リナリアをあなたに

藤襲山で行われた最終選別を終え、身を置かせてもらっている音柱邸に戻れば、珍しく門外に立っていた師範が見たこともない顔で私の元へ近寄って来た。それから、頬から始まって腕やら背中やら、全身隈なく見たり触ったりした後、ぎゅっと私を抱き締めたのだった。特段の怪我が無いことを確認したからか、心底安心しきったように吐き出された息遣いが耳を擽るものだから、とにかく落ち着かなかったのを覚えている。
その時から、私は師範である宇髄さんに淡い恋心を抱くようになった。いや、もしかすると最初から、気が付いていないだけでずっと惹かれていたのかもしれない。けれどこの密かな恋心は、このまま墓場まで持っていくつもりだ。

音柱の継子になってから、もう三年の月日が経とうとしていた。


「…っし、休憩にするか」
「はい。ありがとうございました、師範」

庭先でいつものように何本か手合わせをしてもらい、かなり日が高くなった頃に、師範は木刀を肩に背負うと私にそう声をかけた。今日もまた師範から一本も取れなかった。私はぜえぜえと肩で息をしているのに、一方師範は涼しい顔で汗のひとつすら浮かんでいない。これでも階級は着々と上がって来ているし、実践でもそれは実感しているのに、未だに師範には遠く及ばないのがなんとも悔しい。

「名前ー!ほら、これ使いな」
「まきをさん、ありがとうございます!」

縁側に立って稽古の様子を見ていたまきをさんが投げて寄こしてくれた手拭いを受け取って、額に浮かんだ玉のような汗を拭う。気が付けば師範はもう既に縁側に腰を下ろしていたので、私もその隣に並んで腰を下ろした。

「やっぱり、師範は凄いです」
「あん?今更だな、知らなかったのか?」
「それは知ってましたけど、こうも勝てないと自信無くしそうです…」
「ははっ、そう簡単に勝たれちゃ、柱の俺が自信無くすわ!」

師範は可笑しそうに笑いながら、私よりふたまわりも大きな手で私の頭を撫で回した。お陰で髪の毛はぐちゃぐちゃだし、心臓はばくばくと煩いし、胸はちくちくと痛む。師範がこうして触れてくれるのは嬉しい。けれどその反面、幼い子供にするような戯れが、師範にとっての私の位置付けをそのまま表しているようで、切なくなってしまうのだ。

「天元様、これを皆で食べましょう」
「お、西瓜じゃねーか。買ったのか?」

綺麗に切りそろえられた西瓜を手に現れたのは雛鶴さんだった。その瞬間に師範の手が離れていってしまって、感じたのは一抹の寂しさ。私はなんでもないフリをして、乱れた髪の毛を手櫛で梳いた。

「近所の方がお裾分けして下さったんですよ。なんでも今年は豊作らしくて」
「へぇ、すげぇな」
「あ〜!天元様〜!私を除け者にするなんてひどいですよぉ!」

手にした瑞々しい西瓜をまじまじと見つめる師範の元へ、バタバタと足音を立て駆け寄ってきたのは須磨さんだった。須磨さんはそのまま師範の背中に飛びつくと、広い背中に顔を埋めた。

「こらぁ!須磨、天元様に引っ付くな!」
「だってぇ〜!」
「まきを、構わねぇよ。須磨、俺がお前を除け者にするわけねぇだろ?ほら、泣いてないで食え!」

ぐすぐすと鼻をすする須磨さんの頭に手を置いてぽんぽんと優しく撫でる師範から、私は思わず目を逸らした。こんなのは見慣れた光景なのに、その度に息をするのが億劫になるほど胸が苦しくなる。苦しくて苦しくて、遂に耐えきれなくなった私はおもむろに立ち上がった。

