麗な彼女さんができた、って…」
「あァ?んなことまで広がってんのかよ、クソがァ…。確かに見合いもしたしその女と付き合った」

ほら、やっぱりそうなんじゃないか。根も葉もない噂なんかじゃなく、あれは紛れもなく事実だった。
先生の言葉にズキズキと胸が痛んで、思わず顔が歪む。そんな顔を見られたくないのと、先生の顔を見たくないので、俯いて手元に視線を落とした。そうして初めて、自分の手が小刻みに震えていたことに気付く。

「すぐ別れたけどなァ」
「……え?」
「お袋を安心させてやりたくて見合い話受けて付き合ってみたはいいが、そうじゃねぇって思っちまったんだよ。好きになれねぇのに続けてたんじゃ相手に失礼だろうがァ」

静かに話し出した先生を見れば、窓に肘をついてどこか遠くを見つめていた。その話ぶりは、まるで独り言のようにも思えた。
別れた、好きになれなかった、そんな言葉がぐるぐると脳内を駆け巡る。なにか言わなければと混乱する頭で考えた挙句、私の口をついて出てきたのはあまりにも拙い疑問だった。

「なんで…?」

聞いてから、なんでってなにがだと内心自分に突っ込む。けれど先生は私が聞きたかった本当の意味をちゃんと理解したらしく、再び私に視線を寄越すと、どこか自嘲するように薄く笑った。

「どっかの誰かさんが、頭ん中から離れてくれやしねぇからなァ」

ここまで言われて、その意味を理解しないほど子供では無かった。先生の瞳に浮かぶ優しくて暖かい色は、私が前世からよく知る実弥さんそのものだったからだ。私はこの瞳を知っている。何度その目で私を見て欲しいとこいねがったことだろうか。
きっと先生は記憶を取り戻したわけじゃない。そもそも私のほうが稀有な存在で、先生はこの先も一生、死ぬまで知らずにいるかもしれない。それでもいい。私をまた見てくれただけでいい。
けれど私だけが今まで振り回され続けていたことがなんだか気に入らなくて、少し意地悪したくなってしまったので、ここぞとばかりに女子高生という立場を利用させてもらうことにした。

「馬鹿だから、ちゃんと言ってくれないとわかりません…」
「おまえなァ…。成績トップクラスのくせに何言ってやがんだ」
「それとこれとは別ですもん」
「チッ……一度しか言わねぇからちゃんと聞いとけェ」

がしがしと頭を掻いて溜め息をひとつ零した先生は、真剣な表情で口を開いた。

「俺は教師で、おまえは生徒だ。けどそんなんどうでも良くなっちまうくらい、苗字が可愛くてしょうがねェ。おまえ、俺のもんになる気あるか?」
「……遅いです、どれだけ待ったと思ってるんですか」
「っは、大人ってのはなァ、てめぇの感情だけで動けねぇんだよバーカ」
「でも結局動いちゃってるじゃないですか」
「十分耐えたほうだろうがァ」

私の憎まれ口もひらりと躱して、くつくつと愉しそうに笑う先生から目が逸らせない。もうこれくらいでいいかな。だって、嬉しい言葉が聞けたのだから。

「ずっと先生がすきでした、大好きでした」
「……おー。最後に聞く。俺と付き合っても、なにかと我慢させちまったり、こそこそさせちまうかもしんねぇ。俺は最悪どうなっても構いやしねぇが、おまえは違う。高校はなにがなんでも卒業しろ。……できるか?」
「そんなの、先生の傍にいられない辛さに比べたら楽勝です」

ここには鬼もいなければ、毎晩死別に怯える必要もない。先生が私を見ていてくれるだけで、それだけでどんな辛いことも耐えられてしまう気がする。
先生は目を細めて笑うと、大きな手で私の頭を撫でた。

「もう離してやれねぇからな」
「こっちの台詞です!」
「可愛いこと言ってんじゃねェ。…ほら、遅くなったら怒られんだろ?また明日なァ」
「……はい」

あれは口からでまかせだったんだけど、とは言えず大人しく頷く。本当は離れたくないし、もう少し一緒にいたい。けれど我慢しますと言った手前、我が儘を言うわけにもいかない。今まではあんなに嬉しさでいっぱいだった心が、唐突に虚無感に襲われる。
無理やり笑顔を浮かべて、おやすみなさいと口にしながらドアに手をかければ、突然カーフレグランスではない先生の香りがふわりと香った。

「…っん、…!」

気が付けば、先生の端正な顔がすぐ目の前にあって、少しカサついた唇が私のそこに重なっていた。伏し目がちにじっと私を捉えながら、何度も何度も啄むように唇が重なっては離れてを繰り返される。

「せんせ、…っふぁ、」

深い口付けではないのに、なんだか動きがいやらしくて、頬に添えられた大きな手が時折耳たぶを擽るように動くものだから、鼻からくぐもった声が抜けた。それをにやりと笑って、先生は漸く唇を離した。

「は、…えろい声だしてんじゃねぇよ」
「なっ、先生がいきなり…!」
「今にも泣きそうな顔してたからだろうがァ」
「し、してません!」
「へいへい。オラ、早く帰れ」

自分から仕掛けたくせにあまりにも横暴すぎる言い草に、先生のえっち!へんたい!なんて思いつく限りの恨み言を残しながら車を降りた。鼻で笑われてまたむっとしたけれど、寂しかったのは事実だし、そうやって笑う先生もやっぱり死ぬほど格好良いので何も言い返せなかった。
小さくなっていく車を見つめながら、夢ならばどうか醒めないで欲しいと、まだ煩く脈打つ胸に手をあてて願った。


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