01

この世に生きる数多の人間の中で、前世の記憶がある者は一体どれくらいいるんだろうといつも考える。きっと数えるほどしかいないはずである。かくゆう私は、その数えるほどしかいないはずの内のひとりなのであるから、もしかすると意外と存在しているのかもしれない。本当に覚えていて欲しかった人は、私のことなんて何ひとつ覚えていないというのに。


「苗字、全員分の課題集めて、放課後準備室に持ってこい」
「嫌です」
「あァ?嫌じゃねェ、数学係だろうがァ!」
「知りません、嫌です」
「苗字、てめぇ……」

好きでそうなったわけじゃない。体調不良で欠席した日にたまたまクラスの係決めが行われて、余っていた枠が数学係だっただけのことで、決して私が自ら選んだわけじゃない。その場にいなかったのでこれは推測に過ぎないのだが、数学係は余るべくして余っていたのではないかと踏んでいる。なにしろ、今この瞬間に教壇に立って青筋を浮き上がらせている不死川実弥という数学教師は、クラス中どころか学園中で畏れられているのだから。
鋭い三白眼と仏頂面に、大きな傷痕。この学園の生徒じゃなければ、街中で擦れ違ってもまさかカタギの人間だとは思わないだろう。放つ声もドスが効いているのだから生徒も怖がるはずだ。よく見れば顔立ちはとても整っていて、一部隠れ不死川ファンがいるという噂も聞いたことがあるけれど、なんにせよこのクラスには、この機会にお近づきになりたいという強者はいなかったらしい。

「ちょ、ちょっとちょっと名前ちゃん…!先生、すっごく怒ってるよぉ…?」

後ろの席に座る友人の甘露寺蜜璃が、身を乗り出して不安そうに耳打ちをする。はぁ、と溜め息を漏らして窓の外に目を移せば、グラウンドには蜃気楼が浮かんでいた。真夏だもんなぁ、暑そうだなぁ。真夏と言えど昔はここまでじゃなかったのに。百年後の東京がまさかコンクリートジャングルになっているなんて、あの頃誰が想像していただろうか。

「……わかりました」
「返事が遅ェ!!」

その剣幕だけで人を殺せそうな数学教師が、怒りに任せて手にした名簿を教壇に叩きつける音が響く。クラス中の生徒がびくりと肩を跳ねさせる気配を感じつつ、私は未だにぼーっと蜃気楼を眺めていた。


廊下を進む足取りが鉛のように重い。それは抱えた40人分のプリント束のせいではなく、単純に心具合のせいだった。放課後の校舎はもう人も疎らで、それぞれの教室にぽつぽつと生徒が残っているだけだ。早いところこれを準備室に届けて、さっさと帰ってしまおうと、ずり落ちそうになった紙束を抱え直した時だった。

「ねぇ、聞いた?不死川先生の噂」

通りかかったひとつの教室から漏れ聞こえた女子生徒の声に、思わずぴたりと足が止まる。

「あ、聞いた聞いた!あれでしょ?お見合いして、すごい美人と付き合いはじめたとかってやつ」
「そうそう!さすがに本人には聞けないけどさぁ。意外と不死川先生も男なんだなぁって」

再び踏み出した足は、さらに重さを増していた。
私はおおよそ百年前、鬼殺隊という組織に所属していた。剣士ではなく、蝶屋敷で怪我人の手当てに奔走する看護役だった。それから、不死川実弥とは恋仲でもあった。祝言すら上げない、取り留めもない関係だった。それでも全身全霊で彼を愛していたし、彼も私をとても愛してくれていた。
現代に再び生を受けて、前世の記憶のすべてを取り戻したのは小学校に上がった頃。次々と津波のように押し寄せてくる記憶に、生まれたての赤ん坊のように三日三晩泣きじゃくった。悲しかったわけじゃない。簡単に命の灯火が消されることのない安寧の時代が訪れていたことに、かつての仲間の死がなにひとつ無駄ではなかったことに、張り詰めた糸が切れたように涙が止まらなかった。
最初は私だけが生まれ変わったんだと思っていた。この学園に入学するまでは。入学して早々、見覚えのあり過ぎる顔ぶれが日常生活を送っているのを目にした途端、また私は涙した。けれど、誰ひとりとして前世の記憶を持つ者はいなかった。それは、再び出会ってしまった不死川実弥も同じだった。でもまさか教師になっているとは想像もしていなかったから驚いた。
生まれ変わってもまた一緒になろうだとか、そんな大層な約束をしたわけでもない。ただ、私はもし生まれ変わっても、必ず実弥さんに恋をしてしまうだろうと勝手に確信していたし、実際寸分の狂いもなく恋に落ちた。実弥さんにも、できればほんの少しでも覚えていてもらいたいと、口には出さずとも願っていた。けれども結局それは、ただの絵空事だった。


「失礼します」
「遅ぇよ、どんだけ待ったと思ってんだァ」

準備室の扉を開ければ、夕日を背にして座る彼が組んだ長い足をしきりに揺らしていた。もうあの頃の、目を細めて笑いかけてくれる彼はどこにもいない。実弥さんにとって、私は数多の生徒のうちのひとりだ。何度自分に言い聞かせても、いつかなにかの拍子に思い出してくれるんじゃないかと、くだらない願望を捨てられずにいる。そんなことは有りもしないとわかっているから、必要以上に近付きたくないのだ。

