前編
クソ生意気な看護役の女の勝手な物言いで三日間の療養を余儀なくされてからは散々だった。胡蝶が調合したであろう解毒薬の効きは悪くなく、傷口の化膿はその日のうちに引いたのだが、配合成分のなにかが俺の身体とは相性が悪かったらしくまる二日高熱に魘された。しかも、だ。その間名前は何故か、間借りしている俺の部屋に一緒に寝泊まりまでする始末で、出ていけと追い出そうものなら胡蝶特性の痺れ薬まで持ち出し一丁前に脅しをかけてきやがるので、とにかく精神的にも肉体的にもくたくただった。
丁度件の女が襖を開けて入ってきたが、背を向けて寝っ転がっていたのでどんな表情をしているかはわからなかった。というより、興味もないので振り向く手間も惜しい。
「風柱様、具合はいかがですか?」
「てめぇのせいで最悪な気分だぜェ…」
「お元気そうですね、良かったです」
「……ハァァ………」
こんな調子でいくら邪険に扱おうが無視を決め込もうがこの女はまったく折れず、のらりくらりと嫌味も躱され、結局のところ俺のほうが折れざるを得ないこの状況がとにかく気に入らない。腹が立って腹が立って仕方ない。だがまあいい。それもこれも今日いっぱいで終わりだ。明日には療養期間も明け、漸く自邸に戻れるのだからあと少しの辛抱だ。この女とももう暫く会うこともないだろう。
「昼餉をお持ちしましたが食べられますか?まだ消化がいいもののほうが良いかと思いましたので、さつま芋の茶粥と生姜の佃煮です」
ふわりと鼻腔をついた芋の甘い香りと生姜の香りに居所の悪かった腹の虫は治まり、代わりにやってきたのは食欲だった。どうも丸め込まれているようで癪に障るが食い物に罪はない。上体を起こして居住まいを正し箱膳に向かう。手を合わせていざ食事にありつこうとして、ふと目の前の名前を見やった。箱膳は俺の分ひとつだけ。この三日、一度たりともこの女とは食事を共にしていない。それが何故だか今更になって気になってしまった。
「おまえは食わねェのか」
「はい、残りがありますので後ほど頂きます」
「片付けも二度手間だろ。一緒に食えばいいだろうがァ」
「別に手間ではないですよ。蝶屋敷にいる時より余程暇がありますから。時間を潰せたほうが有難いんです」
「……そうかよォ」
わけがわからねえ女だとつくづく思う。床は平気で並べる癖に、箱膳は決して並べない。一線を引かれているような気がして、胃の辺りに言い様のない気持ち悪さを覚える。時間を潰したいと思うほど俺といるのが退屈なのか。そんなことを無意識のうちに考えてしまって、振り払うように音を立てて手を合わせ、茶粥をかき込んだ。
視線を感じちらりと名前を見れば、窺うような表情をしていたので思わず眉間に皺が寄る。
「どうですか?」
「あ?」
「茶粥だけだと味気ないかと思って、この家の女中の方に分けていただいたさつま芋を入れてみたのですが」
「……悪くはねェ」
「本当ですか?それなら良かったです」
途端に花が咲くように笑った名前に、危うく咀嚼しかけのさつま芋が喉奥に引っかかるところだった。
そうだ、この女のこういうところがなにもかも気に食わないのだ。拵える食事はどれも決まって美味いし、怪我のことになれば口煩くなるが普段は物静かで大人しく、下手をすれば居たことを忘れてしまうくらいに空気と化しているので邪魔だとすら思わない。俺が熱に魘されていれば夜半と言えども飛び起きて汗を拭って水を手渡してくる。極めつけは常に無表情を崩さず、あるいは不機嫌な顔ばかりしている癖に、こうして時折俺の言葉に嬉しそうに笑うものだから、その度に度肝を抜かれるのだ。なにもかもわけがわからなくて、いっそ苛立ちが募る。