「ん?名前、どうした?」
「私お茶、入れてきますね」
「名前ちゃん、それなら私が…」
「大丈夫です。丁度手も洗いたかったので。行ってきますね!」

雛鶴さんの申し出を遮るように言葉を重ねて、無理やり笑顔を浮かべて厨に向かう。なんだか、今日はあのまま師範たちの傍にいられる気がしなかった。だって、須磨さんにはあんなに優しく触れるから。私とはまるで違うんだと見せつけられているようだった。
でも私は、これからもこうして師範のすぐ傍で、なんでもないフリを続けながら生きていく。どんなに辛くてもどんなに苦しくても、決してこの想いは伝えない。私は師範の一番の継子でいたいし、師範や師範の大切なものを守れればそれでいいのだ。
なんて、そんなものは建前だ。私だけのものになってくれないなら要らない。私は雛鶴さんたちのように心が広いわけじゃないから、均等に分けられた愛情じゃ満足できない。一心に注いでくれる愛情が欲しい。私だけを愛して欲しい。だから継子のまま生きていく。何故なら継子は、師範にとって私ひとりだけなのだから。ほかの誰でもなく、これは私だけの特権なのだから。


***


「天元様はどうして名前ちゃんに想いを告げられないのですか?」
「んー?」

俺の膝の上で猫のようにまるくなる須磨を撫でながら、雛鶴に顔を向ける。その顔に浮かんでいたのは純粋な疑問だった。

「そうですよ天元様。私も名前なら、四人目として快く受け入れるのに」

まきをまでそんなことを言い始めるものだから、流石に苦笑が漏れる他なかった。そんな中でも須磨はすやすやと気持ちよさそうに眠りこけている。

「天元様のお気持ちはわかってますよ。それに、天元様だって名前ちゃんの気持ちに気付いてないはずないですよね?」
「……流石俺の嫁だよなぁ。でも俺はあいつに何も言う気はねぇよ」

庭に植えられた銀杏の木は、青々と葉をつけていた。秋になれば綺麗な鬱金色に染まるだろう。季節が巡るのは早いものだ。雛鶴とまきをは俺の返答に納得がいかない様子だったが、それ以上口を開くことはなかった。
名前をただの継子だと思えていたのは、最初の一年くらいだった。名前と出会った時には既に俺には三人の大事な嫁がいたし、その三人に分け隔てなく愛情を注いでいたつもりだった。けれどそんな嫁たちではなく、可愛い継子に対して並々ならぬ劣情を抱くようになったのは、名前が最終選別から戻ってきた時が始まりだったような気がする。この俺が門外で帰りを待つなんてそもそもおかしかった。七日ぶりに名前の姿を見た瞬間、死ぬほど安心したし、できればもう俺の傍から離れてほしくないと思った。それに気付いてしまえば、後はもう泥沼だった。名前が可愛くて可愛くて仕方がないし、日に日に色気まで纏うようになって、煩悩との葛藤の日々が続いていた。
それから、名前も俺を慕って想いを寄せてくれていることはとっくにわかっていた。駄々漏れなんだ、あいつは。そんなところまで可愛くて仕方ないのだからつくづく俺も救いようがない。雛鶴やまきをが言うように、許されるのならば嫁にしたい。これから先も俺の傍にいてくれるような、口約束ではない確約が欲しい。

「あいつがそれを望んでねぇんだから、何も言えねえよなぁ」
「天元様…」

自嘲まじりで吐き出した声は、俺らしくもなく地味で情けないものだった。名前が欲しいのは、嫁という立場なんかじゃない。複数いるうちのひとりではなく、自分ひとりだけを脇目も振らず愛してくれる、唯一無二の愛情を欲している。忍として生きてきた俺には、到底できるわけがなかった。
それがわかっているからこそ、何も言えない。この先も言うつもりはない。例えいつか俺から離れていってしまったとしても、俺には引き留める資格はないのだ。
だから俺は、今日も明日も、あいつにとって唯一無二でいられる師範として生きていく。


リナリア (和名: 姫金魚草)
ゴマノハグサ科・ウンラン属
花言葉 「この恋に気付いて」
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