「すみません。これ、全員分です。それじゃ」
「待て、運んで終わりじゃねぇぞ」

抱えていた紙束をどさりと彼の前に起き、すぐさま踵を返したがそれを不機嫌そうな声が制止した。

「…急いでるんですけど」
「明日の授業で使う資料、纏めんの手伝え」
「はい?」
「これで左上止めろ。いいなァ?」

ぽんと放り投げられたのを咄嗟に受け取れば、手の中にあるのはホチキス。それから机の上には山積みのプリント。流石に苦虫を噛み潰したような表情を浮かべてしまった。この量を纏めるとなると、確実に日が暮れるだろう。かなりの時間をふたりきりの空間で過ごさなければいけないなんて、どんな拷問だ。

「さ…、不死川先生。帰りが遅くなると親に怒られるんです」

危うく実弥さんと呼びかけて慌てて言い直す。それから尤もらしい理由をつけてやんわり断れば、先生はそれがどうしたとばかりに私を一瞥した。

「そうなりゃ車で送ってく。なんなら親御さんにも俺が説明すりゃいいだろォ」
「なんなんですか、もう…。人使い荒いです、横暴です」
「うるせェ、早く帰りてーなら手動かせ」

最初から拒否権なんてものは与えられてすらいなかったらしい。こうなればなにがなんでも日暮れ前に終わらせてやろうと、勢いよく椅子を引いて座り、3枚綴りにした紙をホチキスで止め始める。車で送られるなんて以ての外だ。本当に隣に乗せたい人は、別にいるくせに…。

狭い準備室には私がホチキスを止める音と、先生が赤ペンを走らせる小気味いい音だけが響いている。ちらりと先生の背後にある窓を見れば、既に太陽が沈み始め、群青色が混じり始めていた。けれど、手元にあるプリントは半分も減っていない。

「先生」
「あ?」
「これ、もしかしなくても全クラス分ですよね。なんで私だけなんですか。他のクラスの数学係は?」
「ここに何人も連れてきてみろ。作業もそっちのけで馬鹿騒ぎされんのが目に見えてんだよ」
「答えになってません。だからってなんで私なんですか」

可愛げの無いことを言っている自覚はあった。ただの八つ当たりだ、こんなの。でもこうして素っ気なくしてなければ、私を見てと、思い出してと縋ってしまいそうだった。その瞳に映るのが、私ならいいのにと願ってしまうのだ。

「そりゃ……苗字は優秀な生徒だからなァ」

突き付けられたその言葉は、私の胸に深く刺さった。内側から心臓を抉られるような痛みに、手からホチキスが滑り落ちて大きな音を立てた。大丈夫か、と掛けられた声に返事をすることもなく、落ちたそれを拾い上げる。その一瞬で、なんだか全てがどうでも良くなった気がした。

「先生の彼女さんは、どんな方なんですか」
「はァ?」
「早く帰って会いに行かなくていいんですか」
「…無駄口叩いてねぇで、早くやれェ」
「結婚とか、しないんですか」
「チッ……なんなんださっきからァ!教師のプライベートに口挟むんじゃねェ!」
「っすみません、帰ります。残りは明日早く来てやります」
「あァ!?まてコラ、苗字!」

立ち上がった拍子に椅子が倒れたのもそのままに、先生の怒声を背中に浴びながら準備室を飛び出す。完全に日が沈みきった校舎には、もう人影すらなかった。
せっかく苗字名前として前世の記憶を持ったまま生まれ変わったのに、せっかく実弥さんと再び巡り合うことができたのに、どうして私はただの生徒なんだろう。どうして実弥さんの隣にいられないんだろう。どうして、あの瞳に映るのが私じゃないんだろう。こんなことなら、前世の記憶なんて要らなかった。もしかしたら必然のように実弥さんに恋をしていたかもしれないけれど、それでもこうしてかつての記憶に振り回されることはなかった。ただ遠くから眺めているだけで満足できた。
でも私は全部覚えているのだ。愛おしそうに私を見つめる優しい眼差しも、抱き締められた時の温もりも、名前と呼ぶ優しい声も、全部全部覚えている。それがこの上なく辛くて、悲しくて堪らない。

「苗字、」

溢れて止まらない涙をシャツの袖で拭いながら下駄箱を開けようとした腕を、何故か息を切らした先生が掴んでいた。

「っ!?な、んで追いかけてくるんですか…!ほっといてください!」
「おい、なに泣いてやがる」
「先生には関係ないでしょ、離して…!」
「離さねェ。送ってくって言ったろ」

振りほどこうと腕に力を入れても、痛いくらいに掴まれたそれはびくともしない。中途半端にかけられる優しさほど残酷なものはないと、どうして分かってくれないんだろう。そんなことを考えて、それもそうかと納得した。この人は昔からこういう人だった。不器用で、泣きたくなるほど優しい人なのだ。

「……先生、痛いです。逃げないから、離してください」
「悪ィ…。ほら、行くぞ」

漸く腕が解放され、先生は車のキーを片手に先を歩き出した。掴まれていたそこは、酷く熱を持っていた。


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