この女が傍にいることに、たった三日で慣れてしまっている自分に一番腹が立つ。それどころか居心地が良いとすら感じてしまうなど、どうかしているとしか思えない。まさか脳にまで鬼の毒が回ったのだろうか。
「食欲がないのですか?」
「…あァ?」
「先ほどからあまり箸が進んでいらっしゃらないようですので…」
「そんなんじゃねェ。つーかじっと見てんじゃねェよ。食いにくいわ」
「それは失礼いたしました。では桶の水を変えてきますね。………風柱様?」
徐ろに立ち上がった名前の腕を、咄嗟に手を伸ばして掴んでしまいはっとする。すぐにその手を離したが、名前はきょとんと目をまるくして止まったままだ。
「……あー、…なんでもねェ」
「なにかご入用でした?」
「なんでもねェっつってんだろォ。とっとと行けェ」
腑に落ちない顔で、けれども文句を言うわけでもなく桶を持った名前が部屋を出て襖を閉めたのを皮切りに、深く長い溜め息が腹の底から溢れた。俺は一体何をしているんだ。ここにいろ、そんな言葉が危うく口元までせり上がってきて、寸でのところで飲み込んで良かったと心底安堵する。
身体が熱い。また熱がぶり返したようだ。もう寝てしまおう。そうして明日になってしまえばあの女とも、このわけのわからない腹の気持ち悪さともおさらばできるだろう。
***
突然夜中にぱっと目が覚めた。身体の怠さはもうほぼ無くなっている。額に乗せられた生温い手拭いを取り上体を起こしてふと横を見れば、三寸ほど空けて並べた布団の上ですやすやと寝息を立てる名前が目に入った。昨晩までは俺が身動ぎをするだけで起きていたが今はまったく起きる気配がないところを見ると、こいつも相当疲労が溜まっていたのだろう。口先では暇だと言いながら、甲斐甲斐しく本来必要のない世話を焼き、夜中も充分に寝られず働き詰めだったのだ。
そのまま距離も詰めず女の寝顔を見下ろす。息を呑むような端麗な顔が月明かりに照らされている。任務で同行した隊士や隠から噂は聞いていた。蝶屋敷の看護役に見目麗しい女がいると。ひと目見た時からこいつのことだろうとはわかったが、そういう目で女を見ることがてんでないし興味もなかった。だが今はどうだろう。何故俺はこいつから目が離せない?
昨晩までは高熱に魘され意識も朦朧としていたので気付くことがなかったが、薄手の襦袢姿の名前は酷く煽情的に見えた。合わせが僅かに肌蹴て、生じろい鎖骨や胸元が露わになっている。それが呼吸に合わせて上下する様に、腹の中から熱がせり上がってきて、吐いた息は妙に熱かった。いくら病人とは言えども一端の男を前にして、嫁入り前の女が晒していい姿ではないだろう。こいつは俺でなくても、同じような状況に置かれれば別の男にもこうしてあられもない姿を晒すのだろうか。思わずぎり、と奥歯を砕けんばかりに噛み締めていた。
気が付けば俺は名前の身体に跨り、薄く開いた薄紅色の唇を自分のそれで塞いでいた。
「…っ、ん、…」
鼻からくぐもった声が抜けたが、どうやらかなり深い眠りに落ちているようで起きる気配もない。半ば腹いせのようなもので始めた行為だったが、いざ口吸いをすればその柔く甘ささえ感じる唇に、俺は夢中で吸い付いていた。
やめろ、今ならまだ冗談で済ませられる。何事もなかったかのように再び寝ればいいだけだ。そう頭の中でガンガンと警鐘が鳴り響くものの、止められる気が一切しなかった。一度高まった欲はそう簡単には引かない。熱に浮かされるようにべろりと唇を舐めて、薄く開いた隙間に舌を捩じ込んだ。
───この女を、喰いたい。それだけが頭を支配していた。